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少年法の壁  作者: リンダ


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お兄ちゃん、笑って

 第20話 お兄ちゃん、笑って


 家の中では、ほんの少しだけ時間の流れが違っていた。


 学校へ行かない朝。

 ランドセルが玄関に置かれたままの午前。

 昼の光が静かに差し込むリビング。

 外の世界から少しだけ切り離されたその空間で、理人はようやく、かろうじて息を整えることができていた。


 もちろん、元に戻ったわけではない。


 夜はまだ眠りが浅い。

 学校のことを考えれば胸がざわつく。

 笑い声にびくっとすることもある。


 それでも家の中では、少しだけ違った。


 誰かに見張られていない。

 何かを言われるかもしれないと身構えなくていい。

 机を開けるたび、何か壊されているかを確認しなくていい。


 その“確認しなくていい”だけで、理人の体は少しずつ力を抜いていった。


 美羽は、その変化をいちばん敏感に感じ取っていた。


 学校では沈んだ顔をしていても、

 家でソファに座っているときの兄は、完全に空っぽではない。

 まだ少しだけ、前のお兄ちゃんが残っている。


 だから美羽は、その残っているところへ、毎日少しずつ手を伸ばしていた。


 その日も、美羽は宿題を持って理人の隣へ来た。


「お兄ちゃん、これ分かる?」


 理人は問題を見た。

 算数の、わり算の応用問題だった。


「……ここ、先にこれ計算する」

「なんで?」

「いきなり割るんじゃなくて、何人分かを先に出す」


 理人の声はまだ小さい。

 でも、説明は前と同じだった。

 順番に、分かるように、ゆっくり教えてくれる。


 美羽はそれを聞きながら、少し嬉しくなる。


「やっぱお兄ちゃん、教えるの上手」


 その言葉に、理人は一瞬だけ困ったような顔をした。

 それから、ごく小さく口元がゆるんだ。


 笑った、というほど大きくはない。

 でも、美羽にはそれで十分だった。


「ねえお兄ちゃん」

「ん?」

「今度また、星の話して」


 理人は少し黙った。

 だが、その沈黙のあとで言った。


「……晴れてたらね」


 その答えに、美羽はぱっと顔を明るくする。


「ほんと!?」

「うん」


 ほんの少しだけだった。

 でも、理人の声には、昨日までにはなかった柔らかさが混じっていた。


 葵はそのやり取りを台所から見ていた。


 兄妹が並んで座っている。

 理人が問題を指で追いながら説明している。

 美羽が身を乗り出して聞いている。


 その光景は、ほんの少し前まで当たり前だった。

 でも今は、その“当たり前”が戻ること自体が奇跡みたいに見える。


 家の中でだけ、少しだけ表情が戻る。

 家の中でだけ、少しだけ声がやわらぐ。

 でも、学校という言葉が出れば、またすぐ固くなる。


 その落差が、葵にははっきり見えていた。


 回復しているわけじゃない。

 ただ、ここではまだ壊れきっていないだけなのだ。


 そんな午後、電話が鳴った。


 葵が受話器を取ると、相手は校長の安西誠也だった。


「お母さま、お忙しいところ失礼します」

 丁寧な声だった。

「理人くんの体調、その後いかがでしょうか」


 葵は一瞬だけ言葉を選んだ。


「落ち着いている時間もありますが、学校を思い出すとかなり不安定になります」


「そうですか……」

 安西は少し間を置き、それから続けた。

「それで、今後の見通しとして、いつごろ登校できそうかというのは――」


 その言葉を聞いた瞬間、葵の胸の奥で何かが冷たく張りつめた。


 やっぱり、そこなのか。


 理人が息を詰まらせたこと。

 過呼吸を起こしたこと。

 玄関で足が止まること。

 それより先に、“いつ登校できるか”なのか。


 そのとき、リビングの向こうで会話を聞いていた健斗が立ち上がった。

 葵は無言で受話器を渡す。


「伊達健斗です」


 低い声だった。


 安西は少し声の調子を変えた。

「お父さま。いえ、その、学校としても今後の支援を考えるうえで、登校再開の時期を――」


 そこで健斗が遮った。


「校長先生」

「はい」

「過呼吸が起きて、本人は息ができないくらい苦しんでるんです」


 会議室ではなく、電話越しだった。

 だからこそ、健斗の声は余計に冷たく響いた。


「それがどういうことか、分かりますか」


 安西はしばらく黙った。


 健斗は続ける。


「今、うちの息子に必要なのは、“いつ戻せるか”を先に聞かれることじゃありません」

「……」

「学校という場所を思い出すだけで体が壊れるところまで来ているんです」

「もちろん、学校としても――」

「もちろん、じゃない」


 健斗の声が少しだけ強くなる。


「今まで“もちろん学校として見ています”“もちろん重く受け止めています”という言葉は何度も聞きました。でも現実には、うちの息子はここまで追い込まれた」


