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少年法の壁  作者: リンダ


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戻れない教室 戻りたい空



第37話 戻れない教室、戻りたい空


 飯山へ来てから、理人の呼吸は少しずつ深くなっていた。


 朝起きたときの胸の重さは、横須賀にいたころより薄い。

 祖父母の家の縁側に座って、風の音を聞いているだけで、少しだけ心がほどける時間もある。

 光と話しているときには、ほんの短く笑えることも増えてきた。


 それでも、夜になると別だった。


 眠りの中で、理人は何度も横須賀の教室へ戻される。


 扉を開けた瞬間の冷たい空気。

 机の上の黒い文字。

 笑い声。

 準備室の扉が閉まる音。

 「消えろ」「死神」「お前のいるとこなんてねぇ」という声。


 夢の中では、何度も足が動かなくなる。

 逃げたいのに逃げられない。

 声を出したいのに出ない。

 そして、胸が詰まるような苦しさの中で目が覚める。


 その夜も、理人は布団の中で息を荒くして目を覚ました。


 障子の向こうはまだ暗い。

 虫の声だけが静かに聞こえている。


「……夢か」


 小さくつぶやく。

 でも、胸のざわつきはすぐには消えない。


 飯山にいても、教室はまだ心の中に残っている。


 戻れない。

 でも、完全に切り離せてもいない。


 その矛盾が、理人の中で静かに揺れていた。



 一方そのころ、横須賀の六年一組は、理人がいないことでむしろ歪みを深めていた。


 最初は、理人がいなくなったことで教室は少し静かになったように見えた。

 でも、それは“落ち着いた”のではなかった。


 次の標的になるかもしれないという空気が、むしろ強くなったのだ。


 相良が何か言えば、すぐに獅童が目を向ける。

 六年二組の女子と話した子は、神谷たちにひそかに名前を出される。

 給食の時間、少しでも中心から外れた子へ向けて、「あんたも正義ぶるタイプ?」というような言葉が落ちる。


 理人がいないのに、理人を通して生まれた恐怖だけは教室に残っていた。


 高石はそれを見て、さらに顔を曇らせる。


 理人の不在は、問題が終わったからではない。

 むしろ、教室の歪みが剥き出しになり始めているだけだった。



 そんな日の午後、光が理人に言った。


「なあ、理人」


「ん?」


「ちょっと付き合わん?」


「どこに」


 光は少しだけ得意そうに笑った。


「ボクシング部」


 理人は思わず目を瞬いた。


「……え?」


「見に来るだけでもいいし」

 光は軽く肩をすくめる。

「嫌ならすぐ帰ってもええ」


 理人は少し迷った。


 運動は嫌いじゃない。

 でも今の自分に、そんな場所へ行けるだろうか。

 周りに知らない人がいて、声が飛んで、体がぶつかる場所。


 それは一歩間違えば、横須賀の記憶を呼び起こすかもしれない。


 でも、光は無理に引っぱらなかった。


「見てるだけでもええって」

 そう言って、理人の返事を待つ。


 理人は少し考えてから、小さくうなずいた。


「……見てみる」


 その返事に、光の顔がぱっと明るくなる。


「よし」



 体育館の横にある練習場は、想像していたよりもずっと空気が張っていた。


 縄跳びの音。

 ミットを打つ乾いた音。

 サンドバッグの揺れる重い響き。

 足さばきの擦れる音。


 そこにいる人たちは、誰も笑っていない。

 でも怖いわけでもなかった。

 真剣だった。


 光はすぐに髪をまとめ直し、グローブをはめると、空気が変わった。


 さっきまで理人の前で気安くしゃべっていた光とは別人みたいだった。


 目が鋭い。

 足の運びが軽い。

 構えた瞬間、体の芯がすっと一本になる。


 理人は思わず見入った。


 スパーリングが始まる。


 相手は男子の先輩だった。

 背も少し高く、リーチも長い。

 けれど光は引かなかった。


 踏み込み。

 よける。

 打つ。

 離れる。


 その動きの一つ一つに迷いがない。

 軽やかなのに、芯がある。

 パンチの音が、乾いて鋭い。


 理人はその迫力に圧倒されていた。


 光って、こんな顔するんだ。


 ただ元気で、少し男まさりで、笑うと明るい女の子だと思っていた。

 でも今、目の前にいるのは、自分の力で前へ出る人だった。


 誰かを傷つけるためではなく、

 自分を鍛えて、まっすぐ立つための強さ。


 それが、理人には新鮮だった。



 スパーリングが終わると、光は額の汗を腕で拭いながら理人の方へ来た。


「どお?」


 理人は、少し息を吐いて言う。


「……すごかった」


 光が笑う。


