玄関で止まる足
第14話 玄関で止まる足
朝、理人は制服ではなく、いつもの私服の上に校外学習用の上着を羽織るみたいにして学校へ行く準備をしていた。
小学校だから制服はない。
でも、ランドセルを背負い、水筒を確認し、連絡帳を入れるという朝の流れは、毎日ほとんど変わらない。
その日も、理人はいつも通りに起きた。
顔を洗い、朝食の席に座り、鼻炎の薬を飲み、ランドセルを背負った。
外から見れば、何も問題のない朝だった。
だが玄関へ行ったとき、
そこで、足が止まった。
靴を履くために腰をかがめる。
右足を上履き用の靴へ入れようとする。
でも、うまく入らない。
いや、入らないんじゃない。
動けないのだ。
体が、前へ行くことを拒んでいる。
「理人?」
後ろから葵の声がした。
理人は返事をしなかった。
靴を持ったまま、ただ玄関のたたきのところに立ち尽くしている。
「どうしたの?」
葵が近づいてくる。
そこでようやく理人は、かすれた声で言った。
「……ちょっと」
それだけだった。
でも、その“ちょっと”の中に、今まで押し込めていたものが全部詰まっているように聞こえた。
葵はすぐ横へしゃがみ込んだ。
「気分悪い?」
理人は首を横に振る。
けれど、その動きも小さい。
「じゃあ、どこか痛い?」
また首を振る。
痛いところはある。
脇腹も、肩も、胸の奥も。
でも、それを今ここでどう言えばいいのか分からない。
ただ、学校へ行くことだけが、急に現実のものとして迫ってきて、
教室の扉を開けることも、
机を見ることも、
笑い声を聞くことも、
全部が無理だと思った。
その瞬間、体が先に動かなくなった。
「……行きたくない」
理人の口から、やっとその言葉が出た。
小さかった。
でも、はっきりしていた。
葵の胸が、どくんと鳴る。
今までの理人は、「大丈夫」「普通」「別に」としか言わなかった。
その理人が、初めて“行きたくない”と言った。
それがどれほどぎりぎりの言葉か、葵には分かった。
⸻
結局その日は、少し遅れて登校することになった。
葵は学校へ「朝少し体調が悪くて遅れます」とだけ連絡した。
本当は、体調だけではない。
でも、まだその言葉を学校へそのまま渡す勇気はなかった。
理人はリビングのソファに座ったまま、しばらく動けなかった。
ランドセルは玄関に置かれたままだ。
時計の針だけが進む。
いつもなら、もう一時間目が始まっているころ。
みんなが教科書を開いているころ。
その時間に家にいるという事実が、理人には奇妙で、少しだけほっとして、でも同時にひどく不安だった。
遅れて行ったらどうなる。
また何か言われるんじゃないか。
でも、このままずっと行かないわけにもいかない。
答えは出ない。
ただ時間だけが過ぎる。
葵はその横顔を見ながら、もう限界が近い、とはっきり感じていた。
⸻
同じ朝、美羽は自分の教室でずっと落ち着かなかった。
昨日見た兄の机。
黒い文字。
折れた鉛筆。
そして、兄の目。
やっぱりおかしい。
休み時間になると、美羽は勇気を出して自分の担任の先生のところへ行った。
「先生」
「どうしたの、美羽ちゃん」
優しい女の先生だった。
美羽は少し息を吸ってから、一気に言った。
「昨日ね、お兄ちゃんの教室行ったの。そしたら、お兄ちゃんの机、変になってて……ノートもぐしゃってしてて……お兄ちゃん、なんでもないって言ったけど、絶対なんでもなくないの」
担任の先生の表情が変わる。
「お兄ちゃんって、六年一組の理人くん?」
「うん」
「……そう」
先生は少し考え、それからしゃがんで美羽の目線に合わせた。
「教えてくれてありがとう。先生、ちょっと様子見てくるね」
美羽はこくんとうなずいた。
その瞬間、昨日から胸に溜まっていたものが少しだけほどけた気がした。
⸻
理人が遅れて学校へ着いたのは、二時間目と三時間目のあいだの休み時間だった。
校門をくぐるだけで心臓が速くなる。
