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少年法の壁  作者: リンダ


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 息ができない


第19話 息ができない


 証拠が見つかったからといって、

 体が急に安心するわけではなかった。


 理人にとって学校は、もうただの場所ではなくなっていた。


 六年一組の教室。

 廊下。

 階段。

 更衣室。

 体育館の隅。

 机の前。

 給食の輪。

 笑い声のする場所。


 その一つ一つが、もう“行けば何かが起きる場所”として体に刻み込まれ始めていた。


 だから、たとえ親が動いていても、

 録音という確かな証拠があっても、

 理人の心臓はそれを信じてはくれなかった。



 翌朝、理人はまた玄関の前に立っていた。


 ランドセルは背負っている。

 靴も履いている。

 昨日より少し眠れた気もする。

 父と母の顔も、どこか違って見えた。

 何かが動き出しているのは分かる。


 それでも、ドアの向こうを思うと、胸の奥がざわつく。


 教室へ行く。

 廊下を歩く。

 扉を開ける。

 視線が集まる。


 そこまで想像した瞬間、理人の呼吸が急に浅くなった。


「……っ」


 息を吸ったつもりなのに、足りない。

 胸の真ん中がきつく締めつけられる。

 心臓の音が、自分でも分かるくらい速い。


「理人?」


 葵の声が遠く聞こえる。


 理人は返事をしようとした。

 でもうまく吸えない。

 吸っているのに苦しい。

 息が喉のところで止まっているみたいだった。


 視界の端が少し揺れる。


「理人、こっち見て


 葵がすぐ目の前にしゃがみこむ。

 だが理人は、言葉を返す余裕もない。

 肩で細かく呼吸を繰り返しながら、ただ玄関の壁にもたれる。


「健斗!」


 葵が声を上げる。


 出勤前だった健斗がすぐ来て、理人の肩に手を添えた。


「大丈夫だ。座れ」


 その声も、最初は遠かった。


 理人はたたきに近い床へしゃがみ込み、膝を抱えるみたいに体を丸めた。

 吸っても吸っても苦しい。

 胸だけがどんどん速くなる。


 何が起きているのか、自分でも分からない。

 ただ、学校へ行くことを考えた瞬間に、体が壊れたみたいに反応してしまった。


「ゆっくりでいい」

 健斗が低い声で言う。

「吸おうとしなくていい。吐け。少しずつでいいから」


 葵も隣で背中をさする。


「大丈夫、大丈夫やから」


 しばらくして、理人の呼吸は少しずつ戻ってきた。

 でも、手は冷たく、指先は震えていた。


 健斗と葵は顔を見合わせる。


 もう、ここまで来ている。


 それが、あまりにもはっきり分かった。



 その日、理人は学校を休んだ。


 録音のデータは、前日のうちに複製を取ってあった。

 健斗は仕事の合間を縫って、今後どう出すかを考えていた。

 葵も学校へ連絡し、改めて理人の状態を伝えた。


 だが電話口で高石が言ったのは、


「やはり、今かなり不安が強くなっているんですね」

「でも、証拠もありますし、学校としても対応を進めていきますから……」


 という言葉だった。


 たしかに、間違ってはいない。

 今までよりは踏み込んだ言い方だ。

 でも、その“進めていきます”が、理人の苦しさの速度にまるで追いついていないことを、葵は感じていた。


 証拠が出た。

 でも、今日この朝、理人は玄関で息ができなくなったのだ。


 学校の対応が数日後、数週間後に形になったとしても、

 今この瞬間の理人には間に合わないかもしれない。


 その現実が、葵には怖かった。



 理人は午前中、ほとんどソファから動けなかった。


 呼吸は落ち着いた。

 でも、胸のあたりがずっと重い。

 少し気を抜くと、またあの苦しさが戻ってくる気がする。


 テレビはついているが、何も頭に入らない。

 カーテン越しの光がリビングに落ちている。

 それをぼんやり見ながら、理人は思っていた。

 証拠がある。

 父が動いてくれている。

 母も学校へ何度も話している。

 なのに、なんでこんなに苦しいんだろう。


 普通なら、少しは楽になるはずだった。

 “自分だけの思い込みじゃなかった”と証明されたのだから。

 “なかったこと”にされないかもしれないのだから。


 でも、体はそうなってくれない。


 教室のことを思い出すだけで、喉が詰まる。

 笑い声を思い出すだけで、胸がざわつく。

 扉を開ける想像をしただけで、息が浅くなる。


 証拠があるかどうかと、

 怖くなくなるかどうかは、

 まったく別のことだった。


