当たったのはボールじゃない
第7話 当たったのはボールじゃない
四月の終わりが近づくにつれて、教室の中の空気は少しずつ変わっていった。
いや、変わったというより、隠し方がうまくなっていったのかもしれない。
最初のころは、理人にもまだ“偶然かもしれない”と思える余地があった。消しゴムがなくなる。連絡が抜ける。会話に入れない。給食の席が少しだけずれる。そうしたことは、ひとつずつ見れば確かに小さい。大人に話しても、「たまたまだろう」「みんなまだ新学期で落ち着いてないんだよ」で終わってしまうようなものだった。
だが、その“小さいもの”が積み重なるうちに、加害する側も一つのことを学んでいた。
露骨にやらなければいい。
先生の前では、笑っていればいい。
言葉を選びさえすれば、何も起きていないことにできる。
そして理人もまた、別のことを学び始めていた。
痛いのは、体だけじゃない。
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その日の三時間目は体育だった。
校庭ではすでに別のクラスが短距離走をしていて、六年一組は体育館へ向かった。春とはいえ、体育館の中は少しひんやりしていた。床にワックスの匂いが残り、子どもたちの上履きが擦れる音が広く響く。
授業内容はドッジボールだった。
その言葉を聞いた瞬間、理人の胸の奥がわずかに重くなる。
もともと球技が特別苦手というわけではない。けれど、今の理人にとって“みんなで一つのボールを追う”遊びは、あまり気が進まないものになっていた。どこへいても誰かの視線を感じるし、自分が失敗したときだけ空気が変わる気がするからだ。
「二チームに分かれてー」
高石が笛を鳴らしながら言う。
男子と女子が入り混じって列になり、じゃんけんでざっくりチームが決まっていく。理人は流れのまま後ろの方へ回り、結局、神谷莉央や江口駿、水田蓮たちと同じチームになった。
「よろしくー」
「まあ適当にやろ」
みんな軽く声をかけ合っている。
理人も「うん」とだけ返したが、その声は自分でも驚くほど小さかった。
試合が始まる。
最初の数分は、見た目には普通だった。
声を出して逃げる子。
ボールを取りに行く子。
笑いながら外野へ回る子。
どこにでもある小学校の体育の時間。
高石の目にも、きっとそう見えていた。
⸻
最初に理人へ飛んできたボールは、本当に偶然だったのかもしれない。
水田が投げた球が少しそれて、理人の足元近くに転がる。
理人は慌ててよけたが、ボールはそのまま外野へ抜けていった。
「あっぶな」
誰かが笑う。
理人はそのボールを拾って外野へ返した。
まだ、このときは何も言わなかった。
二度目は、江口だった。
今度は明らかに理人の上半身を狙ってきたように見えたが、球は手前で少し弾み、腕に当たって落ちた。
「伊達ー、ちゃんと避けろって!」
江口が笑いながら言う。
周りもつられて笑う。
理人は痛みで腕を押さえながら、「……別に」とだけ返した。
別に。
最近、その言葉ばかり口にしている気がする。
別に平気。
別に何でもない。
別に気にしてない。
そう言わないと、自分の方が過剰に反応しているみたいになってしまうから。
⸻
三度目で、それは“偶然”ではなくなった。
外野にいた江口が、強めの球をまっすぐ理人へ投げてくる。
理人はとっさに体をひねったが、ボールは肩口に強く当たり、その勢いで後ろへよろけた。
「っ……!」
鈍い痛みが走る。
体育館の床が一瞬だけ遠く感じる。
周囲から「おおー」「当たったー」という声が上がり、その中に笑いが混じる。
「ナイス!」
「うま!」
江口は両手を上げて喜び、水田がそれにハイタッチする。
理人は肩を押さえながら、何とか立ち直った。
高石が少し離れたところから声をかける。
「大丈夫? 伊達くん」
「……大丈夫です」
反射的にそう答えてしまう。
本当は少し痛い。
でも、ここで「痛い」と言ったところで何になる。
わざとじゃない、試合中だった、避けられなかっただけ――そういうことになるのが目に見えていた。
「無理しないでねー」
高石はそう言って、また全体を見る位置へ戻る。
その表情に、深刻さはなかった。
当然だ。
体育の時間にボールが当たること自体は珍しくない。
ドッジボールなのだからなおさらだ。
教師の目から見れば、それはただの授業の一場面にすぎない。
だが理人には、さっきの一球が単なるボールには思えなかった。
当たったのはボールだ。
でも、本当に当たってきたのは、それだけじゃない。
⸻
試合の後半になると、狙いはさらにあからさまになった。
神谷莉央が外野へ出たあと、わざとらしく言う。
「理人くん、ちゃんと動かないとまた当たるよー?」
