給食の時間の孤独
第4話 給食の時間の孤独
給食の時間が、理人は少しずつ苦手になり始めていた。
もともと、給食そのものが嫌いだったわけではない。むしろ、温かい汁物や揚げパンの出る日は、それなりに楽しみだった。みんなで机を寄せて食べる空気も、少し騒がしくはあっても、前までは「普通の学校らしい時間」だった。
けれど、四月も半ばに差しかかるころには、その時間が一日の中でいちばん落ち着かないものに変わり始めていた。
原因は、はっきりしない。
それが理人には、いちばん苦しかった。
給食当番の並び順で、自分だけ最後になる。
机を寄せるとき、微妙に一人分だけ隙間が空く。
配膳されたおかずが、なぜか自分の分だけ少し冷めている気がする。
誰かが小さく笑っていると、自分のことかもしれないと思ってしまう。
どれも決定的ではない。
先生に訴えたところで、「考えすぎじゃない?」で終わるようなことばかりだった。
でも、その“考えすぎかもしれないこと”が、毎日のように続く。
理人はそのたびに胸の中でつぶやく。
なんで?
自分が何かしたのか。
何か気に障ることを言ったのか。
気づいていないだけで、前から嫌われていたのか。
何が原因なのか、それすら分からない。
だから余計に疲れる。
怒る相手もはっきりしない。
直せることがあるなら直したいのに、その“何か”が分からない。
ただ、見えない糸で少しずつ締めつけられているみたいな毎日だけが続いていく。
その日の献立は、わかめご飯と白身魚のフライ、キャベツの和え物、それに豆腐とねぎの味噌汁だった。
給食当番が配膳を始めると、教室の中にいつものざわめきが広がる。
「今日フライでかくない?」
「おかわりできるかな」
「味噌汁あっつ」
そんな声が飛び交う中、理人も自分の机を少し前にずらした。だが、誰かが机を寄せるたびに、輪の形が微妙に変わっていく。理人が座ろうとすると、そこに別の椅子が入る。理人が少し横へずれると、今度はそちらも埋まる。
最終的に、理人の席だけが少し外側に押し出されたような形になった。
完全に一人というわけではない。
けれど、みんなの輪の中心から、ほんの半歩だけ外れている。
その半歩が、理人にはひどく大きく感じられた。
しかも今日は、配膳のときにさらに妙なことがあった。
「はい、伊達」
給食当番の江口駿が、トレーを置くような乱暴さで理人の前に皿を置く。白身魚のフライの衣が少し崩れていて、キャベツの和え物は皿の端に寄っていた。
理人は黙って受け取ったが、その直後、隣の席の男子の皿には、形のきれいなフライがのっていた。
偶然かもしれない。
たぶん偶然だ。
でも、そういう“たぶん”が増えすぎている。
「味噌汁、気をつけてねー」
後ろから女子の声がして、振り返ると中島こころが笑っていた。何がおかしいのか分からないまま理人が前を向いた瞬間、味噌汁の椀が少し机にぶつかり、汁が数滴だけこぼれた。
「あっ」
理人は慌てて手で拭こうとしたが、その様子を見て近くから小さな笑い声が上がる。
「うわ、こぼした」
「きったな」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
理人はとっさに顔を上げたが、誰が言ったのかは分からなかった。みんな普通に箸を持っている。神谷莉央はご飯を口に運びながら、まるで関係ない話をしているような顔をしていた。
「ねえ、修学旅行のお菓子って三百円までだよね?」
「税込み?」
「たぶん税込みじゃない?」
その会話の自然さに、理人は逆に息が詰まりそうになった。
さっきの声も、気のせいだったんだろうか。
そんなはずない。
でも、“そんなはずない”と言い切る自信もなくなっていく。
理人が鼻をすする音が、自分でも少し気になったのは、そのころからだった。
理人は小さいころからアレルギー性鼻炎を抱えていた。季節の変わり目や花粉の時期になると鼻が詰まり、何度も鼻をかみたくなる。夜も息苦しいことがあるし、耳鼻科にも定期的に通っていた。薬も飲んでいるし、痛い処置も我慢してきた。それでも完全には治らない。
自分だって好きでそうなっているわけじゃない。
でも教室の中で鼻をすするたび、最近はそれすら誰かに見られている気がしていた。
給食の途中、理人が一度だけティッシュを取り出して静かに鼻をかむと、斜め前の神谷莉央がわずかに眉をひそめたのが見えた。
そのあと、神谷が藤井美咲に何かをささやく。
美咲が口元を押さえて、笑うのをこらえるように肩を揺らす。
理人はその様子を見てしまい、急に食欲がなくなった。
何なんだよ。
心の中でそう思う。
でも、怒りより先に疲れが来る。
なんで。
また、なんで。
ひとつひとつは小さい。
けれど、それが昼の四十分の間に何度も何度も起こると、もうそれだけで消耗する。
理人は昼休みになるころには、教室にいるだけでどっと疲れるようになっていた。
みんなが楽しそうに話している声も、自分には関係ない世界の音みたいに遠く感じる。笑い声が上がるたびに、自分のことじゃないかと一瞬身構える。そのたびに、違うかもしれない、考えすぎだ、と自分を押し戻す。
その繰り返しが、少しずつ心を削っていった。
高石正美は、その空気に気づいていないわけではなかった。
だが、高石の目にはそれが、まだ“いじめ”ではなく、クラスが新学期で少し不器用にすれ違っているだけのものに見えていた。
その日の給食の後も、高石は机の並びを見て、軽く笑って言った。
「もうちょっときれいに丸くしようか。伊達くん、そこ狭いでしょ」
「あ、はい」