 理人はそのことを、身をもって知り始めていた。



 昼すぎ、健斗が会社から一度帰ってきた。


 短い時間だけでも顔を見に来たのだろう。

 スーツ姿のまま、玄関で靴を脱ぎ、まっすぐリビングへ入ってくる。


「どうだ」


 理人は少しだけ顔を上げた。


「……大丈夫」


 反射的にそう言ってしまってから、自分で少し苦くなる。

 この“大丈夫”は、もう本当の意味を持っていない。


 健斗はそれを分かった上で、すぐには否定しなかった。


 ただ理人の向かいに座って言う。


「今日のは、怖かったな」


 理人は黙る。


「でも、お前の体が勝手にそうなったわけじゃない」

「……」

「そこまで追い込まれたってことだ」


 その言葉を聞いた瞬間、理人の目の奥が少し熱くなった。


 自分が弱いからじゃない。

 甘えてるわけでもない。

 そう言ってもらえたことが、少しだけ胸に落ちた。


「証拠が出ても、すぐ楽になるわけじゃない」

 健斗は続ける。

「そこは、俺も昨日までは頭でしか分かってなかった」


 理人はゆっくりと息をした。


 そうだ。

 自分でも分からなかった。


 “証拠が見つかれば終わる”

 どこかで、そう思っていたのかもしれない。

 でも実際には、終わらない。

 終わらないどころか、体はもう別の形で苦しみ始めている。


「……学校、行かなきゃって思うんだけど」


 理人がぽつりと言う。


「うん」


「休んだら、またなんか言われる気もするし」

「うん」

「でも、行こうとすると……」

 そこで言葉が止まる。

「……苦しい」


 健斗は何も急がせず、その言葉を受け取った。


「今はそれでいい」

「……」

「行けるかどうかより、まず壊れきらないことの方が先だ」


 その言葉も、すぐに理人を楽にはしない。

 でも、少なくとも“今の自分は間違っていない”と少し思わせてくれた。



 学校では、その日も六年一組がいつも通りに動いていた。


 理人の席は空いている。

 でも教室は回る。

 授業も進む。

 給食も配られる。

 誰かが笑い、誰かがノートを取る。


 その“いつも通り”が、逆に残酷だった。


 高石は理人の空席を見ながら、やはり胸の奥に重たいものを感じていた。

 録音の件は、まだ正式には全員へ共有されていない。

 だが教頭からは、「より慎重な対応が必要」と言われている。


 それでも教室の空気そのものは、簡単には変わらない。


 神谷は相変わらず提出物を整え、

 獅童は表向き静かで、

 江口は授業中だけはおとなしい。


 教師の前の“いつも通り”と、

 理人が家で息を詰まらせている現実が、

 同じ時間に並行して存在している。


 そのズレが、もう取り返しのつかないところまで広がっていた。



 夕方、美羽が学校から帰ってくると、理人はまだソファにいた。


「お兄ちゃん」


 美羽はランドセルを置いて近づく。


「今日、苦しかった?」


 理人は少し驚いたように妹を見た。


「……うん。ちょっと」


 美羽はその横に座る。

 何か特別なことを言えるわけじゃない。

 でも、そばにいたかった。


「大丈夫じゃなくてもいいよ」

 と、美羽は言った。


 理人は、その子どもっぽくてまっすぐな言葉に、少しだけ笑いそうになった。

 笑えたわけではない。

 でも、心のどこかが少しだけゆるんだ。


「……ありがと」


 その小さなやり取りを、葵は台所から見ていた。


 理人はまだ苦しい。

 今日も学校へ行けなかった。

 証拠があっても、まだ何も終わっていない。


 でも、それでも家の中には、理人を“消さない”人たちがいる。

 そのことだけが、今はかろうじて支えになっている。



 夜、理人は布団の中で天井を見ていた。


 呼吸は昼よりずっと落ち着いている。

 でも、学校を思い出すと胸はまだざわつく。


 録音された音声のことも考えた。

 自分の名前。

 暴言。

 鈍い音。


 あれは、自分の苦しみが確かにそこにあった証拠だ。

 でも同時に、それを聞かれること自体もまた苦しいのだと思った。


 誰かに信じてもらうために、

 自分がどれだけ壊されていたかを、

 何度も再生しなければいけない。


 そのことの重さに、理人はまだうまく耐えられなかった。


 証拠があるのに楽になれない。


 その現実が、今夜の理人には何よりもつらかった。


 息はできる。

 でも、ちゃんと生きている感じが薄い。


 学校へ行こうとした瞬間に壊れる自分の体を、

 理人はもう、完全には信じられなくなり始めていた。



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