机の上の壊れた世界
第13話 机の上の壊れた世界
六月が近づくころには、理人の机はもう“自分の場所”ではなくなり始めていた。
小学校の机は小さい。
木目調の天板に、少し傷があって、角には長年使われた丸みがある。引き出しの中には教科書、ノート、筆箱、連絡袋。毎日同じものを入れて、同じように座る。
本来なら、それは子どもにとって一番小さな安心の場所のはずだった。
ここに座れば授業が始まる。
ここにノートを開けば勉強ができる。
ここに自分の道具を置けば、それは自分のものとして守られる。
でも理人にとって、その机はもうそういう場所ではなかった。
朝、教室へ入るたびに、まず確認しなければならない。
何がなくなっていないか。
何が壊されていないか。
何か書かれていないか。
その確認から、一日が始まる。
もうその時点で、おかしい。
理人自身もそう思う。
でも、その“おかしい”を口にしても、今まで何も変わらなかった。
⸻
その日の朝も、理人はいつもより少し早く教室へ入った。
まだ何人かしか来ていない時間帯だった。
窓から入る朝の光が教室の床に長く伸びていて、空気はまだざわつく前の静けさを残している。
理人は自分の席へ向かい、そこで立ち止まった。
机の上に、黒い油性ペンで線が引かれていた。
ぐしゃぐしゃと何本も交差した線。
その中心に、小さく文字が見える。
きえろ
理人の喉が、音もなく詰まる。
さらに視線を落とすと、引き出しの中のノートの端が何枚も折られていた。連絡帳の表紙には爪で引っかいたような跡があり、筆箱のファスナーには変な癖がついている。消しゴムは真ん中から折られ、鉛筆の一本は芯が根元で潰れていた。
「……」
理人はその場でしばらく動けなかった。
怒りより先に、頭の中が真っ白になった。
ここまで来たのか。
そう思った。
でも同時に、どこかで「やっぱり」と思う自分もいた。
あれだけ言葉で存在を消されてきたのだから、
次は物としての居場所が壊されるのも、もう不思議ではない。
でも、実際に目の前にあると違う。
机の上に書かれた文字。
自分のノートの折れた角。
壊れた筆記用具。
それは、誰かが自分のいない間にここへ来て、時間をかけてやったのだという証拠だった。
自分の机を、ただの家具ではなく、
壊してもいいもの
だと見なした誰かがいる。
そのことが、理人にはたまらなくつらかった。
⸻
「なにそれ」
後ろから声がした。
振り向くと、相良拓斗が立っていた。
相良は机の上の文字を見て、一瞬だけ顔をこわばらせた。
「……知らない」
理人はそれだけ言った。
相良は何か言いたそうだった。
でも、結局何も言わない。
教室の入り口の方を一度見て、それから小さく視線を落とした。
「先生、呼ぶ?」
かすかな声だった。
その言葉に、理人の胸が少しだけ揺れる。
呼ぶ。
たしかに、それが普通だ。
でも、その“普通”が今まで一度も自分を救ってこなかったことを、理人はもう知っている。
「……いい」
「でも」
「いいって」
理人は少しだけ強く言った。
相良は黙る。
その沈黙が、また理人を冷たくする。
呼ぶべきだと思ったなら、どうして今まで止めなかったんだよ。
そういう言葉が喉元まで来たが、出なかった。
理人は机の上の文字を手でこすった。
油性ペンは簡単には消えない。
指先が黒く汚れるだけだった。
⸻
朝の会が始まるころには、教室はいつものざわめきで満ちていた。
神谷莉央は「おはよう」と明るく挨拶し、
獅童は誰かと笑いながら席に座り、
江口と水田はいつものように軽口を叩いている。
その中で、理人だけが机の上の文字を消そうと必死になっていた。
「あれ、なに?」
と中島こころが、わざとらしく言う。
理人が顔を上げると、中島は少し驚いたふりをした。
「うわ、誰かやったの?」
その声には、薄い笑いが混じっていた。
神谷が近づいてくる。
机の上を見て、少し眉をひそめる。
「ひどくない?」
その“ひどくない?”に、理人は目の奥が熱くなった。
おまえだろ。
おまえらだろ。
そう叫びたかった。
でも高石が教室へ入ってきて、その場の空気はすぐに整えられた。
「はい、席についてー」
高石は一度理人の机を見て、「あら」とだけ言った。
「伊達くん、それどうしたの?」
理人は口を開いた。
けれど、周囲の空気が一気に自分へ向くのを感じた。
神谷は静かに席に座っている。
獅童は頬杖をつきながらこちらを見ている。
江口は目を細めている。
水田は何でもない顔だ。
その視線の中で、理人は答えた。
「……わかりません」
高石は少し困ったような顔をしたが、やがて言った。
「誰か心当たりある人、いない?」
もちろん、返事はない。
しん、とした空気の中で、神谷が小さく言う。
「伊達くん、昨日放課後もちょっと残ってたよね。もしかして、そのときじゃない?」
その瞬間、理人の中で冷たいものが走った。
責任を、こちらへ返した。
高石は「そうなの?」と理人を見る。
「……少しだけ、残ってました」
「じゃあ、そのときに何かあったのかな」
高石は深刻そうではなく、あくまで“原因確認”の口調だった。
理人は、もうそれ以上何も言えなかった。
結局、高石は「あとで消せるものは消して、難しかったら先生に言ってね」とだけ言って、朝の会を始めた。
その一連の流れを見て、理人の中でまた一つ何かが壊れた。
証拠が目の前にある。
それでも、誰も本気で止めようとしない。
机の上の文字よりも、そのことの方が苦しかった。
