休めば終わるのか
第15話 休めば終わるのか
翌朝、理人はまた玄関の前で立ち止まった。
昨日ほど完全に動けなくなったわけではない。
でも、靴を履いてランドセルを持っても、ドアノブへ手を伸ばすところで体が止まる。
学校へ行けば、またあの教室がある。
机がある。
視線がある。
笑い声がある。
そして、昨日のことを知っている誰かが、何か言うかもしれない。
その想像だけで、胃の奥がぎゅっと縮んだ。
「理人」
背後から健斗が声をかける。
いつもより出勤が少し遅い時間だった。
ネクタイは締めているが、表情は昨夜のまま固い。
理人は振り返らなかった。
「……今日は」
声がかすれる。
「……休んでもいいかな」
その一言で、玄関の空気が変わった。
葵が台所から顔をのぞかせる。
健斗はすぐには何も言わなかった。
理人にとって、その言葉を口にすること自体が大きなことだった。
休みたい。
いや、休まなければ無理だ。
でも、休んだら何かが決定的に壊れる気もする。
その二つが、理人の中でまだぶつかっていた。
「……休んだら」
理人は小さく続けた。
「なんか、負けたみたいな気もするし」
言いながら、自分でもその言葉が子どもっぽいと思った。
でも、本音だった。
休めば楽になるかもしれない。
けれど同時に、
“あいつ、来なくなった”
“やっぱり弱い”
“いなくなった方がいいって言われて本当に消えた”
そんなふうに思われる気がした。
「でも……もう、無理かもしれない」
その最後の言葉は、ほとんど息みたいに落ちた。
健斗はそこでようやく近づき、理人の横に立った。
「今日は休め」
短く、はっきりした声だった。
理人が顔を上げる。
健斗は続ける。
「休んだから負けじゃない」
「……」
「壊れるまで行く方が、もっとだめだ」
その言葉に、理人は何も返せなかった。
葵も静かに近づいてきて、理人の肩にそっと手を置く。
「今日は家におろう」
その一言で、理人の中の張っていたものが少しだけ緩んだ。
ランドセルを下ろすと、自分でも分からないほど大きく息を吐いていた。
⸻
学校へは、葵が欠席の連絡を入れた。
電話口の高石は驚いた様子を見せたが、声はあくまで穏やかだった。
「そうですか……。ただ、あまり休みが続くと本人もしんどくなると思うので、できれば登校のリズムは崩したくないですね」
その言葉を聞いた瞬間、葵の胸の奥が冷えた。
リズム。
たしかにそれも大事だ。
でも、今問題なのはそこだろうか。
この子は玄関で足が止まり、
青あざを作り、
涙をこぼしながら話したのだ。
それでもなお学校側は、
基本の発想が“どう登校を継続させるか”にある。
葵は受話器を握る手に少し力を込めた。
「今は、行くこと自体がもうかなりしんどい状態です」
高石は少し黙ってから答えた。
「もちろん、無理をさせるつもりはありません。ただ、理人くんのためにも、あまり間を空けずに戻れるようにしていけたら……」
その“理人くんのため”という言葉が、今の葵には薄く聞こえた。
戻れるように。
戻す前提。
まだそこにいる子どもたちを変えるより、
理人を戻すことが先に来ている。
電話を切ったあと、葵はしばらくその場で動けなかった。
健斗が会社へ向かう前に一言だけ言う。
「学校は、まだ分かってないな」
葵は黙ってうなずいた。
⸻
そのころ学校では、別の形で空気が動き始めていた。
裏アカウントのグループに、新しい書き込みが流れていた。
妹が先生にチクったらしい
まじ?
