10 尾道の夜
千光寺をあとにして、私たちはそのまま坂道を下ることにした。
「ろおぷうえいで下りないのですか?」
「せっかくだし、尾道は歩いて降りるのが楽しいんだよ」
「歩いて……この山を?」
「うん。ここは坂と階段の町だから」
そう言うと、椿は少しだけ身構えた。
でもその声はどこか楽しそうでもある。
石段をゆっくり降りていく。
途中には古い家が並び、猫避けなのか、小さな置物や鉢植えが玄関先に並んでいた。
尾道の坂道は、不思議な距離感をしている。
生活の匂いが近いのに、どこか映画のセットみたいなのだ。
昔から色んな映画のロケ地になったと聞いたこともある。
うん、これだけいい景色なら、映画に使われるのも分かる。帰ったら尾道でロケした映画、サブスクで探してみようかな。
曲がり角をひとつ折れるたびに景色が変わる。
海が見えたと思えば、急に細い路地になる。
昭和っぽい家かな、と思ったらおしゃれな古民家カフェだったり。
「迷路みたい」
「はい……でも、なんだか落ち着きますし、見るものすべてが楽しいです」
椿はそう言って、じっと町並みを見ていた。
途中、石段の途中で猫が昼寝していた。
「あ、いた」
「ねこ……!」
椿の声がぱっと明るくなる。
茶色と白のまだら猫。
こちらをちらっと見たあと、まるで気にしていないみたいにまた目を閉じる。
「逃げませんね……」
「尾道の猫、観光客慣れしてるから」
「立派です……」
何が立派なんだろう。
でも椿は本気で感心しているらしく、しばらく猫を見つめていた。
さらに坂を下ると、小さな古民家雑貨屋が見えてきた。
ガラス細工やポストカード、猫モチーフの小物が並ぶ店だった。
「あ、ちょっと入っていい?」
「はい!」
店の中は少し薄暗くて、古い木の床が軋む。
観光地なのにどこか静かで、落ち着く空気だった。
「かわいい……」
思わず手に取ったのは、桜模様の小さなしおり。
押し花みたいなデザインで、春っぽい。
「椿、こういうの好き?」
「はい。綺麗です」
その言葉を聞きながら、私はそのしおりを二枚手に取った。
一枚は自分用。
もう一枚は――なんとなく。
店を出ると、少しだけ日が傾き始めていた。
尾道の夕方は、光が柔らかい。
海からの風も少し冷たくなってきて、春がまだ途中なのを思い出させる。
「そろそろホテル行こうか」
「はい。でも……」
「ん?」
「まだ少しだけ、この町を歩いていたいです」
その言葉に、私は笑った。
「奇遇だね。私も」
「ではもう少し歩きましょう」
「じゃあ海沿いの遊歩道に行ってみようか?」
「はい……!」
坂道を抜けると、視界が一気に開けた。
目の前には尾道水道。
夕方の光を受けた海が、ゆっくり揺れている。
海沿いの遊歩道には観光客や地元の人がのんびり歩いていて、ベンチに座って話している人たちの姿も見えた。
「綺麗ですね……」
「うん。港町ならではの綺麗さがあるよね」
春の海風は少し冷たい。
でも歩いているとちょうどいいくらいだった。
すぐ近くを自転車が走っていく。
レンタサイクルらしい観光客のグループもいて、楽しそうな笑い声が聞こえた。
「ここから島に渡る人も多いんだよ」
「島に……?くるまで、ですか?」
「車でも行けるけど、ほら、あの人たちが使っている乗り物あるでしょ?自転車って言うんだけど」
「じてんしゃ……」
「うん。あれを使ってしまなみ海道っていう橋を渡って、四国まで行けるの」
椿がぴたりと動きを止めた。
「……あの乗り物で?」
「行けるらしいよ」
「橋を渡って……ですか?」
「うん」
「歩くことは?」
「できるらしいけど、さすがに遠すぎるよ。普通は車だね。あとは自転車が趣味の人は自転車で渡るって聞いたことある」
「人とは時々、意味が分からないことをしますね……」
真顔で言われて、思わず吹き出した。
