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少年法の壁  作者: リンダ


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始まりの教室(後半)

 1話 始まりの教室(後半)


 玄関の扉を開けると、夕方のやわらかな空気と一緒に、味噌汁の香りがふわりと流れてきた。


「ただいま」


 理人が靴を脱ぎながら声をかけると、すぐに台所から母・葵の声が返ってきた。


「おかえり。早かったね、始業式だけだった?」


「うん」


「どうだった? クラス替え」


 理人はランドセルを肩から下ろしながら、少しだけ笑った。


「なかった。ほとんど五年生のときと同じ」


「え、そうなんだ」


 葵が台所から顔をのぞかせる。エプロン姿のまま、少し驚いたように目を丸くした。


「じゃあ安心やね。理人、新しいクラスとかあんまり得意じゃないもんね」


「別に苦手ってほどじゃないよ」


「はいはい」


 葵はくすっと笑って、また鍋の方へ向き直った。


 そのやりとりを聞きつけたのか、奥の部屋から妹の美羽がぱたぱたと走ってくる。


「お兄ちゃん、おかえり!」


 小学校三年生になったばかりの美羽は、頬を紅潮させて理人の前に立った。


「美羽ね、先生女の先生だった! あとね、仲良しの奈々ちゃんとまた一緒だった!」


「よかったじゃん」


「うん!」


 美羽はそれだけ言うと満足したのか、すぐにまた自分の話を続け始めた。新しい教科書がどうだとか、席が前から二番目だったとか、給食はまだ始まらないだとか。理人は「へえ」「そうなんだ」と相槌を打ちながら、手を洗いに洗面所へ向かった。


 鏡の中の自分は、朝と何も変わらない顔をしていた。


 少しだけ背が伸びて、少しだけ大人に近づいた気がする、いつもの自分。


 理人は蛇口の水で手を洗いながら、なんとなく今日の教室のことを思い出していた。


 同じ顔ぶれ。

 同じ担任。

 同じ机と椅子。


 変わらないって、こんなに楽なんだなと、改めて思う。


 夕食のとき、父の健斗も仕事から帰ってきた。


「ただいま」


 少し疲れた声でそう言ってネクタイをゆるめる父に、美羽が真っ先に駆け寄る。


「お父さん聞いて! 美羽、三年生になった!」


「それはめでたいな」


 健斗は笑いながら頭を軽く撫で、それから理人の方を見る。


「理人も六年生か。早いな」


「うん」


「どうやった、クラス」


「同じだった。ほとんど」


「へえ。まあ、その方が気楽でいいか」


 健斗はそう言って椅子に座り、葵が並べた夕食に目をやった。


「なんかいよいよって感じやな。六年生って聞くと」


 葵が味噌汁をよそいながら言う。


「修学旅行とか卒業とか、一気に最後の一年って感じするね」


「中学のことも考えなきゃだしな」


 健斗がご飯茶碗を手に取りながら続けた。


「でも、まだ春やし。まずは普通に一年、元気に行ければそれで十分だろ」


 その言葉に、理人は小さくうなずいた。


 元気に一年、普通に過ごす。


 そのときの理人にとって、それは当たり前に手に入る未来のように思えた。


「理人、修学旅行どこだっけ?」


 葵が聞く。


「まだちゃんと聞いてない。たぶん東京の方」


「いいねえ」


「お土産はひよこでいいよ!」


 美羽が元気よく言って、家族みんなが少し笑った。


 そういう、ごくありふれた食卓だった。


 味噌汁の湯気が上がり、テレビではローカルニュースが流れ、誰かが箸を置く小さな音がする。理人はその中にいて、自分の席がちゃんとあることに、何の疑いも持っていなかった。


 その夜、宿題らしい宿題もなかった理人は、自分の部屋で新しい教科書をぱらぱらとめくっていた。窓の外では、春の夜風がカーテンをわずかに揺らしている。


 理科の教科書の最初のページに目を落としながら、理人はぼんやり思う。


 六年生か。


 小学校最後の一年。


 どんな一年になるんだろう。


 期待がないわけではなかった。

 不安がないわけでもなかった。

 でも、そのどちらもまだ、ふわっとした輪郭しか持っていなかった。


 机の上の鉛筆立てに手を伸ばし、理人は新しいノートの表紙に名前を書く。


 伊達 理人


 その文字は、まだ何にも傷つけられていない、まっさらなものだった。


 翌日から、いつもの学校生活が始まった。


 朝の教室には、独特のざわめきがある。ランドセルを置く音、椅子を引く音、誰かの笑い声、廊下から聞こえてくる別のクラスの話し声。理人はその中で、自分の席に座って筆箱を机の上に置いた。


