見えないところで始まるもの
第5話 見えないところで始まるもの
その日から、教室の空気は少しだけ変わった。
いや、変わったというより、理人の方がようやく気づき始めたのかもしれない。
誰かと誰かが目を合わせる。
小さく笑う。
自分が近づくと会話が止まる。
そして何事もなかったみたいに、別の話題へ移る。
表面上は、相変わらず大きな騒ぎはない。
神谷莉央も、江口駿も、水田蓮も、教師の前ではいつも通りだった。むしろ神谷はクラスの中心らしく明るく振る舞い、江口はうるさく笑い、水田は半分冷めたような顔で周囲に合わせている。
だが、その自然さの裏に、何か別のものが動いている。
理人はそれを感じていた。
でもまだ、その正体までは見えていなかった。
⸻
そのころ、クラスの何人かの間では、すでに“もう一つの教室”ができ始めていた。
学校の外。
親の目も、教師の目も届かない場所。
スマホの画面の向こう側にある、小さな閉じた空間。
最初にそれを作ったのは、水田蓮だった。
放課後、自室のベッドに寝転がりながら、水田はSNSの裏アカウントを使って非公開のグループを立ち上げた。表向きは何でもない雑談用の名前だったが、集められたメンバーはほとんど同じ顔ぶれだった。
神谷莉央。
中島こころ。
藤井美咲。
江口駿。
相良拓斗。
それに、何人かの“なんとなく入っている”クラスメイトたち。
理人の名前は、そこにない。
当然だった。
最初から入れるつもりがないのだから。
グループができて最初に投稿されたのは、中島こころのこんな一言だった。
今日のりひと、また鼻かんでたんだけど笑
それにすぐ、江口が反応する。
あいつマジで不潔感やばい
近く来ると無理
続けて神谷。
しかも自分で気づいてないのがきつい
なんか被害者ヅラしてくるし
水田はその流れに、笑っているスタンプをつける。
たったそれだけの短いやり取り。
でも、それが“空気”になるには十分だった。
誰かが一度そう言えば、
次からはみんながその前提で理人を見るようになる。
鼻炎で鼻をかむこと。
おとなしいこと。
輪に入りきれないこと。
聞き返すのが遅いこと。
そういう理人の一つ一つが、悪意のある意味に変換されていく。
その夜、グループのやり取りは少しずつ増えていった。
なんか今日も一人で変な顔してた
ずっと周り気にしてる感じ
てかさ、あいつって何考えてるかわかんなくて怖い
先生の前ではおとなしいフリしてるだけじゃね
被害妄想強すぎ
なんであんな自分だけかわいそうみたいな感じなの?
言葉はどれも軽かった。
冗談めいていて、ゲームの感想でも言うような気安さだった。
だからこそ残酷だった。
誰も、自分がひどいことをしているとは思っていない。
ただ“ノリ”で言っているだけ。
ちょっと面白がっているだけ。
でも、その“だけ”が重なっていくと、一人の人間を簡単に追い詰めていく。
⸻
理人は、その存在をまだ知らない。
だが翌日、教室に入った瞬間に、何かがさらに一段進んでいることだけは感じた。
朝の空気が妙に軽い。
教室のあちこちで笑い声が上がるたび、自分の知らない何かがすでに共有されている気がする。
自分の席に座ると、前の方で神谷莉央がスマホの話をしている声が耳に入った。
「昨日やばかったよね」
「ほんとそれ」
「マジで笑った」
誰の話かは聞こえない。
でも、その言い方が妙に引っかかった。
理人が教科書を出していると、水田が横目でちらりとこちらを見たあと、江口に肘で合図した。江口はそれに気づいて、口元をゆがめるように笑う。
何だよ。
理人は心の中でつぶやく。
何がそんなにおかしいんだ。
だが、その答えは自分の見えないところにある。
理人の知らないグループの中で、昨夜、自分はすでに“共有”されていた。
汚い。
暗い。
被害妄想。
近寄りたくない。
めんどくさい。
そういう言葉の束になって。
そして、その束は今朝の教室にそのまま持ち込まれていた。
⸻
一時間目のあと、理人は黒板に書かれた係の変更を見て、自分の名前が違う場所に移されていることに気づいた。
「あれ……」
昨日まで図書係だったはずが、いつの間にか掲示係に変わっている。
「先生、これ……」
理人が高石に言いかけると、神谷が先に口を挟んだ。
「理人くん、昨日もう言ったよね?」
「え?」
「図書係いやそうだったから、変えといたって」
その言い方はあまりにも自然で、周りも「あー、そうだっけ」という顔をする。
「いや、ぼく別にそんなこと」
「でも“べつにどこでもいい”って言ってたじゃん」
神谷はにっこり笑って言った。
言ったかもしれない。
たしかに、昨日あまり話に入れないまま、そういう曖昧な返事をした覚えはある。
でも、それは自分の意見が通らなくて、もう何を言っても同じだと思ったからであって――
そこまで考えたところで、理人は口を閉じた。
もういい、と思ってしまう。
説明するのが面倒だった。
どうせまた、自分だけ細かいことを気にしているように見えるのだろうと思った。
そうやって黙るたび、また“理人は何を考えてるか分からない”“自分から言わない”という印象だけが積み上がっていく。
見えないところで作られたイメージが、現実の教室を侵食していく。
理人は、その輪の外に立たされたままだった。
⸻
放課後、裏グループにはまた新しい書き込みが増えていた。
今日の係のときもさ、またあの顔してた笑
なんか言いたそうなのに言わないのほんと無理
てかあいつ、絶対みんなに嫌われてるって自分で気づいてるよね
でも先生には言えなさそうなの草
その中に混じって、神谷が短く書く。
そのうち自分から来なくなるんじゃない?
