よくあること、で終わらせるな
第8話 よくあること、で終わらせるな
五月の空は明るかった。
雲の切れ間から日差しが海へまっすぐ落ちて、波の表面がきらきらと光っている。横須賀の海辺にある野外活動施設には、朝から子どもたちの声が響いていた。六年一組と、いくつかの下級生の班が合同で行う飯盒炊爨の日だった。
本来なら、楽しい行事のはずだった。
火を起こして、米をといで、野菜を切って、みんなでカレーやご飯を作る。教室を離れた一日は、それだけで少し特別だ。理人も、数日前まではそう思おうとしていた。
けれど、当日の朝、班分けの紙を見たときから嫌な予感はあった。
理人の班には、神谷莉央、江口駿、水田蓮、藤井美咲、中島こころがいた。
そこへ下級生が二人、五年生の男子と女子が加わる。
班の中心にいる顔ぶれを見た瞬間、理人の喉の奥が少しだけ重くなる。
だがここで「嫌だ」と言えるはずもない。
高石はいつものように明るく言っていた。
「今日は協力が大事だからね。六年生が下級生を引っぱってあげて」
その声を聞きながら、理人は心の中で思う。
協力。
その言葉が、自分にはひどく遠いものみたいに感じた。
海辺には潮の匂いが満ちていた。
炊事場のコンクリートの床はまだ少し冷たく、飯盒や鍋、包丁、まな板が班ごとに並べられている。遠くで波の音がして、時折カモメの声が混ざる。
最初に役割を決めることになったとき、神谷莉央がほとんど間を置かずに言った。
「じゃあ、火係は江口と水田でいいよね。力あるし」
「俺ら?」
「まあいいけど」
「野菜切るの、私と美咲やる」
「うん」
「こころは下級生ちゃんたち見てて」
そこまで一気に決めてから、神谷は最後に理人の方を見た。
「理人くんは……そのへんの雑用お願いしていい?」
その言い方は、あまりにも自然だった。
雑用。
水を汲む。
薪を運ぶ。
使い終わった道具を洗う。
食材の袋をまとめる。
足りないものを先生のところへ取りに行く。
誰かがやらなきゃいけない仕事だ。
でも、一番“いてもいなくても変わらない人”に押しつけられる仕事でもある。
「……別にいいけど」
理人はそう答えるしかなかった。
江口がにやっと笑う。
中島こころが「助かるー」と軽く言う。
高石は少し離れたところで別の班を見ており、そのやり取りには気づいていない。
それで、決まってしまった。
作業が始まると、理人はずっと動きっぱなしだった。
「水なくなった」
「理人くん、次のバケツ」
「それ洗っといて」
「先生に新聞紙もらってきて」
次から次へと声が飛ぶ。
最初のうちは、理人も“役割だから”と思って動いていた。
でも十分、二十分と過ぎるころには、それが明らかに偏っていることが分かり始める。
他の班では、米をとぐ子がいて、薪をくべる子がいて、鍋をかき混ぜる子がいて、みんながそれぞれ“料理を作っている”感じがある。けれど理人の班では、理人だけが料理の中心から外され、周辺の用事ばかりをこなしていた。
カレーの匂いが立ちのぼり始めても、理人は鍋の中をろくに見ていない。
「理人、それ邪魔だから向こう置いて」
「理人くん、あっちのゴミもまとめといて」
神谷の声はずっとやわらかい。
命令口調ではない。
だから、余計に断りにくい。
五年生の男子が、一度だけ小さな声で聞いた。
「理人さん、米とがなくていいんですか?」
その瞬間、神谷が先に笑って答えた。
「理人くん、そういう細かいの苦手なんだよね。こっちやってもらってるの」
「……あ、そうなんですか」
下級生は素直にうなずく。
理人は何も言えなかった。
苦手なんかじゃない。
やったことくらいある。
でも、そこで否定したら空気が止まる。
面倒なやつだと思われる。
そう考えると、口が開かない。
ようやくご飯が炊き上がり、カレーもできあがったころには、理人はもうかなり疲れていた。
潮風に混じって食べ物の匂いが広がる。
腹は、当然空いている。
朝からずっと動いていたのだから当たり前だ。
班ごとに皿へよそい始める。
江口がご飯を盛り、水田がカレーをかける。
神谷が「下級生からね」と笑って取り分ける。
理人はその流れを少し離れたところで見ていた。
どうせ最後になるのだろうと思っていたが、それでも、ここまであからさまだとは思わなかった。
下級生たちに配る。
神谷たち自身の分をよそう。
おかわり用として鍋の中に少し残す。
そして理人の番が来たとき、飯盒の底にはもうほとんどご飯が残っていなかった。
「あ、ご飯……これだけ?」
思わず理人の口から出た。
皿の上には、子ども茶碗半分ほどの量しかない。
カレーも表面を薄く覆う程度だ。
江口が肩をすくめる。
「なくなったんだからしょうがなくね」
「もっと早く来ればよかったのに」
と中島こころが笑う。
理人は言葉を失った。
早く来るも何も、自分はずっと洗い物や水汲みをさせられていたのだ。
そのことを、みんな分かっているはずなのに。
それでも、神谷は少しも表情を崩さずに言う。
「理人くん、あんまり食べないでしょ? このくらいでいいかなって思って」
