12 閑な谷での別れの時
ランチタイムだったので、他にもお客さんはいたけど、案内されたテラス席は広くてパラソルもあったので逆光にもならず、写真を撮るのも問題ない。
お勧めのランチコースにモンブランとアイスコーヒーを頼んだ後で、しまった、椿のためにアイスティーにすればよかったかな、と気づき、追加オーダーをしようかと椿に聞いたら「私もあいすこおひい、を飲んでみたいです」と言い出した。
「え、だって苦いよ?前にミルクと砂糖使っても辛そうだったじゃない」
「それでも、椿さんの好きなもののおいしさを私ももう少しは知っておきたいと思いまして」
「無理しなくていいよ?」
「少しは無理をさせてください」
と譲らない。
仕方がないので、ミルクとガムシロはちゃんと入れるように言っておいた。
注文を終えると、春の海から柔らかな風が吹き抜けてきた。
暖かさの混じり始めた春の風だ。
テラス席の木のテーブルに置かれた水のグラスの中にはレモンが浮いている。
遠くでは船のエンジン音が小さく響き、牡蠣筏の黒い列が穏やかな海に浮かんでいた。
「……綺麗」
思わず呟くと、椿も頷く。
「海が、とても静かですね」
「瀬戸内海は波が穏やかで外洋みたいに荒れることも少ないからね」
「まるで湖みたいです」
確かにそうかもしれない。
島と島に囲まれて、光がやわらかく反射して。
瀬戸内の海は、どこか暮らしの中にある海だ。
外洋みたいに出かけていく海という感じではない。同じ海なのにな。たぶんそれは水平線が見えないからだ。
目に見える範囲にたくさんの陸地が点在する海は海に囲まれた日本と言う国の中ではそう多くはないだろう。
しばらくすると、先にアイスコーヒーが運ばれてきた。
透明なグラスの中で氷がからん、と鳴る。
私はまずそれを写真に撮った。すると椿の前にアイスコーヒーが置かれる。
「おお……」
椿が興味深そうにグラスを覗き込む。
「黒いですね」
「うん。苦いやつ」
「墨のようです」
「飲み物に対する感想じゃないなあ」
思わず笑う。
私はストローをくるくる回してから、一口飲んだ。
冷たい苦味が喉を通る。
夜勤明けの身体に染みる味だった。
「……おいしい」
「では私も」
椿が恐る恐るストローへ口をつける。
次の瞬間。
「にがっ……!」
あまりにも率直な反応に、私は吹き出した。
「だから言ったじゃん!」
「これは薬湯でしょうか……?」
「コーヒー!椿、そのままじゃ飲みにくいだろうから、これとこれ入れて混ぜてみて」
一緒に置かれているミルクとガムシロを指す。
椿はしばらく眉を寄せていたけれど、ミルクを混ぜ、さらにガムシロップを入れてもう一度飲む。
「……あ」
「どう?」
「少し、分かる気がします」
「ほんと?」
「苦いですが……甘くもあり、落ち着いた良い香りがします」
その言葉に、私は少し驚く。
ああ、本当にこの子は、ちゃんと“味わおう”としてくれるんだ。
自分の知らないものを。
自分の時代にはなかったものを。
そんなことを考えていると、ランチプレートが運ばれてきた。
メインは牡蠣のクリームパスタ。
副菜に魚のマリネ。
小さなサラダ。
焼きたてのパンとバター。
写真を撮ると、椿の前に同じプレートが現れる。
いや、今さらだけど、椿の分のお金払わずにここまで色々と食べてきてるの悪いな……。でも写真に撮ってるだけで、別にそれ以外は私はしてないし。
「わぁ……」
椿が目を丸くする。
「なんだかたくさんあって、絵巻の祝い膳みたいです」
「絵巻にクリームパスタは出てこないと思う」
でも、嬉しそうだからまあいいか。
椿は料理をひとつひとつ丁寧に見つめながら食べていた。
美味しいものを食べる時、椿は少しだけ目を細める。
その顔を見るのが、私は結構……いや、かなり好きだった。
やがて食後。
店員さんが、モンブランを運んできた。
「……!」
椿の顔が、ぱっと明るくなる。
細く絞られた栗色のクリーム。
粉砂糖。
添えられたアイス。
白い皿の上で、モンブランが春の光を受けていた。
「これが、もんぶらん……!」
「そんな感動する?」
「山みたいなけえきですね……!」
「まあモンブランの名前の意味は山だけど」
椿はしばらく真剣に眺めてから、小さくフォークを入れた。
一口。
それだけで、顔がほころぶ。
「……甘くて、幸せです。これは栗、ですか?」
「うん、そう。栗を柔らかくしてクリームにしてるの」
「素晴しいです……。そして美味しいです……」
「良かった」
その様子が可笑しくて、私もフォークを動かした。
栗の甘さが優しい。
