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少年法の壁  作者: リンダ


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飯山で始まる新しい朝

 第48話 飯山で始まる新しい朝


 飯山で迎える最初の朝は、少し緊張していて、でも不思議と苦しくはなかった。


 理人は、まだ新しくないはずの祖父母の家の天井を見上げながら目を覚ました。

 もう“泊まりに来ている”感じではない。

 昨日から、ここが自分たちの暮らす場所になったのだ。


 隣の布団では、美羽がまだ少し寝ぼけた顔で丸くなっている。

 障子越しに入る光は、横須賀の家で見ていた朝の光とはやっぱり少し違っていた。

 もっとやわらかくて、静かで、急かす感じがない。


 台所の方から、祖母の包丁の音が聞こえる。

 味噌汁の匂いもする。

 それに混じって、葵の声がする。


「美羽、起きるよ」

「んん……」


 新しい朝なのに、ちゃんと家族の朝でもある。

 そのことが、理人には少しだけうれしかった。


 朝ごはんの席は、少しにぎやかだった。


 祖父が新聞を読みながら、

「今日は町の方を少し見て回るか」

 と言う。


 健斗はすでに仕事の段取りで電話をしていて、今日から飯山市内の日産販売店との具体的な調整に入る予定だった。葵も、面接予定のある職場へ持っていく書類を確認している。


 理人は、それを見ながら少しだけ実感する。


 本当に、ここで暮らしていくんだ。


 横須賀を離れたのは、昨日。

 でも、その昨日の続きとしてもう今日が始まっている。

 思っていたより、生活はちゃんと前へ進むのだと思った。


 美羽がご飯を食べながら言う。


「今日、光ちゃん来るかな」

「来るだろ」

 と理人が言う。

「たぶん、来る前提で考えてる」

「だよねー」

 と美羽が笑う。


 そのやり取りに、祖母がくすっと笑う。


「もうすっかり家族みたいだね」


 その言葉に、理人は少しだけ照れた。

 でも否定はしなかった。


 午前中、祖父に連れられて、理人と美羽はこれから通うことになる学校の近くまで歩いた。


 道は横須賀よりずっと広く感じる。

 交通量も少ない。

 山が近い。

 空も近い。


 新しい学校の校舎は、横須賀の小学校より少し小さく見えた。

 でも、今の理人にはそのくらいの方がよかった。


 祖父が言う。


「無理して明るくせんでいい」

「……うん」

「でも、こっちはこっちで、一歩ずつ覚えていけばええ」


 理人は黙ってうなずいた。


 “新しい学校”という言葉には、やっぱりまだ緊張がある。

 教室。

 同級生。

 視線。

 そういうものへの怖さが消えたわけじゃない。


 でも、横須賀の学校へ戻ることを考えたときの、あの息が詰まる感じとは違った。


 怖い。

 でも、まだ“これから”として考えられる怖さだった。


 その違いは大きかった。


 昼前になると、やっぱり光が来た。


「おーい、新生活一日目」


 玄関から入ってくるなり、光は理人と美羽の顔を見て笑った。


「どうだ、新居の気分は」

「新居っていうか、おじいちゃん家だけど」

 理人が言う。

「細かいこと気にすんな」

「気にするわ」

「私は気にしない!」

 と美羽が元気よく割り込む。


 光はそんな二人を見て満足そうにうなずいた。


「よし、今日も元気」


 その“今日も”の中に、これからの毎日がにじんでいた。


 前は、“会いに来る”だった。

 でも今は違う。

 ここへ来ること自体が日常になり始めている。


 理人にとって、それは思っていた以上に大きかった。


 光が特別な存在であることは変わらない。

 でも、その特別さが、遠くてきらきらしただけのものではなく、

 “毎日の中にいる人”へ変わっていく感じがあった。


 午後、三人で町の方を少し歩いた。


 美羽が先に走って、

「ここのアイス屋さん気になる!」

 と騒ぐ。

 光が

「今食うと昼飯入らんだろ」

 と止める。

 理人が少し笑いながらそれを見る。


 途中で小さな本屋をのぞき、文房具屋で美羽が新しいノートを選び、理人は何となく星座早見盤の載った雑誌に目を止めた。


「買う?」

 と光が聞く。


 理人は少し迷ってから、うなずいた。


「……うん」


 その“うん”は、すごく小さい一歩だった。


 好きなものに手を伸ばす。

 横須賀で一度、怖くなってしまったそれを、

 飯山では少しずつ取り戻している。


 光はそれを見て、何も大げさには言わなかった。

 ただ自然に、

「じゃ、それも一緒に持つ」

 と言って、理人の持っていた袋を半分引き受けた。


 そういう何でもない優しさが、前よりもっと理人の胸に残るようになっていた。


 一方そのころ、横須賀の学校には内容証明郵便が届いていた。


 差出人は、佐藤絵梨奈の弁護士事務所。

 横須賀市および学校側の安全配慮義務違反、対応の不適切性、報告・隠蔽の疑いを含めた正式な責任追及に向けた通知だった。