 葵は黙ってその横顔を見ていた。

 理人はソファの端で、小さく体を固くしている。


「登校の時期を聞く前に、まず何が起きていたのかを本当に把握するべきじゃないですか」

 健斗は言った。

「そのうえで、学校に戻すことより先に、どう守るかを考えるべきでしょう」


 電話の向こうで、安西の声が少し沈む。


「……おっしゃる通りです」


 その返事が本心なのか、場を収めるためなのか、健斗にはもう分からなかった。


「次の面談の場で、こちらからお見せするものがあります」


 健斗ははっきり言った。


「学校が“知らない”“見ていない”で済ませてきたものが、音として残っています」

「……音、ですか」

「はい」


 安西が息をのむ気配が、受話器越しにも伝わった。


「そこまでお持ちなら……」

「持っています」

 健斗は答える。

「次はもう、曖昧な話では終わらせません」


 電話を切ったあと、リビングにはしばらく沈黙が落ちた。


 理人は、ソファの上で指先をぎゅっと握っていた。

 “音”。

 父はそう言った。


 理人自身には、その中身が何となく分かっていた。

 ランドセルの中に何かがあったことには気づいていなかった。

 でも今となっては、父と母のあの夜の顔つきを思えば、何が起きたのかは想像がつく。


 自分の名前。

 暴言。

 鈍い音。

 息を詰めた声。


 それが残っている。


 怖かった。

 でも同時に、少しだけ違う気持ちもあった。


 今まで何度も“そんなこと見ていない”で消されてきたものが、

 初めて消えずに残っている。


 その事実が、理人の胸の奥にかすかに引っかかった。


 夕方、健斗と葵はダイニングテーブルにノートパソコンを広げた。


 音声ファイルのバックアップ。

 再生時間ごとの内容のメモ。

 問題となる箇所の時間。

 暴言と、その直後の鈍い音の位置。


 健斗は仕事の資料を整理するみたいに、一つずつ冷静に記録していく。

 だが、その冷静さの下で怒りが消えていないことを葵は分かっていた。


「次の面談で出す」

 健斗が言う。


「うん」

「もう“子どものしたこと”とか、“見ていない”では逃がさない」


 葵も強くうなずいた。


「必要なら、そのまま弁護士にも出そう」

 健斗は続ける。

「学校の中だけで丸め込まれる可能性があるなら、外へ持っていくしかない」

「うん」

「証拠として残す」


 その言葉に、葵の目が少しだけ揺れた。


 弁護士。

 そこまで行くのか、という思いがなかったわけではない。

 でも、もうそう考えなければいけないところまで来ていることも、痛いほど分かっていた。


 理人を守るには、

 学校の“善意”を待っているだけでは足りない。


 それが、ようやく家族の中ではっきり言葉になった。


 夜、美羽はリビングで小さなメモ帳に何かを書いていた。


「なにしてるの?」

 葵が聞くと、美羽は少し照れくさそうに答える。


「お兄ちゃんを笑わせる作戦」


 その言葉に、葵は思わず少しだけ笑った。


「どんな作戦?」

「まだ秘密」


 美羽は真剣な顔でメモを折りたたむ。


 理人を完全に救えるわけではない。

 でも、美羽は子どもなりに知っていた。

 兄が少しでも笑うと、家の空気がほんの少しあたたかくなることを。


 その夜、理人は自分の部屋で天井を見ながら、美羽の「晴れてたらね」という会話を思い出していた。


 家の中では、少しだけ息がしやすい。

 少しだけ、前の自分に触れられる。

 でも外へ出ると、まだ無理だ。


 その落差が、自分でも怖かった。


 こんなに違ってしまうのか。

 家では話せるのに、学校を思うだけで体が縮こまる。

 家では少し笑えるのに、教室を想像すると呼吸が浅くなる。


 でも、その落差を無理に埋めなくていいのかもしれない、とも思った。


 学校へ戻すことだけが答えじゃない。

 まず、自分を壊さないこと。

 生きたまま、少しずつ呼吸できる場所を守ること。


 父と母は、ようやくそちらを向き始めている。


 理人はそのことを、はっきりとは言えないまでも感じていた。


 その夜遅く、健斗は最後に音声ファイルをもう一度だけ確認した。


 再生ボタンを押す。

 教室のざわめき。

 理人の名前。

 暴言。

 鈍い音。


 聞くたびに腹の底が冷たくなる。

 でももう、これは単なる家庭内の怒りではない。

 証拠だ。

 次の面談で出す。

 必要なら、その先へも出す。


 健斗は静かにファイル名を付け直した。


 提出用_録音データ


 その文字列を見つめながら、

 もう戻れないところまで来たのだと知る。


 けれど同時に、

 戻れないからこそ、進まなければならないとも思った。


 理人を学校へ戻すためではなく、

 理人を壊さないために。

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