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少年法の壁  作者: リンダ


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やさしい顔の裏側

 第10話 やさしい顔の裏側


 神谷莉央は、教師の前ではよくできた子だった。


 提出物は忘れない。

 頼まれごとは嫌な顔をせず引き受ける。

 下級生にはやさしく、クラスメイトには明るい。

 声を荒らげることもなく、困っている子がいれば「大丈夫?」と自然に声をかける。


 少なくとも、高石正美の目にはそう映っていた。


「神谷さんって、本当に気が利くよね」


 ある日の学級活動のあと、高石が何気なくそう言ったとき、教室の何人かが「たしかに」と笑いながらうなずいた。神谷は少し照れたように首をすくめて、


「そんなことないです」


 と答えた。


 その声はやわらかくて、控えめで、いかにも“しっかりした女子”のそれだった。


 理人は自分の席でそのやり取りを聞いていた。


 喉の奥が、じわりと重くなる。


 違う。


 そう思った。

 でも、口には出せなかった。


 何が違うのかを説明できる言葉が、自分の中でまだまとまっていなかったし、たとえ言えたとしても、今この場で誰が信じるだろうと思った。


 神谷はそのあと、忘れ物をした下級生にやさしく声をかけ、委員会のプリントを先生に手渡し、最後には「先生、これ黒板消しておきますね」と笑った。


 高石は満足そうにうなずく。


「助かるなあ、神谷さん」


 そのやり取りを見て、理人は思った。


 先生は、見たいものだけを見ている。


 獅童も同じだった。


 篠原獅童は、神谷ほど“気配り”を見せるタイプではない。だが、教師の前では空気の読み方をよく知っていた。授業中はふざけすぎない。発言するときは元気よく、でも出しゃばりすぎない。先生に注意されれば「すみません」と素直に引く。


 その加減が絶妙だった。


 ある日、理科の実験で班活動があったときも、獅童は先生の前では理人に向かってこう言った。


「伊達、それ持ってくれる?」

「ありがと」


 いかにも協力しているような口ぶりだった。

 高石はその様子を見て安心したように笑っていた。


「いいね、ちゃんと声かけ合えてる」


 理人は試験管の入ったケースを持ちながら、心の中で乾いた笑いを浮かべた。


 声はかけている。

 たしかに、かけている。


 でもその声の中身は、いつも同じだった。


 持ってくれる?