疲れた身体に、ゆっくり染みていく味だった。
テラスの向こうでは、春の海がきらきら光っている。
そういえば。
最初に椿と出会った頃は、こんなふうに一緒に出かけるなんて思ってもみなかった。
ただ、早朝の閑谷学校で出会った幽霊の女の子。
最初は石塀の上から下りられなくて、でも下りた後は私のスマホの中で動画に夢中になったり一緒に出掛けたり。毎日一緒にいるのが楽しくて。
椿の今の時代にはない真っすぐな純真さや一生懸命さに、私は癒されて。
そこから、少しずつ。
少しずつ。
私の止まっていた時間も動き始めた。
「椿」
「はい?」
「私さ」
フォークを置いて、海を見る。
「コンビニ辞めた実感、まだあんまりないんだよね」
「……はい」
「今月から無職かぁって」
「……」
「でも、怖いより、今はちょっと楽しみかも」
ネイルの学校。
新しい勉強。
新しい毎日。
もちろん不安もある。
でも、不思議と前みたいな諦めはなかった。
椿が静かに微笑む。
「それはきっと、椿さんが前へ進み始めたからです」
「私、ちゃんと進めてる?」
「それは私にもわかりません。でも椿さんが前より楽しそうなのは分かります。私にはそれが、椿さんの道がもう目の前にあるように思えるのです」
「……道。私の、道」
「はい」
海風が吹く。
その瞬間。
ふわり、と。
桜の花びらが一枚、テラス席へ舞い込んできた。
それが、私のピンク色の爪の上に落ちて来た。
「あ」
思わず空を見上げる。
島の道沿いに植えられた桜が、春の風に揺れていた。
もう満開が近いその花は春の訪れを確かに告げているようだった。
「もう桜の満開が近いね」
「はい」
椿は花びらをそっと見つめる。
その横顔は、とても穏やかだった。
私は何となく思う。
きっと。
椿とはもうじきお別れだ。
その翌日。私は閑谷学校へ向かった。
閑谷学校の桜の満開の通知が来たからだ。
平日だけど、きっとそこそこ花見客は多そうだな、と思いながら向かう。
入り口から少し歩く駐車場に観光バスはいなかったけど、中の駐車場には周辺の老人ホームから来たらしいバンが何台か停まっていて、お年寄りたちが、スタッフさんたちと一緒にあちこちでお花見を楽しんでいた。それとご近所のこども園の遠足も今日みたいで、広場で小さな子どもたちが集団でお弁当を広げていた。
うん、やっぱりそこそこいたな。まあこれだけ桜が満開だったら来るよな……。
「今日は少し人が多いですね」
椿が桜を見ながら辺りを見回す。
「満開のニュース出たからね。日本人は桜が大好きだから、この季節になると桜の咲いているところに集まるんだよ」
「そうですね。私たちの頃もそうでした。もっとも、私たちの頃は山桜が多かったですが」
「やっぱり昔からそうなんだね」
「美しい花を見ることが楽しくない人はおりませんから」
ああ、だったら、今月末くらいに和気の藤公園に行くのもいいかもな。
あそこの藤は本当に幻想的できれいだから。
それから椿と一緒に昔の津田永忠の武家屋敷があったという場所へ行った。
今では石垣しか残っていないけど広い敷地だった。
すぐそばには茶屋のような建物も残っていた。
「ここへは何度かお父様や旦那様とも伺ったことがあります。ああ、今ではこのように残されているのですね……」
私もあまりこっちの奥のほうまでは来たことなかったけど、こういう史跡も残ってたんだな……。
「石塀の上から動けなかった長き時を思うと、本当に今の毎日は夢のようです。もう一度生き直している気すらします」
「それなら良かった」
私はそう返しながら、石垣の向こうに咲く山桜を見上げた。
淡い花びらが、春の風に揺れている。
閑谷学校のソメイヨシノは、街の中より少し遅れて満開になる。
それはここが谷間にあり、少し気温が低い場所だからかもしれない。
そのせいか、ここで咲く桜はどこか最後の春の始まりみたいに思えた。
「ねえ、椿」
「はい?」
「講堂、行こうか」
その言葉に、椿が少しだけ息を呑む。
私はスマホを握り直した。
最初にここへ来た時。
椿は講堂へ入れなかった。
入れてもらえなかった。
あの時は、あの幽霊たちが原因かなって思ってたけど、あれはただ椿が向こう側に行かなかっただけで関係ない。
でも今なら少しだけ分かる気がする。
きっと椿は、死んでから時間が止まっていた。
成仏するには大きな未練をここに、ううん、ここは象徴でしかない。
あまりにも「学びたい」という気持ちが残りすぎていたのだ。
旦那様と生きて幸せだったのは本当。
でもそれとは違う大きな未練があった。
志半ばで。
学びたくても学べなくて。
