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少年法の壁  作者: リンダ


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止めなかった側の罪

 第12話 止めなかった側の罪


 人が傷つけられるとき、いつも手を下す者だけがそこにいるわけではない。


 見ている者がいる。

 聞いている者がいる。

 おかしいと思っている者もいる。


 それでも何も起きないのは、

 誰も止めないからだった。


 遠足のあとから、理人を見る周囲の空気はさらに変わっていた。


 あからさまに笑う者。

 露骨に避ける者。

 目を逸らす者。


 そしてもう一つ、

 何かに気づきながら、見ないふりをする者たち。


 それが、理人には前よりもはっきり見えるようになってきた。


 たとえば、相良拓斗だった。


 相良は、最初のころからずっと中途半端な位置にいた。

 江口や水田と一緒に笑うことはある。

 でも、獅童や神谷ほど積極的ではない。

 理人が困っていても助けないが、楽しそうに追い打ちをかけることもあまりない。


 その“何もしなさ”が、理人には逆につらかった。


 ある日、理人の机の中に入れていた連絡プリントがぐしゃぐしゃに丸められていた。誰がやったのかは分からない。でも、席替えもしていない今の配置なら、近くにいた誰かしかできないはずだった。


 理人が黙ってそれを広げていると、斜め前の相良が一瞬だけこちらを見た。

 目が合った。

 その目は、何かを知っているようにも見えた。


 でも相良は、すぐに目を逸らした。


 何も言わない。

 何も聞かない。

 何もなかったことにする。


 それだけだった。


 理人はその瞬間、相良が“知らない”のではなく、“見ているのに止めない側”なのだと知った。


 別のクラスの子たちも、少しずつ異変に気づき始めていた。


 六年二組の女子が、廊下ですれ違うときに理人へ向けられる笑い声を何度か見ていた。五年生の男子は、飯盒炊爨の日に理人だけが明らかに働かされていたことを覚えている。図書室の前で理人の雑誌を取り上げて笑っていた江口たちを見かけた四年生もいた。


 “おかしい”と思っている子は、もう理人の周りに少しずつ増えていた。


 だが、その“おかしい”は、すぐには言葉にならない。


 なぜなら、六年生の空気がそれを押しつぶすからだ。


 上級生の輪に口を出すのは怖い。

 もし勘違いだったらどうしよう。

 余計なことを言ったと思われたら嫌だ。

 自分まで目をつけられたらどうしよう。


 そう考えると、口が閉じる。


 そして、その沈黙がまた一つ、理人を追い詰める。


 図書室の前の廊下で、そんな場面があった。


 昼休み、理人が一人で返却本を持って歩いていると、後ろから獅童と江口たちがやってきた。


「おい、理人」

 と獅童が声をかける。


 理人は立ち止まらず、少しだけ歩く速度を上げた。

 その瞬間、後ろから本の背を軽く叩かれる。

 持っていた本が手から滑り、床へ落ちた。


「あっ」


 本が廊下に散らばる。


 すぐ近くにいた別クラスの男子が、その様子を見て立ち止まった。

 下級生の女子も二人、少し離れた場所でこちらを見ている。


 理人はしゃがんで本を拾おうとした。

 だが、江口が先に一冊をつまみ上げ、表紙を見て笑う。


「また本かよ」

「ほんと暗いな」

 と水田。


 獅童は、別クラスの子たちが見ていることに気づいたのだろう。

 すぐに口調を変えて笑った。


「ほら、落としたぞ。ちゃんと持てって」


 その声は明るく、冗談めいている。

 周囲から見れば、友達どうしの軽いやり取りにも見えたかもしれない。


 別クラスの男子は一瞬だけ迷ったような顔をした。

 何か言おうとしたのかもしれない。

 でも、結局そのまま通り過ぎていった。


 下級生の女子たちも、小さく顔を見合わせただけで、何も言わずに去った。


 理人は散らばった本を拾いながら、その足音を聞いていた。


 誰かは見ていた。

 でも、誰も止めなかった。


 その事実だけが、静かに胸へ沈んでいく。


 教室の中でも同じだった。


 給食の時間、神谷が「理人くん、それ取って」と何度も理人だけを使う。

 理人が少し遅れると、中島こころが「ほんと鈍い」と笑う。

 江口がわざと机を揺らし、水がこぼれそうになる。


 そんな場面を、周りの子たちは毎日のように見ていた。


 見ていて、気づいていて、それでも口をつぐむ。


 それは、悪意がないから許されるわけではなかった。

 むしろ、悪意がないまま沈黙するからこそ、加害は止まらない。


 その日も、理人が机の角に膝をぶつけて顔をしかめたとき、近くの席の女子が一瞬だけ「あ……」という顔をした。だが、何も言わなかった。隣の友達と目を合わせて、すぐに給食の話へ戻った。