理人が席を少し動かすと、周りの子たちも形だけ合わせる。
高石はそれを見て満足そうにうなずいた。
「ほら、こうやって声かけ合えば大丈夫だから」
やさしい声だった。
責めるつもりもないのだろう。
でも、その言葉を聞いた瞬間、理人はかえって苦しくなった。
大丈夫じゃない。
たぶん、もうそんな簡単な話じゃない。
でも、それをどう言えばいいのか分からない。
机の位置が問題なんじゃない。
給食の丸い形が少し歪んでいることが問題なんじゃない。
その前からずっと、自分だけ見えないところで弾かれている感じが続いている。
でも、それは高石の目には“うまく言えない子どもどうしのすれ違い”にしか映っていない。
そのことに理人は、うまく説明できない種類の孤独を感じた。
昼休みが終わりに近づいたころ、理人は手を洗いに廊下へ出た。
教室の中にいると息が詰まりそうだった。ほんの数分でも、廊下の空気を吸いたかった。
手洗い場で水を出し、顔を少しだけ伏せる。冷たい水が指先に触れて、ほんの少しだけ気持ちが落ち着く。
その帰りだった。
廊下の向こうから、神谷莉央が友達と話しながら歩いてくるのが見えた。理人は自然と少し端へ寄ろうとした。その瞬間、神谷の足が何かにつまずいたのか、ぐらりとバランスを崩す。
「あっ」
神谷の体が前へ傾き、そのまま理人の肩へぶつかった。
理人もよろけて一歩下がる。
「ご、ごめ……」
反射的に言いかけたそのとき、神谷がぱっと顔をしかめた。
「やだー、理人とぶつかった」
その声は思ったより大きく、近くにいた数人が一斉にこちらを見る。
神谷は自分の腕を払うようにしながら、露骨に嫌そうな顔をした。
「あとで手洗いに行こ。なんか汚いし」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
理人はその場で固まる。
数秒遅れて、その言葉の意味が胸に落ちる。
汚い。
自分が。
「……は?」
理人の口から、低い声が漏れた。
神谷の隣で中島こころが吹き出す。
藤井美咲は一瞬だけ困ったような顔をしたが、何も言わない。
「いや、おまえさ」
理人の喉が熱くなる。胸の奥に溜まっていたものが、そこで一気に噴き出した。
「そんなこと言われる筋合いないんだけど」
声が思ったより大きくなった。
神谷が目を細める。
「はぁ?」
「ぶつかったのそっちだろ。なんで……なんでそんな言い方されなきゃいけないんだよ」
理人は自分でも驚くくらい強い口調で言っていた。廊下の空気がぴんと張る。近くを歩いていた何人かが足を止め、様子をうかがっている。
神谷は一歩も引かなかった。
むしろ、あきれたように鼻で笑った。
「あんたさぁ、しょっちゅう鼻かんでて、めっちゃ汚いやん」
その言葉が、理人の胸を正面から刺した。
「……っ」
「うちらに近づくなって感じなんだけど」
神谷ははっきりと言った。
その表情には、ためらいがなかった。
理人の頭の中が、一瞬真っ白になる。
鼻炎のことは、自分だって気にしている。
好きで鼻をかんでいるわけじゃない。
耳鼻科にも通っているし、痛いことだって我慢している。
夜だって苦しいし、朝だって鼻が詰まる。
それを――そんなふうに、汚いものみたいに言われるなんて。
「おれ、別に……好きでそうしてるわけじゃ」
そこまで言ったところで、声が詰まる。
神谷は肩をすくめた。
「知らないし」
その冷たさに、理人は何も返せなかった。
知らないし。
たったそれだけで、自分の苦しさも、治療の痛さも、恥ずかしさも、全部切り捨てられた気がした。
近くで、また小さな笑い声がした。
理人は拳を握ったまま立ち尽くす。
猛烈に腹が立つのに、言い返したいのに、言葉がうまく出てこない。胸だけがどくどく鳴って、顔が熱くて、でも手足は冷たい。
結局、その場を通りかかった高石が「どうしたの?」と声をかけてきて、その場は散らされた。
「ぶつかっただけです」
神谷はすぐに、何でもない顔でそう言った。
「伊達くん?」
高石に見られ、理人は数秒黙ったあと、
「……別に」
とだけ答えた。
言えるわけがなかった。
“汚い”と言われました、なんて。
鼻炎のことをバカにされました、なんて。
そんなことを口にしたら、余計に惨めになる気がした。
高石は少し気にしたようだったが、結局「廊下は気をつけて歩いてね」とだけ言って、その場は終わった。
それが、理人にはどうしようもなくつらかった。
その日の昼休みの残り時間、理人は教室へ戻れなかった。
トイレの個室に入って、鍵をかける。
薄暗い空間の中で、理人はしばらく動けなかった。
怒りで胸が苦しい。
悔しくてたまらない。
でもそれ以上に、自分が本当に“汚いもの”みたいに扱われたことが、心の奥に重たく沈んでいた。
なんで。
また、その言葉が浮かぶ。
なんで、こんなことになるんだ。
何がそんなに気に入らないんだ。
自分が何をしたっていうんだ。
でも、その問いには誰も答えない。
ただ、教室へ戻ればまた同じように時間が流れていく。
何もなかったみたいに授業が始まって、誰かが笑って、先生はそれを日常のざわめきとして受け取っていく。
理人は便座のふたを閉じて、その上に座り込んだ。
昼休みが終わるチャイムが鳴る。
その音を聞いた瞬間、理人ははっきり思った。
昼休みが、嫌いだ。
給食の時間も、昼休みも。
みんながいちばん自由そうに笑っているあの時間が、今の自分にはいちばん苦しい。
なんでなのか、まだ分からない。
何が原因なのか、それすら分からない。
でも、ひとつだけ確かなのは、
教室にいると、少しずつ自分がすり減っていくということだった。




