誰も知らないと言った。
第18話 誰も知らないと言った
学校は、ようやく“動いている形”を見せ始めていた。
教頭、学年主任、高石。
大人たちは会議を開き、対応方針を話し合い、必要な記録を整え、「事実確認のため」という名目で六年一組への聞き取りとアンケートを実施することになった。
表向きには、それは正しい流れだった。
スクリーンショットが出た。
理人本人も涙ながらに話した。
親からの訴えもある。
ならばクラスの子どもたちへ確認しよう。
何があったのかを丁寧に見ていこう。
学校側の書類には、そんな言葉が並んだ。
だが、理人の胸の中には、最初から薄い諦めがあった。
聞いたところで、どうせみんな言わない。
それは、悲観ではなく予感だった。
もうそこまで、この教室の空気を知ってしまっていた。
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聞き取りが行われたのは、昼休みを削った時間だった。
子どもたちは一人ずつ別室へ呼ばれ、学年主任や高石から「最近クラスで気になることはあるか」「理人くんのことについて何か知っていることはあるか」と尋ねられた。
最初に呼ばれた神谷莉央は、扉を閉めたあとも表情を崩さなかった。
「理人くんですか?」
と、少し困ったように首をかしげる。
「最近、元気ないなとは思ってました」
「でも、誰かがいじめてるとか、そういうのは……私は見てないです」
「遠足の写真のことも、たまたま端だっただけだと思います」
「妹さんの件は、SNSで変なことを書いた子がいたならよくないと思いますけど、クラスでみんながどうこうっていう感じではないです」
その言葉は淀みなく出てきた。
あまりにも自然で、あまりにも整っていた。
学年主任はその場では表情を変えなかったが、
メモにはこう残した。
神谷:理人に対する明確ないじめ行為は見ていない。元気がない様子は感じていた。
“見ていない”。
その一言だけが、記録に残る。
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獅童も、江口も、水田も、よく似た答えをした。
「いじめっていうほどではないと思います」
「ちょっとしたふざけ合いならあったかもしれないけど」
「向こうも嫌なら言えばよかったんじゃないですか」
「暴言? いや、知らないです」
「プロレスごっこみたいなのは、みんなでやることあるけど、特定の誰かだけって感じじゃないです」
“ふざけ合い”
“みんなで”
“知らない”
“見ていない”
その言葉が、少しずつ形をそろえていく。
誰かが打ち合わせたように。
いや、実際には細かい打ち合わせなど必要なかったのかもしれない。
もうみんな、どう言えばこの場を抜けられるか、何となく分かっていたのだ。
口裏を合わせるとは、必ずしも同じ言葉を事前に練習することではない。
同じ空気の中で、同じ方向へ黙ることだ。
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相良拓斗も、結局何も言えなかった。
別室の椅子に座り、机の上に置かれたアンケート用紙を見つめる。
そこには、
* 理人くんが嫌がっている様子を見たことがありますか
* クラスで暴言や暴力があったと思いますか
* 気になることがあれば自由に書いてください
と並んでいた。
相良の頭の中には、いくつもの場面が浮かぶ。
机の落書き。
本を落とされた廊下。
遠足で写真に入れなかったときの理人の顔。
「どっか遠くに行って」と神谷が言ったときの空気。
更衣室で江口たちが笑っていたこと。
教室の隅で、獅童たちが理人の脇腹を押さえつけていたような影。
全部、見ていた。
でも、相良の手は動かなかった。
これを書いたらどうなる。
自分が言ったと分かったらどうなる。
次は自分かもしれない。
その怖さが、鉛筆を止める。
結局、相良が記入したのは、
はっきり見ていないので分かりません。
でも、最近理人くんが元気ないとは思いました。
それだけだった。
分かりません。
