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少年法の壁  作者: リンダ


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希という名の光



「希という名の光」


 理人と光の間に、男の子が生まれた。


 小さな手。

 小さな泣き声。

 けれど、その存在は、二人にとって世界そのもののように大きかった。


 名前は、希。


 光る希望の「希」。


 理人は病室で、生まれたばかりの息子を抱いたまま、しばらく言葉を失っていた。


「理人、固まってる」


 ベッドの上の光が、少し疲れた顔で笑う。


「……いや」

「うん」

「すごいなって」


 理人の声は震えていた。


 この子は、まだ何も知らない。

 誰かを傷つける言葉も、傷つけられる痛みも、学校の怖さも、世界の不条理も知らない。


 ただ、生まれてきた。


 そのことが、理人には奇跡のように思えた。


「希」


 理人はそっと名前を呼んだ。


「お前が、自分を大切にできる子になりますように」


 光はその言葉を聞いて、静かに目を細めた。


「それと、人のこともね」


「うん。人のことも」


 二人は、何もかも綺麗に許せたわけではない。

 だが、それでも新しい命を前にしたとき、胸の奥に確かに未来が灯った。


 壊された日常の先に、こんな光が生まれる日が来るとは、あの頃の理人には想像もできなかった。



 美羽もまた、ボクシング仲間の男性と結ばれた。


 相手は、同じジムで長く汗を流してきた選手だった。

 勝った日も、負けた日も、調子の悪い日も、淡々と練習を続ける人だった。


 派手な言葉は少ない。

 でも、美羽が試合前に不安で黙り込んだとき、何も聞かずに隣でストレッチをしてくれるような人だった。


「この人なら、大丈夫」


 美羽がそう言ったとき、理人は少しだけ寂しそうに笑った。


「妹が結婚か」


「何その顔」

「いや、早いなと思って」

「お兄ちゃんも結婚して子供までいるじゃん」

「それはそれ、これはこれ」

「めんどくさい兄」


 光が横から笑う。


「美羽ちゃん、昔から兄ちゃんの扱い上手いよね」

「そりゃ年季入ってるから」


 美羽は笑いながらも、どこか穏やかな顔をしていた。


 彼女もまた、傷ついた子どものままでは終わらなかった。

 自分のリングで戦い、自分の大切な人と出会い、自分の家庭を築いていく。


 伊達家は、少しずつ、確かに未来へ進んでいた。



 その一方で、かつて加害側にいた者たちの人生は、別の方向へ傾いていった。


 彼らの過去は、完全には消えなかった。


 理人と光、美羽が活躍するたび、過去の事件は何度も掘り返された。

 当時の報道。

 ネット上の考察。

 匿名掲示板の断片。

 地元での噂。


 伏せ字だった名前は、完全に守られているようで、守られていなかった。


 妻に知られた者がいた。

 夫に知られた者がいた。

 子どもに知られた者がいた。


 そして、そのたびに家庭の中で同じ問いが投げつけられた。


「本当に、あなたがやったの?」


「人をそこまで追い詰めたの?」


「どうして今まで黙っていたの?」


 答えられなかった。


 言い訳は、もう通用しなかった。


 子どもの頃だった。

 空気に流された。

 そこまでのことになるとは思わなかった。


 どれも、聞く側にとっては言い訳でしかなかった。



 神谷莉央の家庭は、静かに崩れた。


 夫は最初、黙っていた。

 だが娘からも過去を責められ、家の中の空気は日に日に冷えていった。


「俺は、君が昔何をしたかじゃなくて」

 夫はある夜、疲れ切った声で言った。

「それを何年も隠していたことが、もう信じられない」


 莉央は何も言えなかった。


 離婚届に判を押すとき、手が震えた。

 だが、それを止める言葉は見つからなかった。


 自分が過去に他人の家族を壊した。

 そして今、自分の家庭も壊れていく。


 その因果を、莉央は否定できなかった。



 江口もまた、家庭を維持できなかった。


 息子は父を見る目を変えた。

 妻は言った。


「あなたが過去にしたことを、私は簡単には受け止められない」