 取ってきて。

 それやっといて。

 伊達ならいいでしょ。


 役割ではなく、押しつけ。

 協力ではなく、使いやすい相手としての扱い。


 だが、表面だけを見れば、たしかにただのやり取りに見える。


 それがいちばん厄介だった。


 理人が「先生に言っても無駄かもしれない」と思い始めたのは、そのころからだった。


 決定的だったのは、ある日の昼休みのことだ。


 図工で使う模造紙がなくなり、班の中で誰が取りに行くかという話になった。理人は何も言っていないのに、獅童があっさり言った。


「伊達、職員室行ってきて」


 その言い方に、いつものような逆らいにくさがあった。


 理人は一瞬だけ黙ったが、今日は珍しく、口を開いた。


「なんでいつもぼくなんだよ」


 教室の空気が一瞬、止まる。


 大きな声ではなかった。

 でも、理人にしてははっきりした反発だった。


 獅童は一瞬だけ目を細めたが、次の瞬間には肩をすくめて笑った。


「別に深い意味ないって。近かったから頼んだだけ」


 その声は軽い。

 神谷もすぐに横から入る。


「理人くん、そんな言い方しなくてもよくない? ちょっと頼んだだけじゃん」


 その“ちょっと”が、理人の胸を刺す。


 ちょっと、の積み重ねで今こうなっているのに。


 だが、その直後に高石が教室へ戻ってきた。


「どうしたの?」


 神谷は振り向いて、少し困ったように笑った。


「いえ、班のことでちょっとだけ意見が合わなくて。でも大丈夫です」


 獅童もすぐにうなずく。


「すみません、もう決まりました」


 高石は教室を見回し、特に異常を感じなかったのだろう。


「ならいいけど、言い方には気をつけてね。みんな最後の一年なんだから、仲良くやろう」


「はい」


 神谷も獅童も、きれいに返事をした。


 その場は、それで終わった。


 理人の中に残ったのは、重たい沈黙だけだった。


 今のやり取りで、先生は何か気づいただろうか。

 たぶん、何も気づいていない。

 ただ班の中で少しすれ違った、それだけだと思っている。


 その瞬間、理人は初めてはっきり思った。


 ああ、言っても無駄かもしれない。


 それから加害の質が少し変わった。


 言葉だけではなく、体に触れるようなものが混じり始めた。


 最初は、廊下ですれ違うときの肩。

 掃除の時間に後ろを通りすぎるときの肘。

 階段を上るときの、ほんの一瞬の押しつけ。


 どれも一瞬で、振り返ったときには「え、なに?」とでも言えそうな顔をされるものばかりだった。


 だが数が増えるにつれ、それが偶然ではないことは理人にも分かった。


 そして彼らは、すぐに一つのことを覚えた。


 目立つ場所は避けた方がいい。


 腕や顔のように、すぐ見える場所は避ける。

 代わりに、服で隠れるところを狙う。


 脇腹。

 背中。

 太ももの横。

 上腕の内側。


 誰かが通りすがりに指先でつねる。

 椅子に座った瞬間、後ろから膝裏を蹴るように押す。

 ロッカーの陰で、ぐっと肩甲骨のあたりを押しつける。


 痛みはある。

 でも、外からは分からない。

 しかも一瞬だから、「今の何?」と問い返す頃には、相手はもう普通の顔で別の会話をしている。


 理人は最初、それでも気のせいかもしれないと思おうとした。

 だが、ある日、更衣室で体操服に着替えているとき、脇腹に薄い青あざがあるのを見つけた。


「……」


 しばらく、それを見つめる。


 覚えていないわけじゃない。

 たぶん昨日の掃除の時間だ。

 後ろを通った誰かの肘が、妙に強く入った。

 でも、その場で振り返ったとき、もう誰もこちらを見ていなかった。


 理人はそっとシャツを下ろした。


 これを誰かに見せたところで、何と言えばいいのか分からない。

 ぶつかったのかもしれない。

 自分でどこかに当てたのかもしれない。

 そう言われたら、それまでだ。


 そういう曖昧な痛みばかりが、少しずつ増えていった。


 教室では、相変わらずみんな“普通”だった。


「先生、プリント配ります」

「江口くん、運ぶの手伝ってくれてありがとう」

「篠原くん、今日静かでえらいね」

「神谷さん、下級生の面倒見てくれて助かるわ」


 高石の言葉に、子どもたちは自然に笑う。


 どこにでもある、穏やかな教室。


 大人の目には、たぶんそう見えている。


 理人はその中で、自分だけが別の世界を見ているような気分になっていた。


 みんなが笑っている。

 先生も笑っている。

 でも、その笑顔の裏で自分に何が起きているかは、誰にも見えていない。


 いや、見ようとしていないのかもしれない。


 ある日の帰り道、理人は駅前の高架下を通りながら、ふと立ち止まった。


 上を電車が通る音がした。


 本来なら、その音は少し好きなものだった。

 鉄の響きと振動が頭上を走っていく感じが、どこか落ち着いた。

 でもその日は、顔を上げる気になれなかった。


 電車の音を聞くと、教室で笑われたことを思い出す。

 星を見ると、「キモい」と言われたことが浮かぶ。

 父の仕事を思えば、からかわれた言葉がついてくる。


 好きなものが、全部、痛みの入口に変わっていた。


 理人はそのまま下を向いて歩き出した。


 葵は、理人の様子を見ながら、確信に近いものを抱き始めていた。


 肩のあざの次は、着替えのときに見えた脇腹の青い跡。

 理人は「どっかでぶつけた」と言ったが、その言い方があまりにも早すぎて、用意していた言い訳みたいに聞こえた。


「ほんとに?」

 と聞いても、

「ほんと」

 としか返ってこない。


 だが、その“ほんと”の薄さを、葵は感じていた。


 痛いことがあったのに、それを先に隠そうとしている。


 それはもう、ただの学校生活の疲れではない。


 しかも最近の理人は、夜になると肩や脇腹を無意識にかばうような動きを見せることがあった。食卓でも、前より姿勢が固い。笑い声にびくっと反応することも増えた。


 何かが、確実に理人を追い詰めている。


 その日の夜、葵はリビングで一人、理人の学校からの連絡プリントを見つめていた。


 そこには、今月の学級目標や行事予定が並び、最後には担任からのコメントが添えられていた。


 六年生として少しずつ落ち着きが出てきました。

 友達どうしの関わりも見られ、元気に学校生活を送っています。


 その文章を見たとき、葵は胸の奥が冷たくなった。


 どこの誰のことを書いているのだろう、と思った。


 少なくとも、自分の見ている理人は、そんなふうに“元気に学校生活を送って”はいない。


 学校と家で見えているものが、あまりにも違いすぎる。


 葵はプリントを静かに机へ置いた。


 このままではだめだ。

 でも、理人はまだ何も言いたがらない。

 学校は見ていないか、見ても軽く受け流している。


 なら、どうすればいいのか。


 答えはまだ見えなかった。


 ただ一つ分かるのは、

 理人の痛みが、見えないところで確実に増えているということだけだった。


 その夜、理人は布団の中で体を丸めた。


 脇腹が少し痛い。

 でも、それを誰にも言いたくない。


 言ったところで証拠にならない。

 先生はきっと“よくある接触”だと言う。

 クラスのみんなは、また何事もなかった顔をする。


 だったら、最初から言わない方がましだ。


 そんな考えが、自分の中で自然に育ち始めていることに、理人はうすうす気づいていた。


 助けてほしい。

 でも、どうせ届かない。


 その感覚が、じわじわと根を張っていく。


 やさしい顔の裏側にあるものを知ってしまったからこそ、

 理人はもう、前のようには誰かを信じられなくなり始めていた。

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