写らなかった一人
第11話 写らなかった一人
遠足の日の朝は、よく晴れていた。
空は高く、雲は薄く流れ、春の終わりらしいやわらかな陽射しが街を照らしていた。行き先は横浜方面の見学施設と公園。六年生になって最初の校外学習としては、ごくありふれた一日だった。
朝の昇降口には、リュックを背負った子どもたちの弾んだ声が満ちていた。
「お菓子持った?」
「しおり忘れてない?」
「電車乗るの久しぶり!」
そんな声が飛び交う中、理人も家を出る前に何度も持ち物を確認してきた。しおり、水筒、弁当、お菓子、ハンカチ、ティッシュ。忘れ物はない。朝食もちゃんと食べた。鼻炎の薬も飲んだ。
外から見れば、何も問題のない朝だった。
だが理人の胸の中には、出発前から重たいものが沈んでいた。
遠足は好きなはずだった。
教室を離れられるし、外の空気も吸える。
景色を見て、電車に乗って、少し遠くへ行ける。
前なら、そういう一日はむしろ救いだった。
でも今は違う。
教室の外へ出ても、同じメンバーがいる限り、何かが変わる気はしなかった。
⸻
集合場所のホームでも、理人はすでに半歩遅れていた。
しおりを見ながら並ぶ位置を確認しているうちに、神谷莉央たちの輪が自然にできる。江口、水田、中島、藤井、獅童――いつもの顔ぶれが笑いながら固まり、その少し外で理人は立ち止まった。
「班ごとに並んでねー」
高石の声が響く。
理人もその班へ入ろうとする。
だが、誰かが一歩ずれるたびに、自分の立つ場所がなくなる。
完全に拒絶されたわけではない。
肩を押されたわけでもない。
でも、そこに“自分の分の隙間”だけがない。
理人は結局、列の最後尾みたいな位置におさまった。
ホームへ電車が入ってくる。
金属のきしむ音と風圧が頬に当たる。
本来なら少しだけ胸が高鳴る瞬間だった。
でも理人は、その音を楽しむ余裕もなく、ただ前の背中だけを見ていた。
⸻
施設見学そのものは、表面上は問題なく進んだ。
展示物を見て、説明を聞き、しおりにメモを書く。
高石の目の届く範囲では、神谷も獅童も実によく動いた。
「先生、次こっちですか?」
「五年生の子たち、こっちで大丈夫です」
「伊達、しおり落ちそう」
獅童が一度だけ理人へそう声をかけたとき、高石は満足そうにうなずいた。
「いいねえ、ちゃんと声かけてる」
理人は何も言わなかった。
しおりは落ちそうでも何でもなかった。
ただ、先生の前で“面倒見のいい側”に立ちたかっただけだ。
そう分かっていても、それを説明する言葉がなかった。
⸻
昼前、公園に着くと子どもたちの空気は一気にゆるんだ。
ベンチの近くや芝生の上、木陰のある場所に班ごとに散っていく。弁当の時間までは自由見学ということで、子どもたちは写真を撮ったり、おやつを少しだけ交換したりしながら思い思いに過ごし始めた。
そのとき、高石が言った。
「せっかくだから、先に集合写真撮ろうか」
子どもたちが一斉にざわめく。
「どこで撮るー?」
「後ろ行きたい!」
「先生も入る?」
写真係の先生がカメラを構え、みんなが自然に集まり始める。
理人もその流れに乗って前へ出ようとした。
だが、神谷がさりげなく「こっち詰めて」と言いながら自分の周囲を固める。中島こころが「前、女子でいいよね」と笑い、江口と水田が後ろで肩を組む。
理人が立とうとした場所には、気づけば別の子が入っていた。
「あ……」
小さく声が漏れる。
でも、その声は誰にも届かない。
「はい、もうちょっとつめてー」
「後ろ見えるー?」
「獅童、そこしゃがんで」
先生の声が飛ぶ中、理人は結局、列の端よりさらに外側みたいな場所に立った。自分ではちゃんと枠の中に入っているつもりだった。少なくとも、その場ではそう思った。
だが、写真を撮り終えたあと、カメラをのぞいた子が笑いながら言った。
「あれ、伊達いなくない?」
その一言で、理人の心臓がどくっと鳴る。
先生が画面を見て、「ほんとだ、端すぎたかな」と軽く笑った。
神谷が肩をすくめる。
「理人くん、もっと中来ればよかったのに」