その“気遣い”の顔が、理人にはたまらなく気持ち悪かった。
「……は?」
低く声が漏れる。
けれど、そのときだった。
「なんで理人さんのご飯、そんな少ないの?」
五年生の女子が、不思議そうに聞いた。
その一言で、班の空気がぴたりと止まる。
理人の胸がどくっと鳴る。
神谷の目が、一瞬だけ細くなった。
だが次の瞬間には、もう何事もなかったみたいに、淀みなく答えていた。
「理人はね、アレルギー性の鼻炎があって、食欲ないらしくて。あんまり食べられないみたい」
あまりにも滑らかな口調だった。
まるで、前から知っていた事実を説明しているみたいに。
まるで、自分はちゃんと配慮しているんだとでも言うみたいに。
理人はその言葉を聞いた瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
食欲がないわけない。
お腹は空いている。
朝から動いて、むしろ今すぐ食べたいくらいだ。
鼻炎はある。
たしかにある。
でも、それと食欲は関係ない。
そんな嘘を、どうしてそんなふうに平気で言えるんだ。
「違……」
理人が言いかけたとき、神谷はすぐに下級生へ向き直った。
「ね、大丈夫だよ。理人くんそういうの言いたがらないから」
その言葉が、さらに理人の口を塞いだ。
ここで否定すれば、
“本人が言いたがらないことをわざわざ言わせる空気”になる。
むしろ自分が神谷の気遣いを無にしているみたいになる。
理人は手の中の皿を見下ろした。
腹は空いているのに、急に食べ物が喉を通らない気がしてくる。
だが、下級生の男子はまだ納得していなかった。
「でも、朝から理人さんずっと働いてたし……」
小さな声だったが、その言葉は確かだった。
理人は思わずその子を見る。
その視線を受けて、神谷は少しだけ困ったような笑顔を作った。
「うん、でも無理させたらかわいそうじゃん?」
その“かわいそう”という言葉に、江口と水田が小さく顔を見合わせる。
理人の中で何かが切れそうになる。
かわいそうにしてるのは、誰だよ。
そう叫びたかった。
でも、叫べなかった。
五年生の女子の方が、急に立ち上がった。
「先生に言ってきます」
「え、いいよ別に」と神谷が言うより早く、その子はもう高石のいる方へ走り出していた。
理人の胸に、一瞬だけ小さな希望が灯る。
これで先生が見てくれるかもしれない。
これで、少なくともおかしいって分かってもらえるかもしれない。
でも、その希望はすぐにしぼんだ。
高石が来たとき、神谷はもう準備を終えていた。
「どうしたの?」
高石がしゃがみ込むようにして聞くと、五年生の女子が言う。
「理人さんのご飯が少なくて……」
その途中で、神谷がすぐに口を挟んだ。
「あ、先生、大丈夫です」
声は落ち着いていて、焦りもない。
「理人くん、鼻炎がひどいときってあんまり食べられないみたいで。本人もこのくらいでいいって」
高石は理人を見る。
「そうなの? 伊達くん」
その目に、疑いはなかった。
神谷の言葉を、そのまま素直に受け取っている目だった。
理人の喉が固まる。
違う、と言えばいい。
食べたい、と言えばいい。
そんなの嘘だと言えばいい。
でも、その瞬間、神谷がほんのわずかに理人を見た。
笑ってはいない。
でも、その視線だけで十分だった。
ここで言ったらどうなる。
理人の体が、すっと冷える。
「……別に」
結局、出てきたのはその言葉だった。
高石は少し心配そうにしたものの、すぐにうなずいた。
「そっか。無理して食べなくていいからね」
そして下級生へ向き直り、「教えてくれてありがとう。でも大丈夫みたいだよ」とやさしく言った。
それで終わった。
あまりにも簡単に。
あまりにもきれいに。
五年生の女子は納得しきれない顔をしていたが、先生がそう言うなら、と引き下がるしかなかった。
理人は、皿を持ったまま立ち尽くしていた。
腹は空いている。
悔しくてたまらない。
でも、今この場ではもう、自分の言葉より神谷の嘘の方が“正しい説明”として通ってしまった。
その事実が、理人の胸を重く押しつぶした。
結局、理人は少ないご飯をほとんど味も分からないまま口へ運んだ。
足りない。
ぜんぜん足りない。
でもおかわりを取りに行ける空気ではなかった。
周りでは「おいしいー」「ちょっと焦げてるけどいい感じ」「おかわりある?」という声が飛んでいる。笑い声もある。海風は気持ちよく、陽射しも明るい。
傍から見れば、どこにでもある野外活動の昼食風景だった。
高石の目にも、きっとそう映っていたのだろう。
事故もない。
喧嘩もない。
泣く子もいない。
下級生と上級生が協力して炊事をしている。
よくある、穏やかな校外学習。
だが理人にとっては違った。
これは“よくあること”なんかじゃない。
目の前で、平然と自分の食べる分を奪われて、
嘘で塗りつぶされて、
それを先生に信じられたのだ。
それなのに、誰の記録にも残らない。
そのことが、何よりも苦しかった。