教室のある廊下へ向かうにつれて、足がまた重くなる。
行きたくない。
でも行かなきゃ。
その二つが頭の中で何度もぶつかる。
六年棟へ続く階段の踊り場で、理人は少しだけ立ち止まった。
そのときだった。
「理人くん?」
やわらかい声がした。
振り向くと、美羽の担任の先生が立っていた。理人は何度か廊下ですれ違ったことがある程度で、深く話したことはない先生だった。
「少し遅れて来たんだね」
「……はい」
「ちょっとだけ、先生と話せる?」
その聞き方には、無理に連れていこうとする感じがなかった。
ただ、逃げ道を残したまま、そっと手を差し出すような声だった。
理人は数秒迷った。
でも、なぜかその先生の前では「大丈夫です」がすぐに出てこなかった。
先生は廊下の端の、窓際の静かな場所まで理人を連れていった。
少しだけ風が入ってくる。
校庭の音が遠くで聞こえる。
「美羽ちゃんがね、昨日お兄ちゃんの教室で気になることを見たって教えてくれたの」
その言葉で、理人の肩が強くこわばった。
「何か、つらいこと起きてるんじゃない?」
やさしい声だった。
決めつけるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ、そこに置かれた問いだった。
理人は最初、何も言えなかった。
喉がつまる。
目の奥が熱くなる。
「……べつに」
反射的にそう言いかけた。
でも、その言葉の途中で、何かが切れた。
「……っ」
次の瞬間、理人の目から涙が落ちた。
自分でも驚くくらい、急だった。
「理人くん」
先生は慌てず、ただそこで待っていた。
理人は何か言おうとした。
でも言葉がうまく出てこない。
涙だけが先に出る。
「……机、なんか書かれて」
「うん」
「物も、なくなったり、壊されたりして」
「うん」
「……写真も、ちゃんと入れなくて」
「うん」
先生は一つずつ受け止めるように、短く返した。
理人は泣きながら続けた。
「なんか、ずっと……笑われてて」
「……うん」
「いなくなったら、みんな幸せだとか」
「……」
「どっか遠く行けって……」
その言葉を口にした瞬間、理人の肩が大きく震えた。
先生の顔色が変わる。
だが、それでも先生は理人を急かさなかった。
「よく話してくれたね」
その一言で、理人はまた涙をこぼした。
今まで誰にもちゃんと言えなかった。
お母さんにも言えなかった。
先生にも言えなかった。
でも今、初めて“言葉にしてもいい”場所がある気がした。
⸻
その日の学校では、六年一組の担任である高石にも連絡が入った。
だがそれはすぐに大きな動きにはつながらなかった。
高石は「そうですか……」と戸惑いながら聞き、
「最近少し様子は見ていました」と答えた。
だがその言葉の遅さに、美羽の担任は内心で違和感を抱いていた。
見ていて、この状態だったのか。
そう思った。
理人は保健室で少し休み、その日は早退することになった。
帰り道、葵は何度も理人の顔を見た。
泣いたあとの赤い目。
でもどこか、少しだけ張りつめたものが緩んだ表情。
理人はぽつりとだけ言った。
「……美羽が、言ったんだって」
「うん」
「……そっか」
それだけだった。
でも、その“そっか”には、驚きと、少しの救いと、申し訳なさみたいなものが混じっていた。
⸻
夜、健斗はいつもより少し早く帰ってきた。
葵から話を聞いていたのだろう。玄関を開けたときの顔つきから、いつもの仕事帰りとは違う固さがあった。
夕食のあと、リビングでしばらく黙っていた健斗が、不意に理人へ言った。
「理人」
「……うん」
「たまには、一緒に風呂入るか」
理人は顔を上げた。
小さいころにはよくあった。
でも最近は、もう別々だった。
なんで今さら、と思った。
でも、健斗の声には無理に明るくしようとする感じがなくて、ただ静かにそこにあった。
「……うん」
理人は小さく答えた。
