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少年法の壁  作者: リンダ


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子どものしたことですから

第16話 子どものしたことですから


 スクリーンショットという形で証拠が出ても、

 それだけで何かがすぐ変わるわけではなかった。


 むしろ、証拠が形になったことで、学校は初めて“対応しなければならない”段階へ引きずり出された。そして対応しなければならなくなったとき、大人たちが最初に見せたのは、解決への誠実さではなく、事態をどう小さく収めるかという顔だった。


 学校から連絡が入ったのは、スクリーンショットが担任に渡った翌日の夕方だった。


「一度、関係するご家庭どうしでお話しする場を設けられればと思いまして」


 電話口の教頭の声は低く丁寧だった。

 だが、その丁寧さの奥に、葵は言葉にしづらい違和感を感じていた。


 “話しする場”。

 それは一見、まっとうに聞こえる。

 けれど本当に今必要なのは、話し合いだろうか。


 理人は、もう玄関で足が止まるほど追い詰められている。

 青あざもある。

 裏アカのやり取りもある。

 それなのに、学校の最初の発想が“まず双方で話す”なのだ。


 加害と被害を同じテーブルへ並べて、

 何となく丸く収めようとしている。


 その空気が、葵にはもう見え始めていた。


 面談の日、会議室の空気は妙に乾いていた。


 長机が向かい合わせに置かれ、ペットボトルの水が人数分並んでいる。窓は閉め切られ、初夏の陽射しだけが白く床に落ちていた。


 学校側からは教頭、担任の高石、学年主任。

 そして被害者側として健斗と葵。

 加害者側として、神谷莉央の母、江口駿の父、水田蓮の母が来ていた。


 他の子どもの保護者は「仕事の都合」や「大げさにしたくない」という理由で来なかったらしい。


 その時点で、健斗の胸の奥ではすでに熱いものが渦を巻いていた。


 神谷の母は、きれいに髪をまとめ、上品そうなバッグを膝の横に置いていた。

 江口の父は腕を組み、最初から少し苛立ったような顔をしている。

 水田の母は落ち着いた口調だが、どこか他人事のような空気をまとっていた。


 理人本人は来ていない。

 葵と健斗が止めた。

 今の理人をこの場へ座らせるのは、あまりにも酷だったからだ。


 最初に口を開いたのは教頭だった。


「本日は、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。まずは、今回の件につきまして、学校としても大変重く受け止めております」


 その“重く受け止めております”という言葉が、健斗には紙のように薄く聞こえた。


 重く受け止めているなら、なぜここまで来るまでほとんど何も変わらなかったのか。

 なぜ理人が泣いて話すまで、机の落書きも、青あざも、裏アカも見過ごされてきたのか。


 だが健斗はまだ黙っていた。


 教頭は続けて、スクリーンショットの存在、理人の体調不良、最近のクラス内の人間関係への懸念について、ひととおり説明した。


 そのあと、加害者側の保護者に向かって「お子さん方からもお話をうかがえればと思います」と言ったときだった。


 神谷の母が、最初に口を開いた。


「もちろん、娘にも確認しました」


 声は穏やかだった。

 だが、その穏やかさが逆に冷たかった。


「ただ、正直に申し上げて、少し驚いております」


 葵が顔を上げる。


 神谷の母は続けた。


「莉央は、クラスでも面倒見がよく、先生方からもいつも評価いただいています。そういう子が、理由もなく一人を執拗に傷つけるとは、どうしても考えにくいんです」


 健斗のこめかみが、ぴくりと動く。


 理由もなく。

 その言葉が、被害を“まだ証明されていないもの”みたいに扱う響きを持っていた。


「ですので……」

 神谷の母は少し言葉を選ぶようにして、

「いじめられる側にも、何か原因があったのではないかと。もちろん、だからといって何をしてもいいとは思いません。でも、そこを見ずに一方的に加害・被害と決めつけるのは、少し違うのではないでしょうか」


 その瞬間、会議室の空気がさらに冷えた。


 葵の手が、膝の上で強く握られる。


 いじめられる側にも原因がある。


 あまりにもよくある言葉だった。

 そして、あまりにも残酷な言葉だった。


 江口の父も、それに続いた。


「うちの駿も、たしかに口が悪いところはありますよ」

 と、苦笑混じりに言う。

「でもあいつ、そんな陰湿なことをずっとやるようなタイプじゃないんですよね。どっちかというと、思ったことが先に口に出るだけで」


 “だけ”という言葉が、健斗の耳に刺さる。


「それに、子ども同士のことに大人がここまで出てきて、逆に騒ぎを大きくしてるだけじゃないですか?」


 その言葉で、葵の顔色がはっきり変わった。


 水田の母も、控えめな口調で言った。


「もちろん、裏アカウントのことはよくないと思います。でも、子どもって、そういうところで軽はずみに書いてしまうこともあると思うんです。大人が見たらひどく見えるかもしれませんけど、本人たちにはそこまで深い意味がなかった可能性も……」


 深い意味がない。


 それはつまり、

 理人がこれだけ苦しんでいることよりも、

 書いた側の“軽い気持ち”の方を先に汲み取ろうとする言葉だった。


 葵は、そこで初めてはっきり口を開いた。


「……深い意味がなかった、ですか」


 会議室の視線が集まる。


 葵の声は静かだった。

 でも、その静けさの奥に怒りがあった。


「うちの子は、玄関で足が止まるんです」

「……」

「学校へ行こうとしても、体が動かないんです。風呂で服を脱いだら、脇腹に青あざがあるんです。夜は眠れなくて、好きだった星も見なくなった。笑わなくなった。食べる量も減った」


