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少年法の壁  作者: リンダ


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空が遠くなった日



第9話 空が遠くなった日


 理人は、空を見るのが好きだった。


 晴れた日の青さも、夕方に少しずつ色を変えていく雲も、冬の澄んだ夜に浮かぶ星も、子どものころから飽きずに眺めていられた。父の健斗が時々教えてくれる星座の名前を覚えたり、長野の飯山へ行ったときに見た、息をのむような満天の星を思い出したりするのも好きだった。


 海も好きだった。


 横須賀の街では、少し歩けば潮の匂いがした。学校の帰り道、遠くに見える船をぼんやり眺める時間が、理人にはあった。そこには、教室のざわめきとは別の広さがあった。何か嫌なことがあっても、空や海を見ていると、少しだけ呼吸がしやすくなる気がしていた。


 鉄道も好きだった。


 特に、路線図を見たり、車両の違いを調べたりするのが好きだった。父に連れられて電車を見に行ったこともあるし、時刻表をめくりながら「いつかここにも行ってみたい」と思うこともあった。車も嫌いではなかった。父が日産自動車で開発主任として働いていることを、理人は心のどこかで誇りに思っていた。


 母が鎌倉市の土産物店で働いていることも、嫌じゃなかった。

 観光地の店で、いろんな人が来て、いろんなものを売っている。その話を聞くのはちょっと面白かったし、たまに余った試作品のお菓子を持って帰ってきてくれるのも好きだった。


 そういう、小さな“好き”が、理人にはいくつもあった。


 だが、その一つ一つが、少しずつ教室の中で汚され始めていた。



 きっかけは、総合の時間だった。


 「自分の好きなものを短く紹介しましょう」という課題で、子どもたちは順番にノートへ書き込んでいた。スポーツ、ゲーム、漫画、動物、音楽。そんな言葉があちこちの机の上に並ぶ。


 理人は少し迷ってから、

 天体観測

 と書いた。


 その文字を見た瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ温かくなった。

 ああ、自分はこれが好きだったんだ、と改めて思い出すような感覚だった。


 だが、その時間の終わりごろ、後ろから江口の声が聞こえた。


「伊達って、星とか見てんの?」


 理人が振り返ると、江口は面白いものを見つけたような顔をしている。

 水田が横からノートを覗き込み、にやっと笑う。


「うわ、なんか地味」

「てか、暗くね?」


 小さな笑いが起きる。


 理人はとっさにノートを少し引いた。


「別に……普通だろ」


「普通か?」

 と江口が笑う。

「一人で夜に星見てるとか、なんかキモくね?」


 その言葉に、中島こころがくすっと吹き出した。


「わかる。なんか“ぼく繊細です”って感じ」


 神谷莉央はその会話をすぐには広げなかった。ただ、理人のノートをちらっと見てから、隣の藤井美咲に小さく言った。


「理人くんって、そういうの好きそう」


 その“そういうの”の中に含まれた温度が、理人には分かった。


 好きなものを言っただけなのに。

 ただそれだけなのに。

 どうして、そんな言い方をされなければいけないのか。


 理人は何も返さなかった。

 返したところで、また笑われる気がしたからだ。



 その日の放課後には、裏の連絡グループにさっそく書き込みが増えていた。


理人、星見るのが趣味とかやば

ガチで陰キャ


夜空見ながらポエム書いてそう


“今日はオリオンが僕に話しかけた”とか言ってそうで草


あいつ一人で線路とか見てそう

こわ


 それに神谷が続ける。


てか鉄道とかも好きらしいよ

ほんとそういう感じ


しかも親が車の会社なんでしょ?