「まあ、分からなくはない。さすがに私も歩きや自転車でここ渡ろうとは思わないもの」
「でも……少し楽しそうです」
「そうだね、楽しそうではある。でもそれをやりたいかどうかは別」
海沿いには古い倉庫を改装した店も並んでいて、ガラス張りのカフェからはオレンジ色の光が漏れていた。
その中の一軒の前で、私は足を止める。
「あ」
「どうしました?」
「プリンだ」
店先の看板に、尾道プリン、の文字。
しかもレモンソース付きらしい。
「……甘味だけど……食べる?」
「食べます」
即答だった。
テイクアウトのプリンを二つ買って、海の見えるベンチに座る。
蓋を開けてレモンソースをかけて写真を撮ると、椿の前にプリンが現れた。
「こうやって食べるんだよ」
スプーンですくうと、とろりと柔らかい。
嬉しそうに一足先に口に運んだ椿が感動した顔で
「おいしい……」
と呟く。
「レモン合うね」
「甘いのに、爽やかです……!これがれもん……!」
「うん、ここらあたりの名物。レモンケーキも美味しいらしいから買ってみようか」
「はい!」
椿は嬉しそうに何度も頷いていた。
その様子を見ながら、私はぼんやり海を見る。
船がゆっくり進んでいく。
波の音。
遠くで鳴る電車の音。
もう葉桜になりつつある河津桜が遊歩道にあって、もう少し早く来たら良かったかな、と少しだけ公開した。
知らない町なのに、なぜか落ち着く。
たぶん尾道って、急がない町なんだと思う。
空気がとてもゆったりしてる感じ。
だから椿も、こんなに楽しそうなんだろう。
「椿」
「はい?」
「尾道、来てよかった?」
そう聞くと、椿は少し驚いた顔をして、それからふわりと笑った。
「はい。とても」
その返事だけで、十分だった。
海沿いをしばらく歩いたあと、私たちはホテルへ戻った。
帰り道に前を通った尾道ラーメンの店は行列ができていたので、夕食に二敗目のラーメンにしようかと思っていたけど断念し、ホテルのレストランで焼きアナゴ定食を食べた。
私はウナギよりアナゴのほうが好きなので大満足の夕食だった。椿も美味しそうに食べていた。
それからホテルのパティスリーでレモンケーキを夜のおやつに買った。
チェックインを済ませ、カードキーを受け取って部屋へ向かう。
エレベーターの扉が開き、廊下を抜ける。
そして部屋のドアを開けた瞬間。
「わ……」
思わず声が漏れた。
カーテンの向こう、海沿いの灯りに見える夜の始まった海。
夕暮れから夜へ変わり始めた尾道水道が、窓いっぱいに広がっていた。
「椿、見て」
スマホを窓へ向けると、椿が息を呑む。
「まあ……!」
海の向こうには島の灯り。
岸沿いには船の明かり。
水面には、それが揺れて映っている。
昼間の尾道とは違う。
静かな夜の港町だった。
「綺麗……」
「はい……まるで星が海に落ちているみたいです」
その表現があまりにも綺麗で、私は少しだけ笑った。
「椿って時々すごいこと言うよね」
「そうでしょうか……?」
荷物を置いて、靴を脱いで、ベッドに倒れ込む。
いっぱい歩いた。
でも疲れより、満ち足りた感じの方が強い。
「今日は楽しかった?」
「はい!空を飛んで、海を見て、猫に会って、らあめんとぷろんを食べました!」
「ぷろんじゃなくてプリンね」
「……プリン、とても美味しかったです」
「うん。すごい充実した一日だったね」
「はい!」
その声が嬉しそうで、こっちまで楽しくなる。
少し休んでから、お風呂にも入って、部屋の灯りを少し落とす。
窓の外には夜の海。
静かだった。
スマホをテーブルに立てかけ、私は温かいお茶を飲む。
さっき買ってきたレモンケーキはアイシングが美味しくて風味も良くて、これは確かに名物になるわ、と納得のおいしさだった。
椿も「さっきのとは少し違いますが、こちらも爽やかでとても美味しいです!」とコンビニで買ったアイスティーと一緒に楽しんでいた。