 理人はその小さな反応を見てしまった。


 あの子は、たぶん分かっている。


 分かっていて、見ないふりをした。


 それが今の理人には、加害の言葉と同じくらい重かった。


 下級生の間では、遠足の日のことが小さく残っていた。


「あの六年生の人、かわいそうだったよね」

「でも神谷さんがああ言ってたし……」

「ほんとは食べたかったんじゃないのかな」

「でも先生も何も言ってなかったよ」


 そんな会話が、五年生の教室の片隅で交わされることもあった。


 おかしい、と感じている。

 でも、その“おかしい”は、先生が止めなかったことで半分消されてしまっている。


 先生が問題にしないなら、自分たちが口を出すことではないのかもしれない。


 子どもたちはそうやって、自分の感覚を押し込めていく。


 その結果、理人の周りにはますます“何も起きていないことになっている空気”だけが強くなっていった。


 相良拓斗は、その空気の中で少しずつ息苦しさを感じ始めていた。


 ある日の帰り、裏の連絡グループにまた書き込みが流れる。


 今日の伊達、まじで終わってた笑


 なんかもう顔が不幸そうなんだよな


 あそこまでいくと逆にウケる


 獅童が笑うスタンプを送り、神谷が短く書いた。


 でも誰も助けないの、ちょっとすごいよね


 その言葉に、グループの何人かがまたスタンプで反応する。


 相良は画面を見ながら、指を止めた。


 “誰も助けない”。


 その言葉が妙に引っかかった。


 助けていないのは、自分も同じだった。


 目の前で嫌なことが起きているのは分かっている。

 理人の顔色が日に日に悪くなっているのも分かる。

 でも、自分は何も言っていない。


 理由は簡単だった。

 怖いからだ。


 獅童や江口に逆らえば、自分も標的になるかもしれない。

 神谷に「なんでそんなに庇うの?」と言われたら終わる。

 今の位置を失うのが怖い。


 その怖さに負けている。


 相良はスマホの画面を閉じた。

 胸の奥が重かった。

 でも、その重さより、翌日の教室の方が怖かった。


 だから、結局何もしない。


 理人は、もう少しずつ理解し始めていた。


 誰も気づいていないわけじゃない。

 誰も知らないわけでもない。


 見ている子はいる。

 おかしいと思っている子もいる。

 でも、その上で、誰も助けない。


 それが一番きつかった。


 完全に無関心なら、まだ諦めやすい。

 でも実際には、みんなほんの少しずつ気づいている。

 それでも手を差し伸べない。


 そのことが、

「自分は助ける価値のない人間なんじゃないか」

 という感覚へつながっていく。


 理人はそれを、まだ言葉にはできなかった。

 でも心の奥ではもう、形になり始めていた。


 その日の放課後、理人は校舎裏の通路で立ち止まった。


 校庭からは野球をしている声が聞こえる。

 吹き抜ける風は少し湿っていて、初夏の匂いが混じっていた。


 そこへ、別クラスの男子が通りかかった。

 図書室の前で本を落としたときに見ていた子だった。


 一瞬、目が合う。


 その子は何か言いたそうにした。

 でも結局、何も言わずに「じゃあ」とも言わず通り過ぎた。


 理人はその背中を見送りながら、胸の中で静かに何かが固まっていくのを感じた。


 誰も助けてくれない。


 先生も。

 同じクラスの子も。

 見ていた子も。

 おかしいと思っていた下級生も。


 みんな、気づいているのに、何もしない。


 なら、もう、最初からいないものとして扱われているのと同じじゃないか。


 そう思った瞬間、目の前の景色が少しだけ遠くなった。


 家に帰ると、葵が玄関で「おかえり」と言った。


 理人は「ただいま」と返したが、その声は自分でも驚くほど薄かった。


 夕食の席で美羽が学校の話をしていても、理人はほとんど反応しなかった。健斗が仕事の疲れをにじませながらも「理人、なんかぼーっとしてるぞ」と言っても、「別に」と返すだけだった。


 葵はその様子を見ていた。


 理人の中で、何かがまた一つ深く沈んだのだと分かった。

 でも、それが何なのか、まだ届かない。


 理人は食べ終えたあと、自分の部屋へ戻った。


 机の上には、遠足の写真がしまわれたままだった。


 写っていなかった一人。

 見ていたのに止めなかった人たち。

 いなくなれば幸せになれるという言葉。


 その全部が、少しずつ理人の内側に沈殿していく。


 もう、誰も助けてくれない。


 その感覚だけが、静かに、でも確実に根を張っていった。


 夜、布団に入って目を閉じると、理人の頭の中には今日の廊下の光景が浮かんだ。


 本が落ちた音。

 立ち止まった別クラスの子。

 何も言わずに去っていく足音。


 そして、誰もいなくなった廊下。


 理人は布団の中で小さく身を縮めた。


 傷つける側がいる。

 でもそれだけじゃなく、

 見ていたのに止めなかった側がいる。


 そのことが、どうしようもなく苦しかった。


 誰か一人でも「やめろ」と言ってくれたら。

 誰か一人でも「おかしい」と言ってくれたら。

 何か違ったのかもしれない。


 でも、現実には誰も言わなかった。


 その沈黙が、理人にはいちばん大きな答えに思えた。

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