 江口は、初めて本当に恐怖した。


 理人が教室で感じていた恐怖とは比べものにならない。

 それは分かっている。

 それでも、足元が崩れていく感覚は確かにあった。


 仕事では普通に振る舞う。

 家では会話が減る。

 やがて妻は息子を連れて家を出た。


 玄関が閉まる音を聞いたとき、江口はその場に座り込んだ。


 過去は、終わっていなかった。



 中島こころも、家族との関係を失っていった。


 娘は母と距離を置くようになった。

 夫もまた、こころを見る目を変えた。


「君が反省しているのは分かる」

 夫は言った。

「でも、被害者が許していない現実も分かる」

「……」

「その重さを、俺たち家族も背負わされることになる」


 こころは、ただ涙を流した。


 昔、自分が軽く笑ったことで、誰かの人生が壊れた。

 今度はその事実が、自分の家庭に影を落としている。


 ようやく分かった。

 でも、遅かった。



 さらに騒ぎを大きくしたのは、加害者側の親たちだった。


 ある日、地元の集まりで、当時の加害児童の親の一人が、酒の入った席でこう漏らした。


「もう何年も経ってるのにねえ。あの伊達家のみんな、しつこいわよね」


 別の親も、同調した。


「成功してるんだから、もういいじゃない。いつまで昔のこと言ってるのかしら」


 その場にいた誰かが、会話の一部を録音していた。

 そして、それが外に漏れた。


 炎上は、一瞬だった。



 SNSには怒りの声があふれた。


「しつこい? 家族ごと引っ越しに追い込んでおいて?」


「成功したら被害が消えると思ってるのが怖すぎる」


「伊達家は許してないだけ。許す義務なんてない」


「加害者の親がこれなら、そりゃ子どももああなるわ」


「反省してないのは誰なのか、よく分かる」


 過去の事件は再び大きく取り上げられた。


 テレビの情報番組でも扱われた。

 教育評論家が厳しく指摘した。


「被害者が成功したことと、被害が消えることは全く別です。

むしろ、成功した被害者に対して“もういいだろう”と言うこと自体が、二次加害です」


 世間の怒りは、加害者本人だけでなく、その親世代にも向かった。


 自分たちは昔、子どもを守るふりをして、被害者側を責めた。

 そして今もなお、被害者の怒りを“しつこい”と呼んだ。


 その事実が、再び社会へ突きつけられた。



 その騒動について、理人はほとんど語らなかった。


 ただ、記者から質問されたとき、一言だけ答えた。


「何年経っても、あの人たちは変わらないんだなと思いました」


 それだけだった。


 美羽も、同じように短く言った。


「しつこいのではなく、忘れていないだけです。忘れる理由がありません」


 光は、少しだけ怒りをにじませて言った。


「伊達家が前へ進んだことを、許したことと勘違いしないでほしいです」


 その言葉は、また多くの人に共有された。



 夜、理人は希を抱いて、庭へ出た。


 小さな息子は、まだ星の意味も、過去の重さも知らない。

 ただ父の腕の中で、眠そうに目を細めている。


 光が隣へ来る。


「また騒がしくなったね」


「うん」

「大丈夫?」

「大丈夫」


 理人は、希の小さな手を見つめた。


「俺たちは、俺たちの未来を守るだけだよ」


 光は静かにうなずく。


 家の中からは、美羽の笑い声が聞こえる。

 夫と電話で話しているらしい。

 祖父母の仏壇には、今日も花が供えられている。

 健斗と葵は、孫の寝顔を見るたびに目を細める。


 伊達家は、もう壊された側だけではない。

 未来を作る側になっていた。


 けれど、許してはいない。


 その二つは、矛盾しない。


 許さないまま、幸せになる。

 忘れないまま、子どもを抱く。

 怒りを抱えたまま、星を見上げる。


 それが、理人たちが選んだ生き方だった。



 理人は希を抱いたまま、夜空を見上げた。


「希」


 小さく名前を呼ぶ。


「お前には、人を傷つける強さじゃなくて、人を守る強さを覚えてほしい」


 光が隣で微笑む。


 飯山の空には、今日も数えきれない星が瞬いていた。

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