「おはよう」


 近くの席の男子に軽く声をかけられ、理人も「おはよう」と返す。


 それだけのことに、特別な意味はない。

 ただ、いつもの朝の始まりだった。


 だが、その“いつも”の中に、ほんの少しだけ、引っかかるものが混じっていた。


 朝の会が終わったあと、理人がトイレから戻ってくると、机の上に置いていた消しゴムがなくなっていた。


「あれ……」


 引き出しの中を見てもない。筆箱の中にも入っていない。床に落ちたのかと思って足元を見ても見当たらない。


「どうした?」


 隣の席の子に聞かれ、理人は首をかしげた。


「消しゴム、さっきここに置いたんだけど」


「落としたんじゃない?」


「かな」


 理人はそう言って机のまわりをもう一度見たが、結局見つからなかった。たまたまだろう、とそのときは思った。家に予備があるし、今日は鉛筆で書くだけならなんとかなる。


 すると、後ろの方からくすっと小さな笑い声がした気がした。


 気のせいかもしれない。


 理人は振り向かなかった。


 そんなことでいちいち気にするのは変だと思ったし、本当にただの聞き間違いかもしれなかったからだ。


 その日の二時間目、国語の時間。


 教科書を開こうとして、理人はまた少しだけ首をかしげた。ページの端が、ほんの少し折られている。自分でやったのかもしれない。でも記憶にはない。小さなことだ。本当に小さなことだった。


 隣の列では、神谷莉央が誰かとひそひそ話している。内容は聞き取れなかったが、そのあとで数人が同時にこちらを見たような気がした。すぐに目をそらされたので、理人は自分の気のせいだと思い直した。


 考えすぎだ。


 まだ新学期二日目だし、みんな落ち着かないだけかもしれない。


 だが、昼休み、理人が席に戻ったとき、今度はノートの隅にボールペンで小さく線が引かれていた。


 ほんの一本、いたずらみたいな細い線。


 それだけだった。


 怒るほどのことでもない。

 先生に言うほどのことでもない。

 わざわざ誰かに相談したら、逆に「そんなことで?」と言われるかもしれない。


 理人は黙ってそのページを閉じた。


 そのとき、教室の前の方で中島こころが誰かに向かって笑っていた。楽しそうな、明るい声だった。何を笑っているのかは分からない。分からないのに、理人はなぜか、その笑い声が少しだけ耳に残った。


 放課後、帰りの会が終わってから、理人はランドセルを背負いながら、自分の机をもう一度見た。


 別に変わったところはない。


 朝と同じ机だ。

 昨日と同じ教室だ。

 見慣れた窓、見慣れた黒板、見慣れたクラスメイト。


 なのに、胸の奥にほんの少しだけ、言葉にならないざらつきが残っていた。


 なんだろう。


 うまく言えない。


 嫌なことがあったわけじゃない。

 はっきり傷つけられたわけでもない。

 でも、“何もなかった”と言い切るには、少しだけ変だった。


 教室を出る直前、後ろの席の方から男子の声が聞こえた。


「伊達ってさ」


 そこで言葉が途切れ、そのあとに小さな笑いが重なった。


 理人は一瞬だけ立ち止まったが、振り返らずに廊下へ出た。


 たまたまだ。


 自分のことじゃないかもしれない。


 そう思って歩き出したものの、その声は下駄箱で靴を履き替えるときも、校門を出るときも、家へ向かう道の途中でも、なぜか耳の奥に残り続けていた。


 春の空は、昨日と同じように明るかった。


 風もやわらかく、道端には小さな花が咲いている。


 なのに理人は、その景色を見ながら、ほんの少しだけ思った。


 明日も、同じような感じだったらどうしよう。


 すぐに自分で、その考えを打ち消す。


 大げさだ。

 きっと考えすぎだ。

 こんなの、ただの気のせいだ。


 理人はそうやって、自分の中に生まれた小さな違和感に、まだ名前をつけなかった。


 いや、つけられなかったのかもしれない。


 まだ、それは“いじめ”と呼ぶにはあまりにも小さく、曖昧で、でも確かに心の表面をひっかいた最初の傷だった。


 そしてその傷は、この先、少しずつ、確実に広がっていくことになる。

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