その声は明るい。
応援しているようにも聞こえる。
だが、その直後に飛んできた球は、また理人の近くを狙っていた。
避けると、今度は後ろから中島こころが笑う。
「なんか逃げ方きもくない?」
その一言に、女子何人かが吹き出す。
高石の位置からは、その言葉は聞こえていなかった。
聞こえたとしても、体育のざわめきの中に紛れてしまっただろう。
理人は、もう何も返さなかった。
返したところで、また“気にしすぎ”になるだけだ。
そう思うと、言葉が喉まで来ても出てこない。
その代わり、体がどんどん縮こまっていく。
また来るかもしれない。
また狙われるかもしれない。
その警戒ばかりが大きくなって、目の前のボールに集中できない。
その結果、動きはさらにぎこちなくなる。
そしてそのぎこちなさを、また誰かが笑う。
悪循環だった。
⸻
授業が終わり、整列して挨拶をしたあと、子どもたちは更衣室へ向かう。
理人が着替えながら肩をそっと触ると、じんとした痛みが残っていた。
青あざになるほどではない。
でも、確かに痛い。
そのとき、近くで江口の声がした。
「伊達ってマジで避けるの下手だよな」
「わざとかってくらい当たりにいってるじゃん」
水田が笑う。
「なんか“かわいそうな自分”やりたいんじゃね?」
その言葉に、周りがまたくすっと笑う。
理人は黙ったまま体操服をたたんだ。
それ以上、その場にいたくなかった。
更衣室を出ると、廊下の窓から外の光が差し込んでいた。
白くて明るいその光が、やけに遠く感じる。
痛いのに。
ちゃんと痛いのに。
でも、この痛みはきっと、誰の記録にも残らない。
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その日の放課後、高石は職員室で日誌をつけていた。
六年一組、四月下旬。
学級の様子、授業の進み具合、気になった児童の様子――そうしたものを簡単に書き留めていく、いつもの作業だった。
高石はペンを走らせる。
新学期にも徐々に慣れ、全体として落ち着いてきている。
体育、給食、学級活動とも大きなトラブルなし。
児童間の関係も概ね良好。
問題なし。
その一文は、何の悪意もなく書かれた。
高石にとって、それは事実だった。
授業は成立している。
大声での喧嘩はない。
泣き出す子もいない。
誰かが明確に暴力を振るう場面も見ていない。
だから、問題なし。
その言葉の冷たさを、高石自身はまだ知らない。
教室の中で実際に起きていることと、
大人の記録に残る“現実”が、
少しずつズレ始めていることにも気づいていなかった。
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家に帰った理人は、その日も「普通」と答えた。
葵に「肩どうしたの?」と聞かれたときも、
「体育でボール当たっただけ」
としか言わなかった。
「痛そうやん」
「平気」
それ以上、会話は続かなかった。
健斗はその日も帰りが少し遅く、夕食の席で葵が「今日、理人ちょっと肩痛そうでね」と話すと、「体育か?」と短く返しただけだった。
「ドッジボールだって」
「まあ、あるよな」
健斗はそう言って味噌汁を口に運んだ。
理人も黙ってご飯を食べる。
その場に嘘はない。
体育でボールが当たったのは本当だ。
でも、本当なのはそれだけじゃない。
なのに、その“それだけじゃない”を言葉にできない。
理人は箸を置くタイミングを少し遅らせながら、心の中で思っていた。
当たったのは、ボールじゃない。
あのとき体育館で、自分に向かって飛んできたのは、ただのボールじゃなかった。
笑い声も。
視線も。
逃げ場のなさも。
全部まとめて、ぶつかってきた。
そしてそれは、
先生の記録の中では「問題なし」になる。
そのことが、理人にはたまらなく苦しかった。
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夜、自分の部屋で理人はベッドに横になりながら、肩の痛みを確かめるようにそっと触れた。
痛みは少しだけ鈍くなっている。
でも、胸の奥の重さはそのままだった。
明日もまた、教室へ行く。
体育がなくても、別の何かがあるかもしれない。
給食の時間が来る。
昼休みが来る。
誰かが笑う。
先生はきっと、それを“よくある教室”として見る。
それがいちばん怖い。
ひどいことが起きているのに、
誰にもそう見えていない。
理人は天井を見つめたまま、小さく息を吐いた。
逃げ場が、また一つ減った気がした。
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