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瀬戸内の春、君と閑《しずか》の谷から旅を始める【完結】  作者: ねねこ


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11/13

11 私の好きなもの

 その言葉を口にすると、不思議と胸の奥が少しだけざわついた。


 夢、というほど大げさなものじゃないと思っていた。


 好きだっただけ。

 綺麗だと思っていただけ。


 動画を見るのも、ただ何となく。


 ――そう思っていたのに。


「椿さんは、綺麗なものがお好きなのですね」

 椿が穏やかに言う。

「尾道の景色を見ている時も、とても楽しそうでした。桃のそふとくりいむの色も、海の色も、大事そうに見ておられました」

「……そんなことないよ」

「あります」

 きっぱり言われて、少しだけ笑ってしまう。

「爪紅も同じではありませんか?」

 窓の外では、尾道の灯りが静かに揺れている。

「好きな色を選んで、季節を乗せて、人の手を綺麗にする」

 椿はそこで少し微笑んだ。

「とても素敵な学びだと思います」


 ああ、そうか……。私まだ諦めきれてなかったんだ。


 貯金していた理由は、まあ単純にお金がないと困るから。

 そのうち車も買い替えるだろうし、転職活動の費用も必要だし。

 いつか一人暮らしもしたい気持ちもあった。

 とずっと考えていた。

 だから割としっかりと貯めてきていた。母には「何か貯金目標あるん?」なんてよく聞かれたけど「あるにこしたことないから」と答えていた。


 でも、お金を貯めていた一番の理由は、私の部屋の本棚と戸棚に残っていた。

 ネイル道具、ネイル雑誌にネイルの本。

 高校生の時にお小遣いでちょっとずつ買いそろえたもの。

 捨てようと何度も思ったけど、捨てられなかった。


「椿さんのお部屋にあったあのたくさんの本は、椿さんが好きで大事にしてきたものだったのですね……」

「……」

「捨てられなかったのはきっと、椿さんにとってずっと大切なものだったからです」

 その言葉が、妙に胸に残った。


 大切なもの。

 そんなふうに考えたことはなかった。

 ただ楽しくて好きだっただけ。


 でももし本当にどうでもよかったなら、五年も持ち続けたりしなかったのかもしれない。


「そうか、私は……まだ……」

「椿さんは、今の世を生きておられます」

 椿が静かに言う。

「学びたいと思えるものがあるのなら、それはとても幸せなことなのだと思います」

「……」

「だから、どうか諦めないでください」

「……そうか、そうだね。私にはまだその道もあるんだ」


 私の未来は私が切り開くしかないんだ。

 なら、一つずつ始めよう。


 尾道と言う街の中で私は椿に背中を押され、次に進むべき道を見つけた。

 窓の外では、尾道の灯りが静かに夜の海へ滲んでいた。


 変わっていくものはある。

 終わってしまうものもある。


 でもきっと、人はそのたびに、新しい道を選びながら生きていくのだ。

 どれほど険しい道でも諦められないものがあれば、それは光なのだから。



 