「そりゃどうも」


 そのとき、近くで見ていた男子の先輩が、理人の方を見た。


「お前、ちょっとやってみる?」


 理人は驚く。


「え、俺?」


「見てるだけでも体の使い方、なんとなく分かるやついるんだよ」

 先輩は言う。

「グローブはめて、軽くミット打つだけでもいいし」


 理人は一瞬ためらった。

 でも光が横で言う。


「やってみりゃええに」


 その言葉に背中を押されるように、理人はうなずいた。


「……じゃあ、ちょっとだけ」



 グローブをはめると、思ったより重い。


 でも、その重さが嫌ではなかった。

 ミットを前にした先輩が「力まなくていいから」と言う。

 足の位置。

 肩の入れ方。

 まっすぐ打つ感覚。


 理人は言われるまま、試しに一発打ってみた。


 ぱん、と乾いた音。


 思ったより気持ちいい音が出た。


「お、いいじゃん」

 先輩が少し目を丸くする。

「なかなかいい筋してんじゃん」


 理人は思わず顔を上げた。


「……ほんとに?」


「うん。力任せじゃなくて、ちゃんと前に出る感じある」

 先輩が言う。

「続けたら面白いかもな」


 その言葉が、理人の胸のどこかへ落ちる。


 面白いかも。


 今の自分に向かって、そんな可能性の言葉をかけられるのは久しぶりだった。


 何度かミットを打つうちに、理人の頬に少しだけ汗がにじんだ。

 久しぶりに、体を動かした。

 久しぶりに、“何かをやってみる”ことそのものへ意識が向いた。


 しんどさや怖さではなく、目の前の動きだけを考える時間。

 それが、今の理人には思った以上に新鮮だった。



 練習が終わったあと、光が言った。


「うち寄ってく?」


「いいの?」

「いいに決まっとる」


 光の家は祖父母の家からそう遠くなかった。

 玄関を開けると、すぐに台所からあたたかい匂いがした。


「ただいまー」

 と光が声をかけると、

「はいはい」

 と母親の声が返ってくる。


 理人が少し遠慮がちに立っていると、光の母が顔を出して、すぐに笑った。


「いらっしゃい」

「お腹空いたでしょ。ご飯食べていき」


 その自然さに、理人は少し面食らう。


 断る暇もないくらい、もう一つ分の茶碗が用意されていく。

 台所の向こうでは、光の父も「お、理人くんか」とやわらかく笑った。


 光の家の空気は、祖父母の家とはまた違うけれど、やっぱり理人を試す感じがなかった。


 出来たての昼ご飯を、光と並んで食べる。


「どうだった、初ミット」

 光が聞く。


 理人は少し考えてから、正直に答えた。


「……楽しかった」


 その一言に、光の目がぱっと明るくなる。


「やろ?」


「久しぶりに体動かして……なんか、楽しかった」


 その“楽しかった”は、今の理人にはとても大きな言葉だった。

 苦しい、怖い、疲れた、ばかりだった心の中へ、別の言葉が戻ってきたのだ。



 食べ終わって、少し間が空いた。


 窓の外では夏の光が差している。

 光は箸を置いたまま、少しだけ緊張した顔をしていた。


 理人も、さっきから胸の中にある言葉をどう出すか考えていた。


 光に好きと言われたこと。

 会いたいと言われたこと。

 それが、自分をどれだけ救ったか。


 理人はゆっくり顔を上げた。


「……光」


「ん?」


「俺も」


 少しだけ喉が詰まる。

 でも今は、言えそうだった。


「俺も、光のこと、好きだから」


 その一言で、光の顔が一気に赤くなる。


「……っ」


 いつもならすぐ返してくる光が、ほんの数秒黙った。

 理人はその反応を見て、少しだけ照れくさくなる。


 でも、それ以上に胸の奥があたたかかった。


 好きと言われて、好きだと返す。

 そんな当たり前のことが、今の理人には奇跡みたいだった。


 理人は続ける。


「俺も、強い男になりたい」

「……」

「ボクシング、始めてみようかな」


 光は目をぱちぱちさせていたが、やがて、ぐっと口元を上げた。


「ほんとかや」


 そして、顔を真っ赤にしたまま、それでも笑う。


「そりゃ、いいに決まっとる」

「……」

「一緒にやろうや、理人」


 理人も、少しだけ笑った。


 今ここで出た笑いは、

 横須賀の教室では絶対に生まれなかった種類のものだった。


 傷つけるための笑いではなく、

 少し照れて、少し嬉しくて、

 それでも確かに前を向いている笑いだった。



 飯山の空は、まだ広かった。


 そしてその広さの下で、理人の中には少しずつ、


 戻れない教室の記憶と、

 それでも戻りたい空の感覚と、

 新しく前を向く力が、


 静かに共存し始めていた。




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