「……あのね」
ぽつりと声が漏れる。
「はい?」
椿がこちらを見る。
少しだけ迷ってから、私は言った。
「実はね。私のバイト先、閉店するんだ」
椿が目を瞬かせる。
「へいてん……」
「うん。来月で終わりなの」
その言葉を口にした瞬間、改めて実感が押し寄せる。
終わる。
なくなる。
もう「いつも通りの場所」ではなくなる。
「高校卒業して、五年くらいあそこで働いてたんだよね。私、夜勤専門だったから、時給もかなり良くて。なんだかんだ、生活の一部だったからそれがいきなり来月でなくなるのかって」
窓の外を見る。
コンビニの灯りって、どこにでもある。
でもその「どこにでもある」が、なくなる時はちゃんと来る。
「……そうですか」
椿は静かに呟いた。
「寂しいですか?」
私は少し考えてから頷く。
「うん。多分」
ただのバイト先。
でも、そこにいた時間は確かに私の人生だった。
「なんかさ。最近ちょっと思うんだよね」
夜の海を見つめながら続ける。
「ずっと続くと思ってたものって、普通に終わるんだなって」
店。
景色。
人。
日常。
何もかも。
椿はしばらく黙っていた。
やがて、小さな声で言う。
「変わらぬものは、ありません」
その声は静かだった。
「私のいた時代でも、同じでした。人も、町も、いつか変わります」
窓の外で、船の灯りがゆっくり動いていく。
「でも」
椿が続ける。
「だからこそ、人は生きている今を大切にするのだと思います」
私は何も言えなかった。
ただ、夜の海を見ていた。
今日見た景色。
尾道の坂。
猫。
春の風。
きっといつか、この時間も終わる。
でも。
終わるから、覚えていたいと思うのかもしれない。
「……椿って、時々年寄りみたいなこと言うよね」
そう言うと、椿は少し困ったように笑った。
「私は椿さんより、ずっと昔の人ですから」
その返しが可笑しくて、私は吹き出した。
笑い声が、静かなホテルの部屋に小さく広がる。
しばらく黙って海を見ていると、椿がふと聞いた。
「椿さんは、その先……どうされるのですか?」
「その先?」
「お店がなくなったあとです」
私は少し笑う。
「どうするんだろ。まだ全然決めてない」
本当は、考えていないわけじゃない。
でも考えないようにしていた。
今の生活は嫌いじゃなかった。
夜勤も慣れてたし、給料も悪くない。
実家だから何とか貯金もできている。
家事の手伝いと多少お金を実家に入れることで住ませてもらえてることは本当にありがたくて。
だから、このままでも生きていけていた。
――あの話を思い出すまでは。
「……高校生の頃ね」
ぽつりと呟く。
「ネイルの勉強したかった時期があったんだ」
「ねいる……とは?」
「こういうの」
スマホの中に残していた、昔自分でやったセルフネイルの写真をスクロールする。
「まあ、爪紅ですね」
「昔はつまべに、って言ったんだね」
「はい。江戸で流行っているとのことで、旦那様がくださいました。爪先を綺麗にするのが楽しくて、家の中でだけでしたが、楽しんでおりました。今はいろいろな色があるのですね……」
「色だけじゃなくて、シール貼ったり絵を描いたりもできるよ」
椿が少し目を輝かせる。
「椿さんが、指先に絵を描くのですか?」
「描くっていうか……飾る?かな」
少し照れくさくなって笑う。
「高校卒業した時、専門学校行きたかったんだけどね。親に反対されて諦めた」
「……」
「まあ、現実的じゃないっていうのも分かるし。仕事にできる保証もないし」
だからコンビニで働いた。
気づけば五年経っていた。
実家だったおかげでそれなりに貯金もたまってる。
「でも」
窓に映る自分を見る。
「未だにネイル動画とか見ちゃうんだよね」
「それは、椿さんにとって今でも大事な学びたいことなのでは?」
「私が……学びたいこと……」