その一言で、自分が見たものを半分消した。
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アンケートの結果は、予想した通りのものになった。
多数の子どもが、
「知らない」
「見ていない」
「特に気になることはない」
と書いた。
中には、
「理人くんが一人でいることはあるが、本人がそうしたいのだと思う」
という言葉さえあった。
学校側のまとめには、こう記された。
クラス内に一部人間関係の行き違いは見られるものの、継続的かつ明確ないじめ行為については、多くの児童が把握していないと回答。
今後も慎重に見守りを継続する。
慎重に見守る。
その文言を見たとき、健斗は低く息を吐いた。
「見守る、じゃねえだろ……」
葵も、その紙を見つめたまま何も言えなかった。
証拠はある。
理人の涙もある。
青あざもある。
スクショもある。
それなのに、言葉がそろえば、真実はまた薄められていく。
⸻
理人も、その結果を聞かされた。
高石はできるだけ穏やかな口調で言った。
「理人くんのことを心配してる子もいたよ」
「ただ、はっきり見たって言う子は少なくて……」
「だから、先生たちもこれからもっと見ていくからね」
理人はその話を聞きながら、胸の奥が静かに冷えていくのを感じていた。
やっぱり。
そう思った。
証拠があっても、
自分が話しても、
みんなが“知らない”と言えば、それで消える。
だったら、自分が感じていることは何なんだろう。
痛かったことも、
苦しかったことも、
怖かったことも、
全部、“なかったこと”になってしまうのだろうか。
理人はうなずきもせず、ただ黙っていた。
高石はそれを“気持ちの整理がついていない”と受け取ったが、
本当は違った。
理人は、その場で少しずつ信じる力を失っていた。
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その夜、健斗は一人で書斎にいた。
薄暗い部屋の中、机の上には学校から渡された資料と、プリントアウトしたスクリーンショットが並んでいる。パソコンの画面には、学校側のまとめが開かれていた。
多くの児童が把握していない。
見守りを継続。
その文言を見ているうちに、健斗の中の怒りは、だんだん別の形へ変わっていった。
学校の言葉だけでは、もう足りない。
画像だけでも足りない。
証言だけでは、子どもたちが揃って否定した瞬間に弱くなる。
なら、何がいる。
健斗の視線が、机の引き出しに向いた。
中には、小さなICレコーダーが入っていた。
仕事で会議のメモを取るために使う、ごく小型のものだ。
健斗はそれを手に取った。
親としてしていいことなのか、迷いがなかったわけではない。
でも、もうそんなことを言っている段階ではない気がした。
音ならどうだ。
画像だけで不十分だというなら、
言葉そのものが残ればどうだ。
健斗は長く息を吐き、レコーダーを握りしめた。
⸻
翌朝、理人が支度をしている間、健斗はさりげなくランドセルを持ち上げた。
「ちょっと重いな」
とでも言うようにして中を整え、
その奥、連絡袋のさらに下の見えにくい場所へ、ICレコーダーを忍ばせた。
電源は入っている。
録音状態の小さなランプは、ふたを閉じれば見えない。
理人には言わなかった。
言えば、理人はたぶん止めただろう。
あるいは余計に緊張したかもしれない。
健斗はただ、ランドセルをいつものように理人へ渡した。
「忘れ物ないか?」
「……うん」
理人は何も知らずにそれを背負う。
その背中を見送りながら、健斗の胸の奥では重い罪悪感と、もっと重い決意がせめぎ合っていた。
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その日は、何もなかったように始まった。
少なくとも理人にはそう見えた。
だが録音は、ランドセルの中で静かに続いていた。
教室のざわめき。
机の擦れる音。
チャイム。
高石の声。
そして、休み時間や教室移動のときに混じる、理人の名前。
「伊達、邪魔」
