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少年法の壁  作者: リンダ


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始まりの教室


第1話 始まりの教室


 四月の朝は、まだ少しだけ冷たい。


 神奈川県横須賀市立北浦小学校の校庭には、始業式を迎えた子どもたちの声が広がっていた。春のやわらかな陽射しの下で、満開を少し過ぎた桜が風に揺れ、散った花びらがコンクリートの上をころころと転がっていく。


 伊達理人は、その桜をぼんやりと見上げていた。


 六年生。


 小学校最後の一年。


 理人にとってその響きは、少しだけ誇らしくて、少しだけ落ち着かないものだった。高学年の一番上。下級生に見られる立場になり、卒業も近づく。五年生までとは違う責任もあるだろう。でも、それでも理人は、どこかでこう思っていた。


 きっと、いつも通りだ。


 大きな出来事なんて、そうそう起こらない。


 授業を受けて、友達と話して、運動会があって、修学旅行があって、卒業していく。そんなふうに、当たり前の時間が続いていくのだろうと、疑いもなく信じていた。


 体育館に並んだ全校児童のざわめきが、天井の高い空間にやわらかく反響する。


 理人は六年生の列の中で、背筋を伸ばして立っていた。壇上には新しく赴任してきた先生が並び、校長の安西誠也がマイクの前に立っている。


「皆さん、進級おめでとうございます」


 よく通る、落ち着いた声だった。


 校長の話は、毎年だいたい似たようなものだ。新しい学年への期待。あいさつの大切さ。友達を思いやる心。理人はちゃんと前を向いて聞いていたが、半分ほどは右から左へ流れていった。隣では誰かが小さくあくびを噛み殺し、後ろの方で靴底が床をこする音がした。


 始業式というのは、そういうものだった。


 長くて、少し退屈で、でも新しい始まりの匂いがする。


 やがて式が終わり、子どもたちはぞろぞろと体育館を出て、それぞれの教室へ戻っていく。廊下には、新しいクラスの話題で浮き立つ声があちこちに飛び交っていた。


「なあ、何組になると思う?」

「絶対離れたくないんだけど」

「担任、誰やろ」


 そんな会話が耳に入るたび、理人は少しだけ胸をそわそわさせた。自分でも意外なくらい、クラス替えの結果が気になっていた。


 だが、教室の前に貼り出された名簿を見た瞬間、その緊張はあっけなくほどけた。


 六年一組。


 そしてそこに並んでいたのは、五年生のときとほとんど変わらない顔ぶれだった。


「あ、また一緒だな」


 後ろから声をかけてきたのは、同じクラスの男子だった。理人は軽く振り返って、小さく笑った。


「ほんとだ」


「担任も同じかな」


「どうだろ」


 そのくらいの、取り立てて盛り上がるわけでもないやり取りを交わしながら、理人は教室の中へ入った。春休みのあいだ静まり返っていた教室は、子どもたちが戻ってきたことで、あっという間にざわめきに満ちていく。


 窓際の席からは、校庭の桜がまだ見えた。


 理人は自分の席に鞄を置き、椅子を引いた。机の感触も、教室の匂いも、黒板の端に残る薄いチョークの跡も、どこか見慣れていて、ほっとする。


 変わらない。


 そのことが、理人には少しうれしかった。


 新しい環境に飛び込むのは、苦手な方だった。仲のいい誰かがいるわけではなくても、知っている顔が並んでいるだけで安心できる。だからこの“変わらなさ”は、理人にとって十分ありがたいものだった。


 やがて教室の前の扉が開き、担任の高石正美が入ってきた。


「はい、みんな席についてー。改めて、進級おめでとう」


 教室の空気が少し引き締まる。


 理人は椅子に座り直し、前を向いた。高石は昨年度と変わらない柔らかな笑顔で教室を見回し、出席簿を軽く胸に当てた。


「今年もこのクラスを担当することになりました。六年生は小学校最後の一年です。楽しい一年にしましょうね」


 その言葉に、教室のあちこちから小さな歓声が上がる。


「やったー、また高石先生だ」

「まじで?」

「よかったー」


 理人も少しだけ肩の力を抜いた。担任まで同じだとは思っていなかったが、知らない先生になるよりは気が楽だった。


 高石は教壇の上で、今年一年の予定や心構えを話し始めた。修学旅行、運動会、委員会活動、卒業式。どれも六年生らしい行事ばかりで、理人はその一つ一つを聞きながら、ぼんやりと先のことを想像していた。


 修学旅行ではどこへ行くのだろう。

 卒業式では、ちゃんと泣くのだろうか。

 中学に行ったら、今より少し大人になれるのだろうか。


 そのどれもが、まだ輪郭のぼやけた未来だった。


 でも少なくともこの時の理人は、目の前にある一年が、穏やかに流れていくものだと信じていた。


 それは、ほんの小さな油断だったのかもしれない。

 あるいは、子どもが当然持っていていい、日常への信頼だったのかもしれない。


 ホームルームが終わるころには、教室の空気はすっかり新学期の明るさを取り戻していた。久しぶりに会った友達どうしで話が弾み、春休みにどこへ行っただの、宿題が少なかっただの、そんな話題で笑い声が広がる。


 理人も何人かと短い会話を交わしたが、特別に目立つこともなく、いつものようにその輪の端にいた。理人はそういう位置が嫌いではなかった。中心にいるよりも、その少し外側で静かに笑っている方が性に合っていた。


 昼前には始業式の日程も終わり、子どもたちは順番に下校することになった。


 理人は上履きを履き替え、鞄を肩にかけて昇降口を出た。校門の前には、同じように帰る子どもたちがかたまりになって歩いている。春風はまだ少し冷たかったが、陽射しはやさしく、空は高かった。


 その空を見上げて、理人はなんとなく息をつく。


 いい天気だな、と思った。


 ただ、それだけだった。


 この先、自分の心が少しずつ壊れていくことも。

 教室が、いちばん安心できない場所に変わっていくことも。

 笑い声が、刃物みたいに胸へ刺さるようになることも。


 まだ、何ひとつ知らなかった。


 家までの道を歩きながら、理人は夕方のことを考えていた。帰ったら、母が「始業式どうだった?」と聞くだろう。妹はきっと、自分のクラスの話を先にしたがる。父は夜になって帰ってきたら、「六年生か。早いな」とでも言うだろう。


 そんな、いつもの家族の会話。


 そんな、何の変哲もない春の一日。


 理人はそれが、これからも続いていくものだと思っていた。


 何事もなく、一年が終わるのだろうと。

 楽しいことも嫌なこともそれなりにあって、でも最後には「まあ、いろいろあったけど六年生も悪くなかった」と笑って卒業できるのだろうと。


 そのときの理人にとって、未来はまだ、当たり前に明るい場所だった。


 桜の花びらが一枚、肩に落ちる。


 理人はそれを指先でつまみ、少し眺めてから、そっと風に流した。


 春は、静かに始まっていた。


 あまりにも静かに。

 だからこそ、その足元にひびが入り始めていることに、誰も気づかなかった。




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