中島こころが笑う。
「また気配消してたんじゃない?」
周りで何人かがくすくす笑う。
理人は何も言えなかった。
中へ行こうとした。
でも行けなかった。
その“行けなかった理由”を、今この場で誰が分かってくれるだろう。
先生は「じゃあもう一枚撮る?」とは言わなかった。
時間も流れも止めず、そのまま「はい、じゃあお弁当にしようか」と進めた。
その瞬間、理人の中で何かが静かに沈んだ。
自分は、写っていなかった。
この遠足の記録の中に、自分は残らない。
いたのに。
ちゃんとその場にいたのに。
⸻
弁当の時間も同じだった。
班ごとに輪になって食べることになり、理人も遅れて近づいた。だがレジャーシートの上には、ちょうど人数分のように見えるスペースしかない。
「そこ、ちょっと狭いかも」
と藤井美咲が言う。
「じゃあ理人くん、そっちの端でいいんじゃない?」
と神谷が自然に続ける。
その“自然さ”が、理人にはもう恐怖に近かった。
理人はシートの端、ほとんど土の上に近いところへ座った。輪の中ではある。だが中心からは明らかに遠い。弁当箱を開けても、みんなの会話はほとんど届かない。届いても、自分が入る隙間はない。
五年生の男子が少し不思議そうに理人を見たが、何も言わなかった。
神谷たちは楽しそうに卵焼きやお菓子の話をしている。
その笑顔は、どこから見ても仲のいい班の風景だった。
理人は黙って弁当を口へ運ぶ。
味がしないわけではない。
でも、食べているという感覚が薄かった。
そこへ江口が、わざとらしく空を見上げながら言った。
「なんかさあ」
水田が「なに」と返す。
「遠足って、気分悪いやつがいるとテンション下がるよな」
その言葉に、中島こころが笑う。
「わかるー。暗い人いると空気重くなる」
理人の箸が止まる。
自分のことだ。
そう分かる言い方だった。
神谷はすぐには口を開かなかった。少しだけ間を置いて、わざと穏やかな声で言った。
「でも理人くん、たぶん悪気はないんだよ」
その“かばっているふう”の声に、理人の背筋が冷える。
「ただ、いるだけでちょっと空気変わるよね」
と中島が続ける。
「なんかさ、お前がおったらうちら不幸になる感じする」
江口が笑いながら言った。
その一言で、理人の中の時間が止まった。
笑って言っている。
でも、目は笑っていない。
水田がスマホをいじりながら、ぼそっと言う。
「お前がいなくなったら、みんなもっと楽なんじゃね」
理人の呼吸が浅くなる。
神谷が弁当箱を閉じながら、ほとんど独り言みたいな声で言った。
「どっか遠くに行ってくれたら、みんな幸せになれるのにね」
その声は、あまりにも静かだった。
だからこそ、冗談ではなく本音みたいに聞こえた。
理人はその場で固まった。
耳が熱い。
なのに手先は冷たい。
言い返したいのに、喉が動かない。
何かを言えば泣いてしまいそうだった。
泣いたら終わる気がした。
だから、ただ下を向いた。
目の前の弁当の白いご飯が、急に遠く見える。
自分はここにいても、いないのと同じなのかもしれない。
写真にも写らない。
輪の中にも入れない。
いても空気が悪くなると言われる。
じゃあ、自分は何なんだろう。
そんな考えが、初めて言葉の形を持って胸の奥へ落ちていった。
⸻
そのあとも遠足は続いた。
班行動の見学ルートでも、理人だけが自然に置いていかれる場面が何度もあった。神谷が「先に行こ」と言えばみんなが動く。理人がしおりを見ている間に距離が開く。追いつくと、また会話が止まる。
物理的には同じ班だ。
でも、理人だけが班の外側にいる。
その感覚が、一日中まとわりついた。
帰りの集合でも、高石は「みんな時間通りでえらいね」と笑い、獅童は「先生、こっち人数合ってます」と元気よく返した。神谷は下級生の荷物を持ってやり、「ありがとう」と言われていた。
理人だけが、ただそこに立っていた。
⸻
学校へ戻るバスの中、窓の外には夕方の空が広がっていた。
オレンジと青が溶け合うような色だった。