 葵は一つ一つ、言葉を置くように続けた。


「それでもまだ、“深い意味はなかったかもしれない”で済ませるんですか」


 神谷の母がわずかに眉を寄せた。


「でも、お母さま、感情的になられても……」


 その言葉で、ついに健斗の中の何かが切れた。


「感情的?」


 低い声だった。

 だが、その一言で場の空気が変わる。


 健斗は机の上に置いた手をゆっくり握りしめた。


「自分の息子がここまで壊されて、感情が動かない親がどこにいるんですか」


 江口の父が少し身じろぎする。

 だが健斗は止まらなかった。


「理由もなくそんなことするはずがない、ですか?」

「……」

「理由があればいいんですか。うちの息子が、おたくの子どもたちに“いなくなればみんな幸せになる”って言われる理由があるって言うんですか」


 水田の母が「そこまでは……」と口を挟みかける。

 だが健斗はそのまま続けた。


「机に“きえろ”と書かれ、裏アカウントで笑いものにされ、服の下に隠れる場所ばかり傷つけられて、それでもなお“いじめられる側にも原因がある”なんて言葉が出てくること自体、私は信じられません」


 その声はもう、明確な怒りだった。


 葵も続いた。


「私たちの息子を、何だと思っているんですか」


 はっきりした声だった。


「性格に問題があるとか、空気が暗いとか、輪に入れないとか、そんなふうに勝手に決めつけて、だから傷つけられても仕方ないみたいな言い方をされる覚えはありません」

「……」

「理人は、誰かを傷つける子じゃありません。好きなものを大事にして、家族のことを誇りに思って、我慢して我慢して、それでも学校へ行こうとしてきたんです」


 葵の目はもう揺れていなかった。


「その子をここまで追い込んでおいて、いじめられる方にも原因があるなんて、よく言えますね」


 会議室の空気は凍りついていた。


 教頭が慌てて口を挟む。


「もちろん、学校としてもそのような認識では――」


 だが健斗はすぐにそちらを向いた。


「では、学校はどういう認識なんですか」


 その問いに、教頭は一瞬言葉を失う。


 健斗は畳みかけた。


「これだけの証拠が出て、これだけ理人の状態が悪化していて、それでもなお“登校のリズム”だの“子ども同士の行き違い”だの、そういう話が先に出てくる。穏便に済ませたいのが先なんじゃないですか」


 高石が小さく「そんなことは……」と口にする。

 だが、その声にも自信はなかった。


 葵は高石を見た。


「先生、見ていたんですよね」


「……」

「うちの子が変わっていくのを、見ていたんですよね」


 高石は返せなかった。


 見ていた。

 でも、見えていなかった。

 その両方が、今ここで一番重い形になって返ってきていた。


 その日の話し合いは、結局、何一つ“解決”しないまま終わった。


 学校側は「事実確認を改めて進める」と言い、

 加害者側の保護者は「子どもにもよく言い聞かせる」と言いながらも、

 最後まで“うちの子がそこまで悪いはずがない”という姿勢を崩さなかった。


 席を立つとき、江口の父がぼそっと言った。


「まあ……あんまり大事にしない方が、お互いのためだとは思いますけどね」


 その一言で、健斗は再び振り返りそうになった。

 だが葵が腕に触れ、かろうじて止めた。


 これ以上ここで感情をぶつけても、理人のためにはならない。

 そう分かっていても、怒りは体の奥で燃え続けていた。


 学校を出たあと、夕方の風が少し強かった。


 健斗と葵は校門の外でしばらく立ち止まり、どちらからともなく息を吐いた。


「……だめだな」

 健斗が言う。


「うん」

 葵も即答した。


 だめだ。

 この人たちは、まだ本当に分かっていない。

 証拠があっても、

 子どもが壊れかけていても、

 それでも“どちらにも言い分がある”みたいな場所へ戻そうとしてくる。


 理人の苦しさが、最初から等分に薄められていく。


「私たちが守らないと」

 葵が言った。


 健斗は強くうなずいた。


「もう、学校の“様子見”じゃだめだ」


 その言葉は、二人の中で一つの決意になり始めていた。


 家に戻ると、理人は自分の部屋にいた。


 ドアをノックして入ると、机に向かったまま動かない背中が見える。


 葵はその背中を見て、会議室で浴びせられた言葉の数々を思い出した。


 いじめられる方にも原因がある。

 大人が騒ぎすぎ。

 子どものしたこと。


 その一つ一つが、理人という一人の子どもをどれだけ軽く見ているかを、あまりにもはっきり示していた。


「理人」


 葵が静かに呼ぶ。


 理人が少しだけ振り向く。

 その顔には、もう怒る力も薄い。


「今日、学校で話してきた」


 理人の目がわずかに揺れる。


「……どうだった」


 健斗が短く答えた。


「正直、腹が立った」


 理人は少し黙ってから、視線を落とした。


 そうだろうな、と思った。

 自分でも、そうなる気がしていた。


 でも同時に、父と母がはっきり怒ったことに、理人の胸の奥では少しだけ何かが動いていた。


 自分のために、ここまで怒ってくれる人がいる。


 その事実だけが、今の理人にはかろうじて細い糸のように残った。


 夜、理人は布団の中で目を閉じながら、会議室で交わされたであろう言葉を想像していた。


 いじめられる方にも原因がある。

 子どものしたことですから。

 騒ぎを大きくしているだけじゃないか。


 もし自分がその場にいたら、きっと何も言えなかっただろう。

 泣くこともできず、ただ縮こまるしかなかったかもしれない。


 でも、父と母は怒ってくれた。

 それがほんの少しだけ、理人の中に残る。


 それでも、学校へ戻ることを考えると、胸は重いままだった。


 証拠があっても、伝わらない。

 壊れても、まだ軽く見られる。


 その現実が、理人をさらに深く疲れさせていた。

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