 翌日、お土産に尾道ラーメンとプリンとレモンケーキを買って、一路岡山へ帰る。

 帰り道のSAでもう一度尾道ラーメンを椿にせがまれて食べた。よっぽど気にいったらしい。

 まあ確かに美味しいから気持ちは分かるけど。

 一緒に食べたギョーザにも感動していた。



 岡山へ戻る高速道路は、行きより少しだけ静かだった。


 旅行が終わる。

 たった一泊二日なのに、不思議と長い時間を過ごした気がする。

 助手席に置いたお土産袋から、レモンケーキの甘い匂いがした。


「尾道、楽しかったね」

「はい……とても」

 椿の返事は、少しだけ名残惜しそうだった。

 そのあとしばらく、私たちは無言で流れていく景色を見ていた。

 でもその無言は嫌ではなかった。

 お互いに一泊二日の旅の思い出を、胸の中で反芻している時間だったから。



 家に帰ると、母がリビングでテレビを見ていた。

「あら、椿、おかえり。楽しかった?」

「うん。めちゃくちゃ歩いたけど」

 靴を脱ぎながらそう答えると、私はお土産袋をテーブルに置く。

「はい、尾道土産。尾道ラーメンとレモンケーキとプリン」

「わ、ありがとう。尾道なんて久しく行っとらんねえ」

 母は袋の中を覗き込みながら笑った。

 私は自分の部屋へ戻る。

 バッグを床に置き、ベッドへ座ると、どっと疲れが押し寄せてきた。

 でも嫌な疲れじゃない。

 スマホを開く。


 昨日と今日で撮った写真が何十枚も並んでいた。


 ロープウェイ。

 千光寺。

 坂道。

 猫。

 尾道ラーメン。


 そして、夕暮れの海。


「……いっぱい撮ったなあ」

「はい。どれも綺麗でした」

 椿が静かに笑う。

 私はそのまま写真をスクロールしていく。

 すると、一枚の写真で指が止まった。

 千光寺で撮った、春の海の写真。

 淡い光の中で、尾道の町が箱庭みたいに広がっている。

「椿」

「はい?」

「私、ちょっと調べてみようかな」

「何をですか?」

「ネイルの学校」

 口にした瞬間、自分でも少し驚いた。

 でも、不思議と嫌な感じはしなかった。

 むしろ、ようやくちゃんと言葉にできた気がした。

 私はスマホで検索を開く。


 岡山市 ネイルスクール 資格


 検索結果がいくつも並ぶ。


 専門学校。

 夜間講座。

 資格取得コース。


「……こんなにあるんだ」


 知らなかった。

 いや、本当は見ないようにしていただけかもしれない。

 椿が静かに画面を見つめている。


「夜でも学べるのですね」

「うん。仕事しながら通う人向けっぽい」

「未来の夜は明りがたくさんありますから、夜道でも危なくないのが夜でも学びの場所がある理由でしょうか?」

「ああ、うん、それはあると思う」


 スクロールしていくと、授業風景の写真が出てきた。


 机に並んだネイル道具。

 色とりどりのジェル。

 誰かの手や自分の手を真剣に飾っている人たち。


 その写真を見た瞬間胸の奥が、少しだけ熱くなった。


「……やっぱ好きなんだな、私」

 ぽつりと呟く。

 椿が穏やかに笑った。

「はい。きっとずっとお好きだったのですね」

 私は返事をせず、部屋の本棚へ目を向ける。

 そこには、ずっと処分できなかったネイル雑誌が並んでいた。


 流行遅れになったデザイン本と雑誌。

 使いかけのネイルチップ。

 ほとんど減っていないジェルとポリッシュ。


 五年。


 捨てられなかった。

 それが答えだったのかもしれない。



 その日の夜。

 夕飯のあと、私は珍しく自分から母に話しかけた。

 父はまだ仕事から帰っていなかった。

「ねえ」

「ん?」

「コンビニ、閉店するんだって」

 母が少し驚いた顔をする。

「え?あんたの働いてるとこ?」

「うん。4月の頭で」

「……」

 少しだけ沈黙が落ちた。

 味噌汁の湯気がゆっくり揺れる。

「……それでね」

 私は箸を置いた。

「次のこと、ちょっと考えてる」

 母がこちらを見る。

「ネイル、ちゃんと勉強してみたい」

 

 言った。

 ついに言った。


 高校卒業の時にはきちんと言えなかった言葉を。

 母はすぐには返事をしなかった。

 私はなんとなく視線を落とす。


「……今さらかもしれないけど」

「今さらじゃないんじゃろ?」


 思ったより早く返ってきた言葉に、私は顔を上げた。

 母は少し困ったみたいに笑っていた。


「五年ちゃんと働いて、自分で考えて出した答えなんじゃろ?」

「……うん」

「だったらええわ」

 胸の奥が、少しだけ熱くなる。

「そんなに好きだったんじゃな」

 その言葉に、私は一瞬だけ返事ができなかった。

 

 好きだった。

 ずっと。

 諦めたつもりだっただけで。

 私の胸の中に火種は残っていた。椿に出会って思い出せた火だ。


「お金は足りるん?」

「5年貯めて来たから、ちょっと調べてみたけど充分足りる。ただ、岡山市まで通わないといけない」

「だろうねえ。あんたが自分のお金で自分のやりたいことをやるならもう何も言わんわ。お父さんにはお母さんから話しておくけえ」

「……ありがとう、お母さん」

 母は「レモンケーキ、あとで食べるわ」と笑いながら立ち上がった。


 私は湯呑みに残ったお茶を見つめる。

 昔は、諦めることが大人になることだと思っていた。

 でも今は少しだけ違う。

 ちゃんと現実を見たあとでも、まだ好きだと思えるものがあるなら。

 それはきっと、簡単には消えない光だ。



 

