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少年法の壁  作者: リンダ


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そのあだ名を、笑わないで



第2話 そのあだ名を、笑わないで


 違和感は、次の日にも消えなかった。


 朝、教室に入ると、いつもなら何人かは自然に交わしている「おはよう」が、その日はどこか薄かった。聞こえなかったわけではない。ただ、自分に向けられている感じがしない。理人はそんなことを考えた自分に、すぐ苦笑した。


 考えすぎだ。


 まだ新学期が始まったばかりで、みんななんとなく落ち着かないだけだろう。昨日の消しゴムのことも、ノートの線も、きっと誰かの悪ふざけか偶然だ。そう思って席に座り、教科書を机の中へしまった。


 だが、一時間目が始まる前だった。


 後ろの方の席から、ひそひそと声が聞こえた。


「なあ、“だてメガネ”来た」


「いや、メガネかけてないじゃん」


「じゃあ“だて地味”でよくね?」


 くすっと、何人かが笑う。


 理人は一瞬、鉛筆を持つ手を止めた。


 たいしたことのない、ほんの短いやり取りだった。声もそこまで大きくない。はっきり自分に向かって言われたわけでもない。けれど、誰のことを言っているのかは分かった。


 振り向くと、江口駿が口元を押さえて笑っていて、その隣で水田蓮がスマホも触っていないのに、何かおもしろいものでも見つけたような顔をしていた。神谷莉央は前の席の女子と話しながら、ちらっとだけこちらを見て、すぐ視線を逸らした。


 理人は数秒迷った末、思わず口を開いた。


「……そういうの、やめてよ」


 教室の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。


 大きな声ではなかった。

 怒鳴ったわけでもない。

 ただ、理人なりに精いっぱいの「やめて」だった。


 だがその一言のあと、江口は少し驚いたような顔をしてから、肩をすくめてみせた。


「は? 別におまえのことって言ってねーし」


「そうそう」と水田もすぐに続く。「なんで自分のことだと思ったの?」


 その言い方が妙に軽くて、周りの何人かがまた笑った。


 理人の喉が、かっと熱くなる。


「いや……だって、今」


「被害妄想じゃない?」


 今度は女子の声だった。中島こころが、机に頬杖をついたまま、いかにも不思議そうな顔で言った。


「ちょっと似た言葉聞いただけで、そんな反応する?」


 その場にいた何人かが、今度はさっきより自然に笑った。悪意を隠す必要がなくなったような笑い方だった。理人は何か言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。


 そこへ担任の高石が教室へ入ってきて、空気はすぐに散った。


「はい、席についてー」


 まるで何もなかったみたいに、みんな前を向く。


 理人も座ったが、胸の奥だけがざらざらしたままだった。



 抗議したのは、それが最初で最後だった。


 その日の休み時間から、空気が少し変わった。


 露骨にあだ名を口にされることは減った。代わりに、もっと曖昧で、もっと説明しにくいものに変わっていった。


 たとえば、連絡。


 二時間目のあと、理人がトイレから戻ると、班で提出するはずのプリントがもう集められていた。


「あれ、これ今日出すやつだったの?」


 理人が近くの席の男子に聞くと、その子は少し気まずそうな顔をした。


「え、さっき先生言ってたけど」


「……聞いてない」


「まあ、あとで出せばいいんじゃね」


 その言い方に悪意はなさそうだった。けれど、理人の中には小さな引っかかりが残る。


 昼休みには、今度は掃除当番のことを知らされていなかった。


「理人、なんで来ないの?」


 廊下で高石に言われて、理人は目を瞬かせた。


「え、今日ぼく当番なんですか」


「朝の会で言ったでしょ?」


「……聞いてなくて」


「ちゃんと聞いてないとだめよ」


 やわらかい口調だったが、理人は少しだけ縮こまった。


「すみません」


 その横を通りすぎるとき、神谷莉央と藤井美咲が何かを話していて、目が合った瞬間に会話が止まった。そしてそのあと、くすっと短い笑いが漏れた。


 理人は聞こえないふりをした。



 放課後、帰りの支度をしていると、今度は修学旅行の班決めの話をしている声が聞こえてきた。


「うちら四人で固めようよ」

「いいじゃん、それ」

「男子の方も、たぶんもう決まってるっぽいよ」


 理人はその会話に、少しだけ耳を傾けた。


 修学旅行の班決めは、まだ正式には始まっていないはずだ。でも、こういうのはたいてい、先に仲のいい者どうしで空気が固まる。理人も別に人気者ではないが、露骨に余るほどではない――そう思っていた。


