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少年法の壁  作者: リンダ


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言わないで、お母さん

 第6話 言わないで、お母さん


 その変化に、いちばん最初に気づいたのは葵だった。


 きっかけは、本当にささいなことだった。


 ある日の夕方。

 いつもなら「ただいま」と言ってすぐにリビングへ来る理人が、その日は玄関で少しだけ立ち止まっていた。


 鍵を閉める音が、いつもより遅い。


「おかえり」


 台所から声をかけると、少し間があってから返事が返ってきた。


「……ただいま」


 その声が、わずかにかすれていた。


 疲れているだけかもしれない。

 鼻炎のせいかもしれない。

 そう思いながらも、葵は手を止めて理人の方を見た。


 理人は靴を脱いで、ゆっくりと廊下を歩いてくる。

 顔色は悪くない。

 怪我もない。

 でも、どこか、何かが違う。


 その“何か”がうまく言葉にできない。


「手、洗ってきてね」


 いつものように声をかけると、理人は「うん」とだけ答えて洗面所へ向かった。


 その背中が、ほんの少しだけ小さく見えた。


 夕食の準備をしながら、葵はずっと考えていた。


 ここ数日、理人は学校の話をほとんどしない。


 前は、面白いことがあれば少しだけ話してくれた。

 嫌なことがあっても、ぼそっと「今日さ」と切り出すこともあった。


 でも今は、それがない。


 聞けば「普通」と言う。

 それ以上は続かない。


 ただ、食べる量が少し減った。

 箸が止まる時間が増えた。

 テレビの音に反応しなくなった。

 そして何より、笑わない。


 葵は包丁を置き、ふうっと息を吐いた。


 気のせいかもしれない。

 でも、気のせいで済ませたくない。


 その日、夕食のあとだった。


 美羽が先にお風呂へ入り、健斗はまだ帰ってきていない。


 リビングには、葵と理人の二人だけが残っていた。


 テレビはついているが、音量は小さい。

 画面の中ではバラエティ番組が流れているが、理人はほとんど見ていなかった。


 ソファに座って、ぼんやりと前を見ている。


 葵は少し迷ってから、その隣に座った。


「理人」


「……ん?」


「最近、学校どう?」


 いつもと同じ聞き方だった。


 でも、その声には少しだけ力がこもっていた。


 理人は一瞬だけ視線を動かしたが、すぐにまたテレビの方へ戻した。


「……普通」


 やっぱり、その言葉だった。


「ほんとに?」


 葵はさらに一歩踏み込む。


「なんかね、ちょっと元気ない気がして」


「そんなことないって」


 少しだけ強い言い方だった。


 理人自身も、その強さに驚いたように、言ったあとで口を閉じる。


 葵はその変化を見逃さなかった。


「理人」


 今度は、はっきりと名前を呼ぶ。


「なんかあったでしょ」


 理人の肩が、ぴくっと動いた。


「……ないよ」


「あるよ」


 即答だった。


 葵は理人の方へ体を向ける。


「お母さん、ずっと見てるから」


 その言葉に、理人の中で何かが揺れた。


 言ってしまえば楽になるかもしれない。

 誰かに聞いてもらえば、少しは軽くなるかもしれない。


 そんな気持ちが、一瞬だけ顔を出す。


 でも同時に、別の感情がそれを押し戻した。


 もし言ったらどうなる。


 学校に連絡されるかもしれない。

 先生に話がいくかもしれない。

 クラスで何か言われるかもしれない。

 “チクった”と思われるかもしれない。


 そうなったら、今よりもっとひどくなるんじゃないか。


 その想像が、理人の喉をぎゅっと締めた。


「……別に、なんもないって」


 少しだけ声が低くなる。


 葵はそれでも引かなかった。


「理人、給食ちゃんと食べてる?」


「食べてるよ」


「友達とは?」


「普通」


「先生は?」


「……普通」


 同じ言葉ばかりが並ぶ。


 でも、その“普通”の中に、何かが隠れているのははっきり分かった。


 葵は少しだけ声を落とした。


「嫌なこと、されてない?」


 その一言で、空気が止まった。


 理人の指先が、ぎゅっとソファの端をつかむ。


 頭の中に、いくつもの場面が浮かぶ。


 給食のときの視線。

 神谷の言葉。

「汚い」と言われた瞬間。

 笑い声。

 無視される会話。

 裏で何かが共有されているような気配。


 全部、一気に押し寄せる。


 言えばいい。


 言ってしまえばいい。


 そう思うのに、口が動かない。


 その代わりに出てきたのは、別の言葉だった。


「……やめて」


 小さな声だった。


 でも、はっきりしていた。


 葵が息をのむ。


「理人?」


「学校に……言わないで」


 今度は、さっきよりも強い声だった。


 理人は顔を上げないまま続ける。


「絶対、言わないで」


「でも――」


「言わないでって言ってるだろ!」


 その瞬間、理人の声が跳ね上がった。


 リビングの空気が一気に張りつめる。


 葵は何も言えなかった。


 理人も、自分の声に驚いたように、しばらく動けなかった。


 沈黙が落ちる。


 テレビの笑い声だけが、やけに遠くで響いていた。


「……ごめん」


 ぽつりと、理人が言った。


「別に……怒ってるわけじゃなくて」


 言葉を探しながら続ける。


「ただ……」


 ただ、なんだろう。


 自分でも分からない。


 助けてほしいのか。

 放っておいてほしいのか。


 言えばいいのか。

 言わない方がいいのか。


 どうしたらいいのか、自分でも分からない。


「……わかんない」


 その一言が、やっと出てきた。


 葵はゆっくりと息を吐いた。


 怒るつもりなんて、最初からなかった。


 ただ、この子が今、どこにいるのかを知りたかった。


「……わかった」


 葵は静かに言う。


「学校には、まだ言わない」


 理人の肩が、ほんの少しだけ緩む。


「でもね」


 葵は続けた。


「お母さんには、少しずつでいいから教えて」


 理人は答えなかった。


 でも、完全に拒絶しているわけでもなかった。


 その中途半端な沈黙が、今の理人そのものだった。


 その夜、布団に入ったあとも、理人は目を閉じられなかった。


 言えばよかったのかもしれない。

 でも言えなかった。


 言わない方がいい気がした。

 でも、このままでいいのかも分からない。


 助けてほしい。


 でも、知られたくない。


 その二つの気持ちが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっている。


 どうしたらいいのか、自分でも分からない。


 ただひとつ分かるのは、明日もまた教室へ行かなければならないということだった。


 あの場所へ。


 何が起きるか分からない場所へ。


 理人は布団の中で、目を閉じたまま小さく息を吐いた。


 答えは、まだどこにもなかった。

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