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少年法の壁  作者: リンダ


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拡散される痛み



第17話 拡散される痛み


 悪意は、教室の中だけに閉じこもっていてくれなかった。


 最初は、そこで交わされる笑い声だった。

 次に、裏アカウントの中で共有される言葉になった。

 そして今、それはもう少し別のものへ変わり始めていた。


 残るもの。


 消えない文字。

 スクリーンショット。

 画面の中に閉じ込められた悪意。


 誰かが削除しても、誰かが保存している。

 誰かが見なかったふりをしても、誰かの端末には残る。

 教室でその瞬間が終わっても、記録だけはどこかに残り続ける。


 それが、理人には何よりも怖かった。



 学校では、スクショが先生たちの間でも共有され始めていた。


 美羽の担任が見つけた画像。

 そこに写っていたのは、理人だけでなく美羽にまで向けられた悪意だった。

 学校側も、さすがに“ただの行き違い”だけでは済ませにくくなっている空気はあった。


 けれど、その一方で、子どもたちの側では別の広がり方をしていた。


「スクショ見た?」

「やばくない?」

「でもさ、あれ先生に行ったらしいよ」

「誰が?」

「伊達の妹」

「うわ、まじかよ」


 そんな話が、六年生だけでなく五年生の間にも少しずつ流れ始める。


 理人の知らないところで、

 理人に向けられた悪意が、

 今度は“話題”として拡散していく。


 その過程で、内容はさらにねじ曲がる。


 理人が先生に泣きついた。

 家族ぐるみで大騒ぎしている。

 美羽が兄のために告げ口した。

 六年一組が問題児クラスみたいになっている。


 どれも少しずつズレていて、でも完全な嘘とも言い切れない形で広がっていく。

 だから厄介だった。



 理人がその気配をはっきり感じたのは、数日ぶりに登校した日の昼休みだった。


 廊下を歩いていると、向こうから来た五年生の男子二人が、すれ違いざまにこそこそと話す声が聞こえた。


「……あれ、伊達さんじゃない?」

「たぶん」

「妹のやつ……」


 そこで言葉が切れる。

 理人が振り向くと、二人は慌てて目を逸らして階段の方へ逃げるように下りていった。


 胸の奥が、すうっと冷たくなる。


 ああ、もう下の学年にも広がってる。


 そう思った。


 教室の中だけなら、まだ“あの場所だけ”だと切り分けることもできた。

 でも今は違う。

 廊下でも、階段でも、別の学年の子の視線の中にも、自分の話がある。


 どこへ行ってもついてくる。


 理人は窓際で立ち止まり、外を見た。

 校庭では別のクラスが体育をしている。

 明るい日差しの中で、ボールが跳ねて、笑い声が上がっている。


 その景色が、まるで違う世界のものみたいに見えた。



 教室の中では、獅童たちの振る舞いはむしろ少し整っていた。


 表立って笑うことは減っている。

 先生の目も以前より少しだけ厳しくなっているからだろう。


 だが、なくなったわけではない。

 形が変わっただけだった。


 水田はスマホの話題になると、わざと理人の方を見ずに言う。


「スクショって残るから怖いよな」

「ほんと、変なこと送れないわ」

 と江口が笑う。


 中島こころが小さく続ける。


「まあ、見る相手をちゃんと選ばないとね」


 神谷莉央は、その流れの中で一度も理人の方を見なかった。

 それが逆に、全部分かった上でやっているのだと伝わってくる。


 理人は教科書の端を見つめながら、指先に力を入れた。


 もうどこにも逃げ場がない。


 教室を出ても終わらない。

 休んでも終わらない。

 家族に話しても終わらない。

 先生に伝わっても終わらない。


 悪意が“その場”から、“残るもの”になってしまったからだ。



 その日の放課後、理人はできるだけまっすぐ家へ帰った。


 寄り道をする気力もなかった。

 駅前の高架を通るときも、上を走る電車の音に耳を傾ける余裕はない。

 空は晴れていたが、見上げることもしなかった。


 家へ入ると、美羽が先に帰っていて、リビングで宿題を広げていた。


「おかえり、お兄ちゃん」


 その声だけが、少しだけいつもの家の音だった。


「……ただいま」


 理人はランドセルを置き、ソファへ座る。


 美羽は兄の顔をちらっと見た。

 最近の兄は、こうして帰ってくるとまず静かになる。

 前みたいに「今日こんなのあった」とも言わないし、リビングで変顔して笑わせることもなくなった。


 でも今日は、少しだけ違った。

 理人は疲れていた。

 けれど、完全に閉じている感じではなく、ただ黙って座っていた。


 美羽は宿題の手を止める。

 何か言いたいことがあった。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「今、晴れてたらさ」