帰宅した理人は、いつもより早く自分の部屋へ行こうとした。
だが靴を脱いだ瞬間、葵が気づいた。
「理人、どうしたの?」
「……別に」
「顔、真っ青やけど」
その言葉に、理人は返事をしなかった。
昼にほとんど食べられなかったせいで、胃の奥が重たいような、空っぽなような、変な感じがする。海風に当たりすぎたのか頭も少し痛い。
「ご飯、ちゃんと食べた?」
その問いに、理人は一瞬だけ詰まった。
「……食べた」
でも、その“間”を葵は見逃さなかった。
理人の肩には、この前のドッジボールのあざがまだ薄く残っている。
そして今日は、顔色が明らかに違う。
葵の中で、何かがはっきりした形を取り始める。
これは、ただの疲れではない。
学校で、何かが起きている。
数日後、葵は高石に連絡を入れた。
最初の面談は、放課後の相談という形だった。
学校の面談室は、小さな机と椅子が向かい合わせに置かれた、明るくて静かな部屋だった。窓から西日が差し込み、高石はいつものやわらかな笑顔で葵を迎えた。
「お忙しいところすみません」
「いえいえ。こちらこそ」
最初の数分は、理人の鼻炎のことや最近の様子、家庭での表情の変化についての話だった。高石は丁寧にうなずきながら聞いていた。
だが、葵が少しずつ核心へ近づくにつれて、その空気は少し変わっていく。
「理人がですね、最近あまり学校のことを話さなくなって」
「はい」
「肩にあざもできていて、体育でボールが当たったって言うんですけど……それだけじゃない気がしてるんです」
高石は少し考えるように眉を寄せた。
「体育のときの様子は見ていましたが、ドッジボールの中での接触でしたので、特に危ない印象はありませんでした」
「でも、あの子、すごく疲れて帰ってくるんです」
「新学期ですし、六年生になって環境の変化もありますからね」
その返しに、葵は胸の奥がざらつくのを感じた。
環境の変化。
新学期。
よくあること。
そういう言葉で片づけられようとしている気がした。
「飯盒炊爨の日も、あまり食べられなかったみたいで」
葵が言うと、高石は「ああ」と思い出したようにうなずいた。
「理人くん、鼻炎の影響で食欲があまりないと班の子から聞いていました」
その瞬間、葵の表情が止まった。
「……誰からですか」
「神谷さんです。本人も否定していなかったので」
その答えを聞いたとき、葵の中で何かが音を立ててずれた。
理人は家では、食欲がない様子など見せていない。
むしろあの日は、帰ってきてから異様に顔色が悪かった。
それなのに、“班の子がそう言っていたから”“本人も否定しなかったから”で済まされている。
それで、本当に見たことになるのか。
「先生」
葵の声は、さっきまでより少しだけ低くなっていた。
「その子が言ったことを、そのまま信じたんですか」
高石は少しだけ戸惑ったように目を動かした。
「もちろん、私もその場で理人くんに確認はしました。ただ、本人もはっきり嫌だとは言っていなかったので……子ども同士のちょっとした行き違いの範囲かなと」
その“ちょっとした行き違い”という言葉が、葵の胸に刺さる。
理人は言えなかっただけかもしれない。
言ったらもっと悪くなると思ったのかもしれない。
そもそも、先生の前で否定しづらい空気にされていたのかもしれない。
そういう可能性を、この人は考えているのだろうか。
葵は自分の膝の上で、手を強く握った。
「理人は、家で何も言いたがりません」
「はい」
「でも、それって“何もない”ってことじゃないと思うんです」
高石は黙って聞いている。
その顔は穏やかだ。
でも、その穏やかさが、今の葵にはひどく遠かった。
「先生の目には、よくあることに見えるかもしれません」
葵ははっきり言う。
「でも、あの子の様子は、よくあるで済ませていいものには見えません」
高石は少し慎重な顔になって答えた。
「分かりました。もう少し注意して見てみます」
その返事自体は丁寧だった。
だが、その“もう少し”が、葵にはあまりにも遅く、軽く聞こえた。
面談を終えて学校を出たとき、空はすでに夕方の色になっていた。
校門の前に立ち止まり、葵はしばらく動けなかった。
怒りがあった。
でもそれ以上に、ぞっとするような感覚があった。
この学校は、本当に見ているのだろうか。
見えているのに、見ていないふりをしているのではないか。
あるいは、最初から“問題があるようには見たくない”のではないか。
教室の中で起きていることを、“よくあること”に変えてしまえば、
誰も責任を取らなくて済む。
その構造に、葵は初めてはっきりと触れた気がした。
夕方の風が少し冷たかった。
葵はスマホを握りしめたまま、小さく息を吐く。
理人が何を見ているのか。
その全部はまだ分からない。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
このまま“よくあること”で終わらせてはいけない。
終わらせたら、あの子はきっともっと深く沈んでいく。