その返事をした瞬間、胸の奥がざわついた。
今日も、脇腹が痛い。
昼休みに、教室の隅で獅童たちに“遊び”と称してつかまれ、ふざけ半分のプロレス技みたいに体をひねられた。服の下、脇腹のあたりを集中的に。外から見ればじゃれあいにも見える。けれど理人には、ただの暴力だった。
鏡の前で着替えたとき、そこにまた青あざが増えているのを見た。
服を着ていれば見えない。
だからこそ、狙われる。
風呂に入れば、その跡を見られる。
見られたくない。
心配かけたくない。
でも、聞いてほしい気持ちもある。
その二つが胸の中でぶつかっていた。
⸻
脱衣所で服を脱ぐとき、理人の手は少し震えていた。
健斗は先にタオルを腰へ巻き、何も言わずに風呂場の扉を開ける。
理人も続く。
湯気の立つ浴室は、家の中なのに少しだけ別の場所みたいだった。
水の音がして、洗面器の当たる軽い響きがある。
健斗は理人の方を見ずに、先に椅子へ座った。
「ほら、頭洗うなら先でいいぞ」
「……うん」
理人はぎこちなく隣へ座る。
シャワーのお湯が肩へ落ちる。
そのとき、健斗の目が一瞬だけ止まった。
「……理人、それ」
低い声だった。
理人の脇腹に、青あざがあった。
薄いものだけではない。新しいものが、はっきり色を残している。
浴室の白い光の下では、余計に目立った。
理人は固まる。
隠せない。
もう見られた。
「どこでやった」
健斗の声は静かだった。
怒鳴ってはいない。
でも、その静けさが逆に重い。
理人は最初、また言いかけた。
「……ぶつけた」
でも、その言葉の途中で、自分でも無理だと思った。
こんなふうに何個も。
こんな場所に。
ぶつけた、で済むはずがない。
健斗はすぐには何も言わなかった。
ただ、理人の返事を待っていた。
その沈黙の中で、理人の胸の奥にあったものがまた揺れる。
心配かけたくない。
でも、聞いてほしい。
隠したい。
でも、もう一人では持てない。
理人は湯の落ちる音を聞きながら、やっと口を開いた。
「……遊びって、言って」
健斗の手が、ぴくっと止まる。
「教室の隅で……ふざけてるみたいにして」
「……うん」
「でも、痛くて」
「……うん」
理人の声は震えていた。
「やめてって言っても……笑ってて」
「……」
「服で見えないとこ、ばっかり……」
そこまで言ったところで、もう言葉が続かなくなった。
健斗は目を閉じて、短く息を吐いた。
怒りがないわけじゃない。
むしろ、胸の奥では今すぐにでも学校へ飛んでいきたいくらいだった。
だが今、この場で必要なのはそれではないと、ぎりぎりで踏みとどまっていた。
理人が、やっと話したのだ。
まずはその言葉を受け止めなければいけない。
「……よく言ったな」
健斗はそう言った。
理人はうつむいたまま、小さく肩を震わせる。
「言ったら……またなんか、なるかもって」
「うん」
「でも……もう、わかんない」
その“わかんない”が、浴室の湯気の中へ溶けるように落ちた。
健斗はそれ以上責めることも、急かすこともしなかった。
ただ隣にいて、同じ湯気の中にいた。
理人はそのことに、少しだけ救われた気がした。
⸻
風呂から上がったあと、健斗は脱衣所の鏡の前でしばらく黙っていた。
理人の脇腹の青あざ。
細くなった声。
玄関で止まる足。
泣きながら話した言葉。
もう限界が近い、というより、
すでに限界のところまで来ているのかもしれない。
そう思った。
リビングへ戻ると、葵が立ち上がる。
健斗は短く言った。
「見た」
その一言で、葵の表情が強く固まった。
「どんな」
「青あざだ。脇腹。新しいのがある」
葵は目を閉じた。
もう疑いではない。
もう“様子を見る”段階ではない。
理人の体が、心が、先に壊れ始めている。
それが、家族にはっきり見えてしまった夜だった。
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