 理人が少しだけ顔を上げる。


「私の誕生星座、見えるかな?」


 その言葉に、理人の表情がほんのわずかに動いた。


 美羽は続ける。


「美羽、獅子座やろ?」

「うん」

「獅子座には、レグルスって明るい星があるよね」

「……うん」

「それから、しっぽのところに、デネボラって星も」


 そこまで言ったところで、理人の目の奥に、ほんの少しだけいつもと違う光が戻った。


「……知ってるの?」


 美羽は得意そうにうなずく。


「前、お兄ちゃんが言ってた」


 理人はしばらく黙っていた。

 それから、小さく息を吐いて、ソファに座り直した。


「今の時期だとね」

 と、久しぶりに自分から話し始める。

「夜の早い時間なら、西の方に沈む前に見えることがある」


 美羽が目を丸くする。


「ほんと?」


「うん。レグルスは、獅子座の中でも一番有名なくらい明るい星で……」

 理人は少し考えてから続けた。

「青白い感じの、一等星」


「一等星って、めっちゃ明るいやつ?」


「そう。地球から見て明るく見える星の中でも、かなり目立つ方」

「どれくらい遠いの?」


 その問いに、理人は少しだけ首をかしげた。


「レグルスは、だいたい七十数光年くらいだったはず」

「こうねん?」


「光が一年かけて進む距離」

 理人の声は、少しずつ落ち着いてきていた。

「だから、今見えてる光は、七十年以上前にその星を出た光ってこと」


 美羽は「へえ……」と息をのむ。


「じゃあ、デネボラは?」


「デネボラは、もうちょっと遠い」

 理人は指で空に形を描くみたいにしながら言った。

「しっぽの方の星で、名前も“しっぽ”って意味に近かった気がする。青白い星で、百光年よりもっと遠かったかな……」


「そんな遠くから、見えるのすごいね」


「……うん」


 理人はそこで少しだけ笑った。


 本当に少しだけだった。

 でも、ここしばらく消えていた種類の笑いだった。


 美羽はその変化に気づいたが、あえて何も言わなかった。

 ただ、もっと聞きたくなった。


「じゃあさ、お兄ちゃん」

「ん?」

「獅子座って、本当にライオンみたいに見える?」


 その問いに、理人は肩の力を抜いたように言う。


「うーん……正直、最初はあんまり見えない」

「えー」

「でもね、レグルスを見つけて、そこからこう辿っていくと」

 理人は空中に線を引くみたいに指を動かす。

「頭から背中、しっぽ、って、だんだん形が見えてくる」


「ふふ」

 美羽が笑う。

「お兄ちゃん、そういう話するときだけ、ちょっと前みたい」


 その言葉に、理人は一瞬黙った。


 でも、その沈黙は苦しいものではなかった。

 ただ、胸の奥に何かがふわっと触れたような感覚だった。


 前みたい。


 その“前”が、どれだけ遠くなっていたかを、理人はこの瞬間に少しだけ知った。



 しばらくして葵が台所から様子を見に来ると、兄妹がソファで並んで座り、美羽が空想の夜空を指さしながら何か話していた。


「……何の話?」


 葵が聞くと、美羽が振り返る。


「獅子座! レグルスとデネボラ!」


 その声の明るさに、葵は少し驚いた。

 そして、その隣にいる理人の顔を見る。


 疲れはまだある。

 目の下の影も消えていない。

 けれど、さっきまでの虚ろさが少しだけ薄れていた。


 理人は葵の視線に気づいて、少し照れたように目を逸らした。


「……美羽が聞いてきたから」


「そうなんだ」


 葵はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、その小さな変化があまりにも久しぶりで、胸の奥が少し熱くなった。



 夜、理人は久しぶりに自分の机の上に置いてあった天体の本へ手を伸ばした。


 ほんの数ページ、開いただけだった。

 前みたいに夢中になるほどではない。

 でも、手を伸ばせたこと自体が、今の理人には大きかった。


 裏アカのことも、

 教室の空気も、

 消えたわけではない。


 明日になれば、また何か言われるかもしれない。

 記録は残っているし、噂も広がっている。


 それでも、さっき美羽と話した獅子座のことを思い出すと、

 胸の奥の一番深いところに、まだ消えていない自分が少しだけいる気がした。


 レグルス。

 デネボラ。


 遠い星の名前を頭の中でなぞる。


 七十年も、百年以上も前にそこを出た光が、今ここへ届いている。

 そんなふうに考えると、

 今の自分の苦しさも、永遠ではないのかもしれないと、

 ほんの一瞬だけ思えた。


 もちろん、すぐにその考えは不安に押し戻される。

 明日のことを考えると、また胸は重い。

 逃げ場がない感覚も消えない。


 でもその夜の理人は、完全な暗闇の中にはいなかった。


 ほんの小さく、

 かすかな星の光みたいなものが、

 久しぶりに心のどこかへ届いた気がした。



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