それに、笑うスタンプがいくつもついた。
相良拓斗は、その画面を見ながらしばらく何も送れなかった。
手元のスマホの光が、暗い部屋の中でやけに白く見える。
言い過ぎじゃないか。
そこまでしなくてもいいんじゃないか。
そう思わないわけではなかった。
だが、そこで何かを言えば、自分も次の標的になるかもしれない。
空気を壊したやつとして見られるかもしれない。
その怖さが、指を止める。
結局、相良は何も書かずに画面を閉じた。
沈黙もまた、加担だった。
⸻
伊達家では、その頃ようやく、理人の変化が“気のせいではないかもしれない”という形をとり始めていた。
その夜も、夕食はいつも通りの時間に並んだ。
健斗は日産自動車の開発主任として忙しい時期に入っており、帰宅が少し遅めだった。ネクタイをゆるめながら席に着くと、葵が味噌汁をよそって差し出す。
「ありがとう」
そう言って受け取る健斗の向かいで、理人はハンバーグを箸で少しずつ切っていた。
「理人」
不意に健斗が声をかける。
「ん?」
「最近、疲れてるか」
理人は箸を止めた。
「……別に」
「学校、なんもない?」
声色はやわらかい。
問い詰める感じではない。
だがそれでも、理人の肩は少しだけ固くなった。
「なんもないよ」
そう答えると、隣で葵がちらっと理人を見た。
葵も、ここ数日ずっと気になっていた。
学校の話をほとんどしなくなったこと。
夕食の時間に口数が減ったこと。
帰宅してすぐ部屋へ行くことが増えたこと。
鼻炎の薬を飲んだあとも、ぼんやりしている時間が長くなったこと。
鎌倉市の土産物店でパートをしている葵は、毎日観光客相手に明るく振る舞うぶん、家では家族の小さな変化によく気づく方だった。
「なんか、顔がね」
葵が言う。
「前よりちょっと、しんどそう」
「そう?」
「うん」
理人は困ったように笑ってみせた。
「鼻づまりでだるいだけだよ」
半分は本当だった。
鼻炎のせいで眠りが浅い日もある。
耳鼻科の治療も楽ではない。
でも、それだけじゃないことを、理人自身がいちばん分かっていた。
ただ、それを言葉にした途端、何かが決定的になってしまう気がした。
だから言えない。
「病院の薬、合ってないのかな」
葵が心配そうに言うと、理人は首を振った。
「大丈夫。ほんとに」
健斗はそれ以上追及しなかったが、その表情は少しだけ曇ったままだった。
理人が笑う回数が減っている。
返事が短くなっている。
何かを飲み込むように黙る瞬間が増えている。
その変化はまだ小さい。
けれど、親にとっては見過ごしきれない小ささだった。
⸻
夜、自分の部屋に戻った理人は、机に向かったまましばらくノートを開けずにいた。
明日の持ち物は確認した。
連絡帳も見た。
宿題もそれほど多くない。
なのに、体が重い。
教室に入る前から、もう疲れている気がする。
何かが起きる前から、何かを警戒している。
みんなと同じ場所にいるだけなのに、ずっと試されているみたいな感覚がある。
そしていちばん苦しいのは、その原因がはっきりしないことだった。
神谷なのか。
江口なのか。
中島なのか。
それとも、自分がただ考えすぎているだけなのか。
何が本当の始まりだったのか、それすら分からない。
気づけば、ノートの端に同じ言葉を何度も書いていた。
なんで
気づいて、理人は慌ててその文字を消した。
消しゴムでこすった跡が白く広がる。
なんで。
どうして自分がこんなふうに見られるのか。
何が原因なのか。
何をどうすれば元に戻るのか。
分からない。
分からないまま、教室の外の見えない場所で、自分のことがどんどん形づくられていく。
理人の知らない“もう一つの教室”は、今日も動いていた。
そこでは、理人という一人の少年が、
本当の姿とは違う何かに変えられ、
笑いと悪意の中で少しずつ吊し上げられている。
しかもそれは、本人の見えないところで進む。
見えないからこそ、逃げようがない。
春の夜は静かだった。
その静けさの下で、何かが確実に育っていた。
あとで振り返れば、ここが一つの分岐点だったのだと分かるような、
そんな小さくて、取り返しのつかない始まりが