 三月の終わりが近づくにつれて、景色は少しずつ春に染まり始めていた。


 通勤途中の国道では、ソメイヨシノの枝先がうっすら桃色に膨らみ始めている。

 昼間の空気も前より柔らかく暖かい。


 でも、その春の気配とは反対に、コンビニの中には少しずつ「終わり」の空気が増えていた。


 閉店まで、あと2週間。


 バックヤードには返送用の段ボールとオリコンが積まれ始め、雑誌コーナーの棚は少しずつ空いていく。

 長年貼られていたキャンペーンポスターも剥がされ、壁に残った日焼け跡だけが妙に目立っていた。

 閉店したらこの場所は地元の倉庫業の会社が買うことになっていると聞いた。

 元々かなり広い敷地だし、トラックを置くには十分だろう。


「なんか、寂しくなってきたねえ」

 夕方勤務のパートさんが、帰り際にぽつりと呟く。

「ほんとですね」


 私はレジ横の商品棚を整えながら頷いた。


 いつもと同じ仕事。

 いつもと同じ制服。

 なのに、全部が少しずつ「最後」になっていく。


 常連のおじさんも閉店を知ったらしく、


「ここ無くなると不便なんよなあ」


 と、レジでお弁当を受け取りながら苦笑していた。


 この店は、誰かの日常の一部だった。

 私にとってそうだったみたいに。

 夜勤に入る前、休憩室でスマホを開く。

「椿さん、お仕事おつかれ様です」

 いつもの私をいたわってくれる優しい声があった。


 静かに来て、静かに過ぎていく。

 春も。

 日常も。


 その日の夜勤は、不思議なくらい忙しかった。


 レジに並ぶ客。

 配送トラック。

 揚げ物の補充。

 宅配便の受付。


 身体は勝手に動く。


 五年繰り返した仕事だった。


 でも、ふと思う。


 あと何回、私はこのレジを打つんだろう。

 あと何回、この「ありがとうございました」を言うんだろう。


 閉店まで、あと2週間。

 店内では、本部の許可を得ての売り尽くしの割引が始まった。ほんの数十円だけど。


 お菓子の棚が目に見えて減っていく。

 文房具コーナーも飲み物の棚も歯抜けみたいになっていた。


「終わる店って、こんな感じなんだね」

 休憩中、同じ夜勤の大学生スタッフが呟いた。

 やっと彼の名前を覚えた。

 山崎くんだ。

「ね」

 私はいつものコーヒーを飲みながら、小さく返事をする。


 蛍光灯の白い光。

 機械音。

 冷蔵ケースの低い唸り。


 全部、ずっと変わらないと思っていた。


 でも実際は、少しずつ消えていく。


 その帰り道。

 空が少し白み始めた頃、国道沿いの桜並木が見えた。


「あ」


 思わず車を止める。


 淡い桜色。

 昨日より、明らかに花が増えている。

 私はスマホを取り出し、写真を撮った。


「椿、見て」

「まあ……!」


 画面の中で、椿が目を輝かせる。


「綺麗ですね……」

「うん。もうすぐ満開かな」


 しばらく二人で桜を見上げる。

 春の朝は静かだった。

 そしてその時、私はふと思い出す。

 最初に椿と出会った場所。

 閑谷学校。

 あそこにも桜がたくさんある。

 これからはお花見客も増えるだろう。


「……椿」

「はい?」

「桜、満開になったらさ」

 私は桜並木を見上げたまま言う。

「また閑谷学校、行こうか」

 少しだけ間が空く。


 それから椿は、どこか嬉しそうに笑った。


「はい。ぜひ」




 それから二週間。

 季節は急速に春へと変わり、5年間働いたコンビニでの最後の勤務の日が来た。

 一緒に働いてきた人たちとも、もしこれから会うとしたら近所のスーパーでバッタリ、くらいになるんだろうな。


 最後の夜勤はそれほど忙しくはなかったけど、最後の配送トラックのおじさんが「ここは車が停めやすくて良かったなぁ」と言っていた言葉が何だかひどく残った。

 仕事が終わる時間、オーナーが朝からやってきて、1人1人に声をかけてくれた。

「石井さんは仕事もまじめだし、無断欠勤や遅刻もなかったし、何より臨機応変にシフトに入ってくれるのが本当に助かったよ」

 と言ってもらえて、ああ、私、ちゃんとこの店で役に立ってたんだ、という実感がわいて嬉しくなった。



 最後のレジを閉める。

 長年聞き続けた電子音が、いつもより少しだけ静かに聞こえた。


 空になった棚。

 剥がされた販促ポスター。

 もう温められることのないホットスナックケース。

 今日のお昼にこの店は終わる。

 見慣れていたはずの景色なのに、今日は全部が少し違って見える。

「お疲れさまー」

 バックヤードから声が飛ぶ。

 大学生の山崎くんが、制服の名札を外しながら笑った。

「これで最後っすね」

「だね」

「石井さん、次決まってるんでしたっけ?」

「うーん、一応やりたいことはあるよ。山崎くんは?」