なんかうける

車も電車も好きとか欲張りすぎ


 笑うスタンプが並ぶ。


 理人はもちろん、その会話を知らない。

 でも翌朝、教室に入った瞬間から、何かがまた少し変わっているのを感じた。


 何人かが、自分を見る目つきに、前よりはっきりした“分かった感じ”を持っている。


 ああ、昨日のあれが広がってる。


 理人はそう悟った。



 二時間目の休み時間、窓際で理人が路線図の載っている小さな雑誌を見ていると、江口がそれをひょいと持ち上げた。


「なにこれ」

「返して」


 理人が手を伸ばすと、江口は少し高く掲げる。


「鉄オタじゃん」

「ちが……別にオタクとかじゃなくて」

「いや、十分だろ」


 水田が横からページをめくる。


「うわ、なにこれ。車両形式とか見てんの?」

「きも」


 理人の耳が熱くなる。


「返してって」


「おまえの親、車作ってんだっけ?」

 と江口が笑う。

「自分ちの車だけ見とけよ」


 周りから小さな笑い声が上がる。


 理人がようやく雑誌を取り返したときには、表紙の端が少し折れていた。そんな小さなことでも、妙に胸に刺さる。


「大事にしてんの、それ?」


 中島こころが笑う。


 理人は「……別に」と言いながらも、折れた端を指先でそっと直した。


 その仕草を見て、また笑い声が漏れる。


 好きなものを大事にしているだけなのに。

 それさえも、今の教室では笑いの種になる。



 数日後、理人は理科室の窓から夕方の空を見上げる機会があった。


 薄い雲の切れ間に、春の淡い青が残っている。

 本来なら、そういう時間が好きだった。

 空の色が少しずつ夜へ変わっていく瞬間を見るのが、好きだった。


 でもその日、理人はほとんど何も感じなかった。


 きれいだな、という感覚が遠い。

 空はただそこにある背景で、自分には手の届かないものみたいだった。


 そのことに、理人自身がいちばん驚いていた。


 前なら、嫌なことがあったあとほど、空を見たかった。

 なのに今は、見上げる余裕すらない。


 頭の中には、次に何を言われるか、誰がどこで笑うか、昼休みをどうやってやり過ごすか、そんなことばかりが詰まっている。


 心が疲れ切ると、好きなものを見る力までなくなる。


 理人はそのことを、まだ言葉にはできなかった。



 そして攻撃は、理人本人だけでなく、家族へも向かい始めた。


 ある日の昼休み、鎌倉の土産物の話になったときだった。

 五年生のとき、母の店で売っているお菓子を話題にしたことを覚えていたらしい中島こころが、何気ない顔で言った。


「そういえば理人の母さんって、お土産屋だっけ」


「……うん」


「へえ」

 と神谷が口を挟む。

「観光地の店ってなんかベタベタしてそう。古くて汚い感じしない?」


 その言葉に、江口が吹き出した。


「わかる。せんべいの粉とかずっと落ちてそう」

「試食とか触った手でそのまま売ってそう」


 水田まで笑う。


 理人は顔を上げた。


「……そんなことない」


 思わず言い返した。


 母の店は、葵が毎日きれいに整えている。

 古い木の棚はあるが、それは“汚い”のではなく、落ち着いた雰囲気の店だ。観光客が気持ちよく買い物できるように、葵はいつも気を配っていた。


 それを、見たこともないくせに。


「え、なんでそんな必死?」

 と中島こころが笑う。


 神谷は少し肩をすくめた。


「だって、観光地の店ってそういうイメージあるじゃん。別に理人くんのお母さんのこと言ってるわけじゃないし」


 またその言い方だ。


 言っているくせに、言っていないことにする。

 傷つけるくせに、受け取った方が勝手に反応したみたいに見せる。


 理人は何も返せなくなった。



 父のことも同じだった。


 ある日、社会の授業で工場や企業の話になり、高石が「家族でそういう仕事をしている人がいたら教えてね」と何気なく言ったことがあった。


 理人は迷ったが、健斗が日産自動車で開発主任をしていることを小さな声で言った。

 誇らしかったからだ。

 父は遅くまで働いていて、難しいことも多いのだろうけれど、それでも一生懸命やっている。そのことを理人はちゃんと知っていた。


 だが、授業のあとで江口が笑いながら言った。


「開発主任って、どうせずっとパソコン見てるだけだろ」

「いや、会議で偉そうにしてるだけじゃね」

 と水田。

「でもできた車ダサかったら終わりじゃん」

 中島こころも笑う。

「理人んちの車、変なの作ってたりして」


 理人の中で、何かがじわじわと冷えていく。


 好きなもの。

 大事なもの。

 家族が頑張っていること。


 そういうものまで触られて、笑われて、泥みたいに扱われる。


 それがたまらなくつらかった。



 その夜、ベランダへ出てみても、理人は星を見る気になれなかった。


 空は晴れていた。

 春の夜にしては珍しく、いくつかの星がはっきり見える。

 本当なら、少しだけ嬉しくなるはずの夜だった。


 だが理人は手すりに触れたまま、すぐに部屋へ戻った。


 見ても仕方ない、と思ってしまったのだ。


 好きだと思ったものを、どうせまた誰かに笑われる。

 そんな気持ちが先に立って、空を見ること自体がむなしくなる。


 机の上には、前までよく眺めていた天体の本が置いてある。

 鉄道の雑誌もある。

 父が新しい車種の話をしてくれたときのパンフレットも、引き出しの中にしまってある。


 でも、そのどれにも手が伸びなかった。


 触れた瞬間に、教室で言われた言葉まで一緒に思い出してしまう気がした。


 星とかキモい。

 鉄道オタク。

 車だけ見とけ。

 汚い店。

 ダサい車。


 好きだったはずのものに、別の人間の汚い言葉がまとわりついてくる。


 理人はベッドの上に座ったまま、両手をぎゅっと握った。


 空が、遠い。


 海も、遠い。


 前はそこに逃げられたのに、今はもう、そこまで行く気力もない。



 葵は、その変化をさらに確信し始めていた。


 週末の夜、葵が部屋の前を通りかかったとき、理人の机の上に天体の本が開かれていないまま置かれているのが見えた。前なら、時間があるときには必ずどれかを手に取っていた。鉄道の本も同じだ。


 そしてその日、葵が何気なく「そういえば最近、星見てないの?」と聞いたとき、理人はほんの少し間を置いてから言った。


「……別に、もういい」


 その言い方が、葵にはひどく不自然だった。


「なんで?」

「なんでもない」

「好きだったやん」

「いいって」


 それで会話は終わった。

 でも葵の中では、終わらなかった。


 好きだったものから手を引く。

 前なら楽しかった話題を、自分から閉じる。

 それはただの気分じゃない。


 学校で何かが起きている。

 それも、理人の“好き”や“誇り”そのものを削るようなことが。


 葵は台所で皿を洗いながら、唇をきゅっと結んだ。


 高石との面談から数日。

 学校は「見ます」と言った。

 でも、何かが良くなっている気配はない。

 むしろ、理人はもっと静かになっている。


 このままじゃだめだ。


 その思いだけが、葵の中ではっきり大きくなっていった。



 その夜、理人はカーテンの隙間から少しだけ空を見た。


 星は見えている。

 でも、自分の心はそこまで届かない。


 ただ暗い天井みたいに、遠く広がっているだけだった。


 理人は静かにカーテンを閉めた。


 空はそこにある。

 海もそこにある。

 好きだったものも、消えたわけじゃない。


 それなのに、もう手が届かない。


 心が疲れすぎると、景色まで遠くなる。


 そのことを、理人は誰にも言えなかった。




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