⸻
同じころ、美羽は自分のクラスで朝の準備をしながら、ずっと兄のことを考えていた。
最近のお兄ちゃんは、おかしい。
前みたいに、一緒に変な顔をして笑ってくれない。
星の話をしてくれない。
算数の宿題で分からないところを聞いても、「あとでね」と言うことが増えた。
夜、部屋の前を通ると、明かりはついているのに、何もしていないような気配がある。
目も、前と違う。
ぼんやりしていて、遠くを見ているみたいだ。
美羽は子どもだった。
でも子どもだからこそ、兄の“元気がない”を理屈ではなく感覚で分かっていた。
だからその日、美羽は少しだけ勇気を出すことにした。
休み時間、使っていた消しゴムをわざと机の中へ残したふりをして、予備が欲しいという理由を作る。
お兄ちゃんに会いに行こう。
ただ、それだけだった。
兄の顔を見れば、何かわかるかもしれない。
そう思った。
⸻
二時間目と三時間目のあいだの休み時間。
美羽は小さな足で六年棟の方へ向かった。
六年一組の教室の前まで来ると、中から子どもたちの声が聞こえる。笑い声もある。ぱっと見ただけなら、普通の教室だった。
美羽は扉のところで少し背伸びをした。
「お兄ちゃん?」
その声に、教室の何人かが振り向く。
理人も机のところで顔を上げた。
美羽は兄の顔を見た瞬間、胸がぎゅっとなった。
やっぱり変だ。
顔色が悪い。
笑っていない。
そして、机の上に変な黒い跡がある。
「どうしたの?」
と理人が聞く。
美羽は慌てて、考えてきた理由を言った。
「消しゴム忘れちゃって……予備のやつ、貸してくれない?」
「あ、うん……」
理人は引き出しを開けた。
その瞬間、美羽には中が少し見えた。
折れた鉛筆。
破れかけたノート。
ぐしゃっとした紙。
何これ。
そう思ったが、声には出せなかった。
理人が小さな消しゴムを一つ取り出して手渡そうとした、そのときだった。
「えー、妹ちゃん?」
神谷莉央の声がした。
やわらかく、やさしそうな声だった。
美羽が振り向くと、神谷はにこにこしながら近づいてきた。
「かわいいね。何年生?」
「……三年」
「そっかあ。お兄ちゃんに用?」
その聞き方は、どこから見ても親しげだった。
でも美羽は、なぜかその笑顔が少し怖かった。
「消しゴム、借りに……」
「へえ。理人くん、妹にはちゃんと優しいんだ」
その言葉に、周囲で何人かが笑う。
意味が分からないのに、笑いの向きだけは分かった。
兄が、何かのネタにされている。
美羽は小さな手で消しゴムを握りしめた。
そのとき、中島こころが机の方を見て言った。
「あれ、伊達の机まだ消えてないじゃん」
美羽は思わずそちらを見る。
机の上の黒い文字。
うまく消せていない線の跡。
そして、兄がそれをさっきまで必死にこすっていたらしい指の汚れ。
胸がどくんと鳴る。
「お兄ちゃん、それ……」
美羽が言いかけると、理人はすぐに首を振った。
「なんでもない」
その言い方が、余計に“なんでもなくない”ことを示していた。
教室の空気が急に重くなる。
美羽は、子どもながらに分かった。
ここ、変だ。
お兄ちゃん、ここで変なことされてる。
それが一気に確信に変わった。
⸻
美羽は教室を出ると、走るように階段を降りた。
胸がどきどきしている。
消しゴムを借りに行っただけなのに、見たくないものを見てしまった気がした。
兄の机。
兄の顔。
笑っているのに冷たい周りの子たち。
前のお兄ちゃんじゃない。
明るくて、一緒にくだらないことして笑ってくれたお兄ちゃんじゃない。
あんな目、してなかった。
美羽はその日の帰りまで、胸のざわざわが消えなかった。
⸻
夕方、家に帰ると、美羽は葵のところへ真っ先に行った。
「お母さん」
その声の真剣さに、葵はすぐ振り向く。
「どうしたの?」
美羽は少し息を切らしながら言った。
「今日ね、お兄ちゃんの教室行ったの」
葵の手が止まる。
「……なんで?」
「消しゴム借りに行って」
美羽は言葉を急ぐ。
「そしたら、お兄ちゃんの机、なんか黒く書かれてて、ノートもぐしゃってなってて、みんなへんな笑い方してて……」
葵の顔色が変わった。
「なんて書いてあった?」
「ちゃんとは見えなかった……でも、なんでもないって言ってた。でもなんでもない感じじゃなかった」
美羽はそこで、少しだけ声を震わせた。
「お兄ちゃん、目が変だった」
その一言が、葵の胸をまっすぐ刺した。
目が変だった。
美羽はまだ三年生だ。
詳しい説明なんてできない。
でも、その子がそう言うなら、それは本当にそうなのだろう。
葵の中で、何かが決定的に変わる。
もう“気のせい”ではない。
もう“よくあること”でもない。
もう“本人が言わないから様子を見る”段階でもない。
学校で、理人の居場所が壊されている。
しかも今度は、机という目に見える形で。
⸻
その夜、理人は机に向かったまま、しばらく動けなかった。
引き出しの中を整理しても、壊れた鉛筆は元に戻らない。
ノートの折れた角も戻らない。
机の上の跡も、少し薄くなっただけで消えない。
自分の居場所が、物理的に壊された。
それは想像以上にこたえた。
教室の中で、自分が座る場所。
そこがもう安全じゃない。
自分の持ち物さえ守られない。
理人は机に額をつけたまま、目を閉じた。
ここにも、自分の場所はないのかもしれない。
そう思ったとき、胸の奥がすうっと冷えていった。
その冷たさは、もう簡単には消えそうになかった。