「どけって」
「ほんとノロい」
「また来た」
「お前さ、空気悪くなるから黙ってろよ」
笑い声。
遠くで誰かが「やめろって」と言うような声。
でも本気ではない、すぐに笑いへ混ざる種類の声。
さらに午後、体育のあとの短い空白の時間には、鈍い音が入っていた。
ごっ、と何かがぶつかる音。
ぐっ、と息を詰めるような小さな声。
誰かが笑って言う。
「プロレスだって、プロレス」
「大げさなんだよ」
「脇、そこ弱いんだ」
「伊達、声出すなって」
その声のあとに、また鈍い音。
布越しに押さえつけたような、短く重い響き。
録音されたのは映像ではない。
だから、何が起きたかを完全には見せられない。
でも逆に、その音の曖昧さが生々しかった。
そこには、日常の教室ではない何かがたしかに残っていた。
⸻
夜。
理人が風呂に入っているあいだ、健斗は静かにランドセルを開けた。
手が少し震えている。
自分が何をしようとしているのか、分かっていた。
ICレコーダーを取り出し、書斎のパソコンへつなぐ。
データを取り込む進行バーが、静かに伸びていく。
その間、健斗は画面を見つめたまま動かなかった。
葵も黙って隣へ来る。
「……入ってた?」
と葵が小さく聞く。
健斗は「まだわからん」とだけ答えた。
ファイルが開く。
再生ボタンを押す。
最初は、ただの雑音だった。
教室の空気。チャイム。授業の声。
だが、その中に少しずつ混じり始める。
伊達
という名前。
それも一度ではない。
何度も、何度も。
「伊達、それ持てよ」
「伊達、まじうぜえ」
「ほんと消えろって」
「お前がいたらみんな不幸になるんだよ」
葵が息をのむ。
健斗は無言のまま、再生を止めなかった。
さらに、がたん、と椅子が鳴る音。
鈍い衝突音。
押し殺したような理人の息。
「ほら、プロレス」
「遊びだって言ってんじゃん」
「そんな顔すんなよ、被害者みたいに」
その音声を聞いた瞬間、葵の顔色が変わる。
「……これ……」
「入ってるな」
健斗の声は低かった。
「全部じゃない。でも、十分すぎるくらい入ってる」
再び、理人の名前。
また暴言。
また鈍い音。
理人がランドセルを背負っていた時間の中に、
これだけの悪意が詰まっていた。
学校が“見守る”と言っていた教室の中に、
これだけの言葉と音が普通に流れていた。
健斗は再生を止めたあと、しばらく動かなかった。
怒りは、もう熱ではなく、重さに変わっていた。
ここまで来てもなお「知らない」で通すつもりなのか。
ここまで聞かせても、まだ“子どものしたこと”で済ませるのか。
葵は唇を震わせながら、画面を見つめていた。
「……もう、逃がさん」
小さな声だった。
でも、その言葉ははっきりしていた。
⸻
風呂から上がった理人は、その夜、両親の顔を見て少しだけ違和感を覚えた。
二人とも静かだった。
けれど、その静けさはいつもの疲れや心配とは違っていた。
「……どうしたの?」
理人が聞くと、健斗は数秒黙ったあと、言った。
「まだ今は、詳しくは言わん」
「……?」
「でも、もう“知らない”では済まさん」
その声に、理人の胸がわずかにざわつく。
何かが動いた。
そう感じた。
怖さもある。
でも同時に、
今まで何度も“なかったこと”にされてきた自分の痛みが、
初めて別の形で残ったのかもしれないと、
そんな予感もあった。
⸻
その夜、理人は布団の中で目を閉じながら考えていた。
学校は、みんなが“知らない”と言った。
先生たちも、それを記録にした。
それで真実はまた消えるのだと思った。
でも、もし言葉そのものが残っていたら。
笑い声も、暴言も、あの鈍い音も。
もしそれが“消せないもの”として残っていたら。
そこまで考えたところで、理人ははっとした。
まさか。
そんなこと、あるわけ――
でも、父と母の顔を思い出すと、
何かが変わったのだと分かった。
理人は布団の中で小さく息を吸った。
証拠があっても、言葉がそろえば消される。
そう思っていた。
でも、消しきれないものがあるとしたら。
その可能性だけが、
暗い部屋の中でほんのわずかに光っていた。