外の世界を見たくても見られなくて。
だからずっと、あそこへ入れなかった。
「……はい」
椿は静かに頷いた。
私たちは桜並木を戻り、講堂へ向かう。
花見客の笑い声。
子どもたちのはしゃぐ声。
春の風。
全部が穏やかだった。
入場券を買い、中に入ると何人かの観光客がいた。
聖廟と青々とした春の新芽が眩しい楷の木を横目に講堂の前へ辿り着く。
「近くで見るとやはり素晴らしいです……」
靴を脱いで廊下に上がる。
廊下から中を見て、スマホを向けると、椿が嬉しそうに笑った。
「昔、兄様を迎えに来た時に見た時のまま変わっておりませんね……。そうそう、兄様はあの柱のそばにいつも座っていらしたそうです」
「……怖い?」
「少しだけ」
「そっか」
私はスマホを胸の前で持ち直した。
「でも、大丈夫だよ」
「……」
「今の椿なら、きっと入れる」
しばらく沈黙が落ちる。
春の風が吹き、桜の花びらが目の前を流れていった。
そして。
ふんわりと蛍の光のようにスマホから椿の姿が消えて、目の前の講堂の床に立った。
「椿さん……私……入れました……」
「うん。おめでとう。良かったね」
「ああ……。ここにはたくさんの想いがあることが分かります……」
椿は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
講堂の窓へ近づく。
その向こうには青々とした楷の木があった。
「皆様もここに。私と一緒に参りましょう」
椿の声に、楷の木が揺れ、そこにあの日見た未練の塊のような女たちが現れた。
その女たちに椿は手を伸ばす。
私は無意識に息を止める。
椿が取り込まれるんじゃないかと思った。
でも。
椿の手は、そのまま静かに女たちを受け止めた。
そして受け止めた端から、女たちはキラキラと輝きながら春の空へ登っていく。
成仏した、ってこと?
「あ……」
「皆様の未練、想い、それもまた美しいものです。それを持って、ここから私たちの心を行くべき場所へ」
「椿……」
「椿さん、本当にたくさんのことをありがとうございました……。私は満たされました。なので、この皆様と一緒に呼ばれている場所へまいります」
小さな声だった。
「うん……。あのね、椿。私のほうこそいっぱいありがとう。あの日椿に会わなかったら、私、まだきっと何も動き出せないままだったよ」
「私も少しは椿さんのお役に立っておりましたのなら嬉しいです」
その声は、震えるほど嬉しそうだった。
私は気づけば笑っていた。
「うん。椿と友達になれて良かったって心から思うよ」
椿はゆっくり講堂の中を見回す。
磨かれた床。
高い天井。
柔らかな春の光。
窓から入り込む桜色の風が、静かに講堂を満たしていた。
「……綺麗」
ぽつりと椿が呟く。
その横顔は、どこか泣きそうだった。
「昔は、ここを外から見ることしかできませんでした」
「うん」
「兄様がここで学ばれているのを、ずっと羨ましく思っていました。私もここにずっと入ってみたかった……」
椿は静かに歩く。
一歩。
また一歩。
まるで夢を確かめるみたいに。
「私も、本当はここで学んでみたかったのです。でもここ以外で私はたくさんのことを学べました……」
その言葉に、胸が少しだけ締めつけられた。
女だから。
ただそれだけで、叶わなかった願い。
でも今。
椿はちゃんとここへ辿り着いた。
300年以上遅れてしまったけれど。
それでもちゃんと今、彼女は自分の夢を叶えてここに立てた。
椿は講堂の真ん中で立ち止まる。
そして、ゆっくり私に振り返った。
「椿さん」
「ん?」
「本当にありがとうございました」
その声は、とても穏やかだった。
「私、椿さんと出会えて、本当に幸せでした」
その瞬間。
春の風が、講堂の中を吹き抜ける。
桜の花びらが舞った。
光の中で、椿の輪郭が少しだけ淡く揺れる。
――あ。
ここで終わるんだ。
ちゃんと。
私と彼女の旅が。
藤公園にも連れて行きたかったな。たぶん、椿なら喜んでくれただろうに。
「……椿?」
呼ぶ声が少し掠れる。
でも椿は、泣きそうなくらい優しく笑った。
「大丈夫です」
その顔は、不思議なくらい穏やかだった。
「私、もう思い残すことがありません」
講堂の窓の向こうでは、満開の桜が揺れている。
私と椿の過ごした春だった。
約一か月半の旅が、今日終わった。
満開の桜の美しい日だった。
瀬戸内の好きな場所のロードムービーみたいなものを書いてみたかったのでいろいろ詰め込みました。楽しかったです。あとは9時更新のエピローグで終わりです