 だから、近くにいた相良拓斗にそれとなく聞いてみた。


「修学旅行の班って、もう話してるの?」


 相良は一瞬だけ目を泳がせた。


「え……まあ、ちょっとだけ」


「誰と組むとか決まってる?」


「まだ、ちゃんとじゃないけど」


 そこまで言って、相良は後ろをちらっと見た。視線の先には篠原獅童がいて、机に寄りかかりながら何も言わずこちらを見ていた。ほんの数秒だったが、その視線だけで十分だった。


「……まあ、また先生が決めるんじゃね」


 相良はそう言って、話を打ち切るように鞄を持った。


 理人は「そっか」とだけ答えたが、胸の中に妙な重たさが落ちた。


 なんなんだよ、もう。


 心の中で、そうつぶやく。


 別に、はっきり何かされたわけじゃない。

 殴られたわけでも、物を壊されたわけでもない。

 でも、なんとなく、自分だけが一歩遅れる。自分だけが知らないままになる。会話に入ろうとしたときだけ、空気が少し変わる。


 そんなことが、今日だけで何回あっただろう。



 家に帰っても、理人はこの日のことをうまく言葉にできなかった。


「おかえり。今日どうだった?」


 葵に聞かれても、


「べつに、普通」


 としか答えられない。


 普通ではなかった気もする。

 でも、“何があったの?”と聞かれたときに、はっきり説明できるようなことがあるわけじゃない。


 あだ名を言われた。

 でも本人たちは「違う」と言った。

 プリントのことを聞いてなかった。

 掃除当番を知らされてなかった。

 修学旅行の話も、自分だけ途中からだった。


 それだけだ。


 それだけ、なのだ。


 夕食の席でも、理人はほとんど学校の話をしなかった。美羽が新しい友達の話をして、葵がそれに相槌を打ち、健斗が仕事の疲れをにじませながらも笑っている。いつもの食卓のはずなのに、理人だけが少しだけ外側にいる気がした。


「理人、なんか疲れてる?」


 葵がふと聞いた。


「……別に」


「ほんと?」


「うん。ちょっと眠いだけ」


 嘘ではなかった。たしかに少し疲れていた。ただ、それが何に疲れているのかを、自分でもまだはっきり分かっていなかった。



 その夜、布団に入ってからも、昼間の教室の光景が何度か頭をよぎった。


「なんで自分のことだと思ったの?」

「被害妄想じゃない?」

「朝の会で言ったでしょ?」


 ひとつひとつは、鋭い刃物じゃない。

 でも、先の丸い針みたいに、じわじわと刺さって残る。


 理人は天井を見つめたまま、小さく息を吐いた。


 なんなんだよ、ほんとに。


 声には出さなかった。


 まだ、そこまで深刻には考えていない。

 たぶん、ちょっとした悪ふざけだ。

 新学期でみんな浮ついてるだけだ。

 そのうち普通に戻るだろう。


 理人はそうやって、自分に何度も言い聞かせた。


 でも、心のどこかではもう気づき始めていたのかもしれない。


 これは偶然じゃない。

 ただの気のせいでもない。

 誰かが、意図して、自分を少しずつ教室の外へ押し出そうとしている。


 まだ名前のつかないその気配が、静かに、しかし確実に広がっていた。


 六年生の春は、始まったばかりだった。


 そして理人はまだ、この先どこまで追い詰められていくのかを知らない。



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