「俺は、日生のコンビニに明日から行きます。オーナーが口きいてくれたんで。石井さんは?」

「うん、ちょっと学校に行ってみようと思ってて。こんな年なのにね」

「いいじゃないですか、また学生やるって石井さんが決めたならやれば。何歳になってもやりたいことあるって強いっすよ」


 その言葉に、少しだけ照れくさくなる。


 五年前。

 高校を卒業したばかりの私は、そんなふうに言えなかった。


 ただ働いて、お金を貯めて、毎日を回していく。

 それだけで精一杯だった。


 でも今は違う。


 不安はある。

 ちゃんとやっていけるかも分からない。

 それでも、今私にはやりたいと思えるものがある。


 それはきっと、思っていたよりずっと幸せなことなんだ。


 タイムカードを押す。


 これで、本当に最後。

 制服を脱ぐと、首元が少しだけ軽くなった気がした。

 

 外へ出ると、空は白み始めていた。

 春の朝の空気はまだ少し冷たい。

 でも、その冷たさの奥に、ちゃんと柔らかな季節が混じっている。


 駐車場の端に立って、私は一度だけ店を振り返った。

 手には最後のコーヒー。

 二十四時間光り続けていた看板。

 毎日のように見ていた灯り。


 ここで働いた五年間は、きっともう戻らない。


 でも、不思議と後悔はなかった。


「……終わったな」


 小さく呟く。

 手に持ったスマホの向こうで、椿が静かに頷いた。


「はい。本当に、お疲れ様でした」


 その声は、とても優しかった。

 私は少しだけ笑って車に乗り込む。

 この車のドリンクホルダーにあの店のコーヒーを置くのも今日が最後だ。

 

 エンジンをかけると、ラジオから朝のニュースが流れ始めた。


 桜が満開になった地域の話。

 行楽シーズン。

 春休み。


 世界は、何事もなかったみたいに今日へ進んでいく。

 でもきっと、それでいい。

 人の毎日も、季節も、変わりながら続いていくものだから。

 

 国道へ出る途中、満開に近い桜が目に入る。


「あ……」


 思わず車をゆっくり走らせ、邪魔にならない場所に停める。

 淡い桜色が、早朝の光の中で静かに揺れている。

 日が昇る時間が日ごとに早くなっていて、もう薄暗さはない。


「椿、ほら、もうほとんど満開」

「はい……とても綺麗です」


 しばらく二人で桜を見上げる。


 花びらが風に乗って舞っていた。


 そして私は、ハンドルを握り直す。


「じゃあ今度は、約束通りだね」

「はい。閑谷へ参りましょう」

「あそこはこの辺りより満開が少し遅いの。だから、明後日くらいに行こうか」

「はい」


 なら今日は前から行ってみたかった日生のカフェに行ってみよう。

 モンブランがすごく美味しいって口コミで見た時から気になってたんだよね。

 

 一度家に帰ると、まだ出勤前だった父と母が「最後の勤務お疲れ様」と言ってくれて、少し気恥ずかしくなった。



 店は完全予約制と言うことだったので、12時に予約をして、少しだけ仮眠をした。

 目を覚ましてシャワーを浴びてから、ふと思い立ってネイルケースからピンクのポリッシュを出してきて爪にピンクのフレンチラインを入れて乾かしてからトップコートを塗った。

 シンプルだけど、私はフレンチラインのこのシンプルな潔い綺麗さが大好きだった。

 私の作業をスマホの中からジッと椿が見ていた。

「見て、椿」

 ひらひらとトップコートの乾いた爪を見せると、椿が手を叩く。

「とてもお似合いです!なんと鮮やかな桜の色!」

「これ、割とお高めのやつで好きな色なんだよね」

「ご自分で描かれているのを見ていました。とても真剣な顔で、兄様が勉強していた横顔を思い出しました」

「似てた?」

「はい。好きなことに真剣に向かう顔はどんな方でも素晴らしいと私は思います」


 そっか、真剣だったか、私。

 真剣に楽しんでた、久しぶりのネイルを。


「よし、じゃあ予約時間あるし頭島に行こうか、椿」

「島?今日は島に行くのですか?」

「うん。橋が架かって車で行けるようになった島にあるカフェ。モンブランが美味しいんだって」

「もんぶらん……?」

「甘味。遠い異国から伝わったケーキだよ」

「甘味……!!はい!楽しみです!」


 分かりやすいなぁ、と思いながら今日もいい天気なので海も島もきれいに見えることを期待して、私は椿と一緒に日生に向かった。橋を渡ると看板が出ていて、それほど分かりにくい場所ではなかったけど、駐車場からは少し歩かないといけなかった。

 だけど、店のある高台から見える景色はとてもきれいで、牡蠣筏もキラキラ輝いていておだやかな波がたくさんの島を彩っているように見えた。

明日の朝2回更新して終わりです。

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