兄妹そろってめんど
だから昨日あんな感じだったんだ
美羽って三年のくせに余計なことしすぎじゃね
あの兄妹ほんと空気壊すよね
神谷莉央が、短く書く。
やっぱり家族ぐるみで被害者ぶるタイプなんだ
そこへ、中島こころが続ける。
兄が終わってると妹もそうなるんだね
笑うスタンプ。
頷くスタンプ。
短い悪意が、また軽いノリで積み上がっていく。
そしてそのやり取りは、理人の知らないところで、今度は美羽の方へも向き始めていた。
⸻
だが、そこに思いがけない形で綻びができた。
美羽のクラスには、六年一組の神谷たちと近いグループにいる女子の妹がいた。学年は違うが、家で姉のスマホを見せてもらったり、一緒に動画を見たりすることがある子だった。
その日も放課後、その子は姉のスマホで写真を見せてもらっていた。だが、通知が上に流れた拍子に、裏アカウントのグループのやり取りが見えてしまった。
最初は意味が分からなかった。
けれど、そこに「美羽」「チクった」「兄妹そろって」という文字が並んでいるのを見た瞬間、その子の顔色が変わった。
「これ、なに?」
と聞くと、姉は慌てて画面を隠そうとした。
「別に。見なくていいし」
その“見なくていい”が逆に不自然だった。
妹は、とっさに自分のスマホで画面を撮った。
姉が気づいて取り上げようとしたときには、もう遅かった。
スクリーンショットには、はっきり文字が残っていた。
妹が先生にチクったらしい
美羽って三年のくせに余計なことしすぎ
兄が終わってると妹もそうなるんだね
それは、今までの“気のせい”や“行き違い”では済まないものだった。
⸻
翌朝、そのクラスメイトの子は担任の先生にスクショを見せた。
担任は表情を変え、すぐに事情を聞いた。
その日のうちに、美羽も呼ばれることになった。
美羽は少し緊張しながらも、画面を見た瞬間、昨日から胸の中にあった違和感がはっきりした形になった。
「やっぱり……」
と、小さくつぶやく。
担任の先生は美羽の肩にそっと手を置いた。
「これは、お兄ちゃんのことも含めて、ちゃんと大人が見ないといけないね」
その言葉に、美羽の目が少し赤くなる。
自分が見たものは間違っていなかった。
お兄ちゃんに起きていることは、本当におかしかった。
それが、初めて“証拠”の形で大人の目の前に置かれた。
⸻
家では、理人は午前中ほとんどリビングのソファでぼんやりしていた。
学校を休んでいることに、少しの安堵はあった。
でも、それ以上に胸の奥がざわついていた。
今ごろ教室では何を言われているだろう。
休んだことを、また何か言われるんじゃないか。
明日行ったら、もっと悪くなるんじゃないか。
休んでも終わらない。
でも、行っても終わらない。
じゃあ、どうすればいいのか。
理人には分からなかった。
昼前、葵が温かいお茶を置きながら聞く。
「少し寝る?」
「……ううん」
理人は首を振る。
「学校、どうなってるかなって」
「うん」
「休んだら、余計変になるかな」
「……」
「でも、行くのも無理だった」
その言葉を聞きながら、葵も答えを持てない苦しさを感じていた。
休ませるべきなのは分かる。
でも休ませた先に何があるのかは、まだ見えない。
学校は“戻ること”を前提にしている。
だが今の理人を、そのまま戻していいとは思えない。
健斗も昼休みに一度電話をかけてきた。
「理人、どうしてる」
葵が様子を伝えると、健斗は少し黙ってから言った。
「一度ちゃんと休ませるしかないかもな」
でもその声にも、迷いはあった。
休めば終わるのか。
そんなはずはない。
むしろ、休んだあとの方が難しいかもしれない。
それでも、もう“登校を続けさせること”だけを正解にはできないところまで来ていた。
⸻
夕方、美羽が学校から帰ってくると、葵にすぐ話した。
「お母さん、これ」
差し出されたのは、担任の先生に見せたスクリーンショットだった。
葵は画面を見た瞬間、息をのんだ。
そこに書かれていたのは、ただの悪口ではなかった。
理人だけでなく、美羽まで巻き込み、
“告げ口した”
“兄妹そろって”
と、家族ごと標的にする言葉だった。
そして何より、
それが裏アカウントのやり取りとして、履歴付きで残っている。
初めて、見えないところで行われていた悪意が、形になった。
葵の指先が少し震えた。
「これ……先生は?」
「ちゃんと見るって言ってた」
「……そう」
理人は少し離れたところで、その会話を聞いていた。
自分の知らないところで、
また話が進んでいる。
でも、今度は初めて“証拠”がある。
それなのに胸が軽くならないのは、
ここまで来てもなお、何かが変わる保証がどこにもないからだった。
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夜、家族四人がそろった食卓は静かだった。
健斗はスクショを見たあと、何度も画面を見返していた。
葵は怒りを抑えきれないように唇を結んでいる。
美羽は兄の方を気にしながらも、必要以上に明るく振る舞おうとしている。
理人だけが、その中で少し遠いところにいた。
自分のせいで、美羽まで巻き込まれた。
そう思うと苦しい。
でも同時に、
誰かが動いてくれたことに、ほんの少しだけ救われてもいた。
休んだら負ける気がする。
でも、もう無理だ。
誰かに知られたくない。
でも、このままだと自分が消えていきそうだ。
その全部が混ざり合って、
理人にはもう、自分がどこへ向かっているのか分からなかった。
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寝る前、理人は自分の部屋でランドセルを見つめていた。
明日、行くのか。
また休むのか。
休んだ先に何があるのか。
答えはない。
ただ一つだけ分かるのは、
今の自分は、もう前のように“普通に登校する”ところへは戻れないのかもしれない、ということだった。
休めば終わるのか。
たぶん、終わらない。
でも、休まなければもっとだめになる。
その狭い狭い場所で、理人は立ち尽くしていた。
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