 それを見た教頭の顔色は、見る間に変わった。


「……来ました」


 職員室の空気が一瞬で変わる。


 安西校長は封筒の文面に目を通し、眉を寄せた。

 だが、その場ではまだ平静を装った。


「……職員会議を開きます」


 臨時の職員会議は、今までとは明らかに空気が違っていた。


 内容証明郵便の存在は、もう“学校内の問題”では済まないことをはっきり示している。

 職員たちも、それを理解していた。


 校長の安西は前に立ち、いつもの整った口調で説明を始める。


「本件について、外部代理人を通じた正式な通知がありました」

「……」

「学校としては、これまで適切に対応してきたという認識に変わりはありません」

「……」

「ただし、今後は一層慎重に情報管理を――」


 その途中で、ついに一人の教員が手を挙げた。


「校長先生」


 中堅の男性教員だった。

 声は抑えているが、はっきりしていた。


「今“適切に対応してきた”とおっしゃいましたが」

「……」

「理人くんの件について、事実の隠蔽や矮小化を図った責任は、誰が取るんですか」


 職員室がしんとする。


 こんなに真正面から校長へ言う教員は、これまでいなかった。


 安西が表情を変えずに返す。


「隠蔽という言葉は当たりません」

「当たるでしょう」

 今度は別の女性教員が言った。

「“体調不良で在宅療養中”という報告にしたのは誰ですか」

「……」

「他教員へ“関わるな”と通達を出したのは誰ですか」

「……」

「それを隠蔽と言わずに何と言うんですか」


 教頭が口を開きかけるが、その前に別の声が飛ぶ。


「身から出た錆でしょう」


 今度は、理科専科の教員だった。

 あえて遠慮なく言い放つ。


「自分のけつは自分で拭け」


 その言葉が、職員会議の空気を決定的に変えた。


 もう誰も、校長や教頭の味方ではなかった。


 今までは圧があった。

 人事や校内の空気を考えて黙っていた。

 でも内容証明が届いたことで、むしろ今黙れば自分たちまで共犯に見える段階へ入ったのだ。


 校長と教頭は、初めて学校内部で孤立し始めていた。


 六年一組でも、重い空気の中で新しい動きが始まっていた。


 理人はもうここにはいない。

 でも、その不在は消えたことを意味しない。

 むしろ、残された側へ問いが返ってきていた。


 高石は教室で、いつものように前へ立った。

 だが今日は、これまでよりさらに静かな、重い声だった。


「伊達くんのご家族は、もうここには戻らない可能性が高いです」


 その言葉に、教室の空気が固まる。


「飯山で暮らしていく方向で、動き始めています」

「……」

「そして、あなたたちがしたこと、見て見ぬふりをしたこと、煽り立てたこと、その全部について、外でも責任が問われ始めています」


 誰も口を開かない。


 獅童も、神谷も、江口も、水田も、中島も、前のような顔ではいられなかった。

 相良や、何も言えずにいた子たちの顔も強ばっている。


「伊達くんのご家族は、もうここに戻って登校してくれない」

 高石は続ける。

「教室の中でやり直す機会を、あなたたちが壊したからです」


 その言葉は重かった。


「自分のしたことに対して生じた結果には、最後まで責任を取りなさい」


 教室が静まり返る。


 そのとき、後ろの方で誰かが小さく言った。


「……どうすればいいんですか」


 その問いは、逃げ道を探す声ではなかった。

 ほんとうに分からない、という声だった。


 高石はその問いに、すぐ答えを与えなかった。


 それが大事だと分かっていたからだ。


「私が答えを言うつもりはありません」


 はっきり言う。


「自分で考えてください」

「……」

「自分で答えを探してください」

「……」

「そして、自分たちで責任ある行動をしなさい」


 その言葉を受けて、教室の空気はさらに重くなる。


 今までは、笑いの中へ逃げられた。

 “ノリ”の中へ押し込められた。

 でももう、その逃げ道は少しずつ塞がれ始めている。


 自分が何をしたのか。

 何を見て、何を放置したのか。

 それを、もう自分たちで見なければいけない。


 飯山の夕方、理人たちは祖父母の家へ戻っていた。


 理人は買ったばかりの星座の雑誌を広げ、美羽は新しいノートへ何やら絵を描いている。

 光はその横で、明日の練習メニューを勝手に決めていた。


「美羽ちゃんは縄跳び二百」

「えー!」

「理人はステップ」

「うん」

「で、最後に二人ともミット」

「勝手に決めるなよ」

「でもやるんだろ?」

「……やる」

「ほらな」


 そのやり取りの中で、理人は小さく笑った。


 新しい朝が始まり、

 新しい町に向き合い、

 新しい学校を少しずつ考え、

 光との距離も日常の中で深まっていく。


 その一方で、横須賀ではようやく、閉じた教室の責任が外へ向けて問われ始めている。


 第48話は、その二つの流れがはっきり交差し始める回だった。

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