本来なら、理人が好きな時間帯だった。
でも今日は、窓の外を見る気にもなれなかった。
ガラスに映る自分の顔は、妙にぼんやりして見える。
自分は、ここにいる。
ちゃんと席に座っている。
今日一日、同じ場所を歩いていた。
なのに写真には残らない。
輪にも入れない。
いてもいないことにされる。
それはただの孤立ではなく、
存在そのものを少しずつ薄くされていくような感覚だった。
理人はリュックの肩ひもをぎゅっと握った。
遠くに行って。
その言葉だけが、何度も頭の中で反響する。
⸻
家に帰ると、葵が玄関で迎えた。
「おかえり。どうだった?」
理人は靴を脱ぎながら、小さく答える。
「……普通」
その声の薄さに、葵はすぐ気づいた。
顔色が悪い。
目も合わない。
遠足帰りなら、もう少し疲れたなりの興奮や、何かしらの話が出るはずなのに、それがない。
「写真とか撮った?」
と葵が聞く。
その瞬間、理人の肩がほんの少しだけ揺れた。
「……撮った」
「あとで見せてね」
理人は答えなかった。
その沈黙で、葵の胸の中に冷たいものが落ちる。
⸻
夜、理人はランドセル――ではなく、その日のリュックからしおりを出して机の上へ置いた。
写真は後日配られることになっている。
でも、理人にはもう分かっていた。
たぶん、自分はちゃんとは写っていない。
もし写っていたとしても、端の端。
切り取られてもおかしくない場所。
いてもいなくても同じみたいな場所だ。
理人は机に向かったまま、しばらく動けなかった。
今日、自分は何回“いないもの”にされたんだろう。
そして最後には、言われた。
お前がいたら不幸になる。
お前がいなくなったら、みんな幸せになれる。
どっか遠くに行って。
あまりにもひどい言葉だった。
でも、ひどすぎるせいで、逆に現実感がなかった。
本当に言われたのか。
聞き間違いじゃないのか。
そう思いたくなるくらい、まっすぐな否定だった。
理人は机の上に伏せるように額をつけた。
自分はここにいても、いないのと同じなのかもしれない。
その考えが、今までで一番はっきりした形で心の中に残った。
⸻
後日配られた集合写真には、たしかに理人の姿はなかった。
正確には、肩の端のようなものだけが画面のぎりぎりに映り込んでいた。
それが自分だと分かるのは、本人だけだった。
「ほんとに伊達いなくて草」
と江口が笑う。
「気配消しすぎ」
中島こころも笑う。
神谷は写真を見ながら、にっこりして言った。
「でもまあ、そういうのってあるよね」
その“あるよね”の冷たさに、理人は何も言えなかった。
写真は、残るはずのものだ。
思い出として。
記録として。
そこから自分だけが抜け落ちている。
それは、ただ一枚の写真以上の意味を持っていた。
⸻
葵がその写真を見たのは、理人が机の引き出しへしまい込もうとしたあとだった。
「遠足の写真もう来たの?」
そう言って葵が手に取ったとき、理人の顔が強張る。
葵は写真を見て、すぐに違和感に気づいた。
「……理人、どこ?」
理人は答えない。
葵の指先が、写真の端のわずかな影をたどる。
ようやく、そこに理人の肩らしきものを見つける。
「これ……?」
理人は黙ってうなずいた。
その瞬間、葵の胸の中で何かが静かに燃えた。
遠足の集合写真に、うちの子が写っていない。
しかも本人は、それを怒るでもなく、もう当然みたいな顔で受け入れている。
それが、何よりも異常だった。
⸻
その夜、理人は布団に入ってからもなかなか眠れなかった。
遠足の笑い声。
写真の端。
どっか遠くに行って。
お前がいなくなったら、みんな幸せ。
言葉が頭の中で何度も反復する。
ここにいても、いないのと同じ。
じゃあ、自分は本当に、いなくてもいいのだろうか。
そんな考えがよぎって、理人は布団の中でぎゅっと目を閉じた。
違う。
そうじゃない。
そう思いたいのに、昼の言葉があまりにも強く残っていて、打ち消しきれない。
理人は声もなく息を吐いた。
教室の中で、自分の輪郭だけが少しずつ薄くなっていく気がした。




