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少年法の壁  作者: リンダ


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初めて笑った夜

 第36話 初めて笑った夜


 飯山の夜は、静かに人を包む。


 横須賀の夜みたいに、遠くまで車の音が続いたり、誰かの気配が建物の向こうに残っていたりしない。窓を開ければ、闇の向こうには山の輪郭があり、耳に入るのは虫の声と、ときどき風に揺れる木の葉の音だけだった。


 理人はその夜、祖父母の家の縁側に座っていた。


 昼間よりは涼しい風が抜けていく。

 空には雲が少なく、見上げれば星がいくつかはっきり見えた。

 横須賀では、空は長いあいだ“ただの背景”になっていた。

 でも飯山の空は違う。

 まだ、そこにちゃんと奥行きがある。


 理人は膝を抱えるようにしながら、しばらく黙って夜空を見ていた。


 隣には光がいる。

 少し離れて、祖父母が縁側の端で麦茶を飲んでいる。


 誰も急かさない。

 何かを言わせようともしない。

 その静けさが、今の理人にはありがたかった。


「なあ、理人」


 光が、空を見たまま言った。


「ん」


「この前さ、ジムで中学生の男子とスパーやったんよ」


 理人は横目で光を見る。

 光は相変わらず、引き締まった肩を少し揺らしている。


「そしたらさ、最初のラウンドで向こうがめっちゃ調子乗ってきて」

「……うん」

「私に向かって、“女のパンチなんか効かねえ”って言った」


 祖父がその話に小さく笑う。

 祖母も「また始まった」と苦笑している。


「で?」

 と理人が聞く。


 光は少し得意そうに鼻を鳴らした。


「次の瞬間、ボディ入れた」

「……」

「めっちゃきれいに入った」

「……」

「そしたらその男子、“うぐっ”てなって、終わったあと敬語になった」


 そこで祖父が吹き出した。


「そりゃ、なるわな」


 光は少し胸を張る。


「やっぱ、調子乗っとるやつは一回現実見た方がええ」


 その言い方が、あまりにも光らしくて、理人の口元が少しだけ動いた。


 ほんの一瞬だった。

 でも、それは作った笑いじゃなかった。


 祖母がその変化に真っ先に気づいた。

 でも何も言わない。

 言ったら消えてしまいそうな小さな灯りだと分かっているからだ。


 光は理人の横顔を見て、心の中で息をのんだ。


 今、笑った。


 本当に短かった。

 でも、理人が自分から自然に笑った。


「何」

 理人が少しだけ照れたように言う。


 光はあわてて顔をそらす。


「いや、別に」

「……嘘つけ」

「嘘じゃねえし」

「顔、うるさい」

「なんだそれ」


 そのやり取りのあと、理人がもう一度だけ、今度はさっきよりはっきり小さく笑った。


 それは、横須賀で無理やり空気を合わせるために浮かべる笑いとはまるで違っていた。

 誰かに見張られながら出す笑いでもない。

 ただ、その場の話が少しおかしくて、自然にこぼれた笑いだった。


 祖父母は顔を見合わせる。

 祖母の目には、うっすら涙が浮かびかけていた。


 理人が飯山へ来てから、ずっと疲れ切った顔ばかり見ていた。

 目の奥の光は弱く、表情も薄く、返事も短い。

 けれど今、その子がほんの少しだけ笑った。


 それだけで、どれほど大きいか。


 祖母は麦茶の入ったコップを理人の方へ寄せながら、あくまで何でもないふうに言った。


「今日は風、気持ちええね」


「……うん」


 理人はコップを持ち、ひとくち飲んだ。

 冷たさが喉を通る。


 空には、少し低い位置に明るい星が見える。

 理人は自然にそれを目で追っていた。


 光が気づいて聞く。


「何の星?」


 理人は少しだけ考えてから答える。


「たぶん、あれ……今の時期なら、こと座のベガかも」


「こと座って、七夕の?」

「うん」

「織姫?」

「そう」


 それを話す理人の声は、前より少しだけなめらかだった。


「ベガは二十五光年くらい」

 と理人が続ける。

「だから、今見えてる光は、二十五年前に出たやつ」


 光は空を見上げたまま言う。


「そんな前の光が、今ここへ来とるんか」


「うん」


 その“うん”が、今夜は前より少し深かった。


 理人の中で、消えかけていた感覚が本当に少しずつ戻ってきている。

 星の距離を考えること。

 光の速さを思うこと。

 そういう“好き”の感覚が、また少し動き始めていた。


 光は、その横顔を見ながら胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 好きだと言った。

 その返事はまだもらっていない。

 でも今は、それでいいと思っていた。


 目の前の理人が、少しだけ笑った。

 少しだけ、星の話をした。

 そのことの方が、今はずっと大きい。


 光は心の中でそっと思う。


 このまま、少しずつでいい。

 理人がまた空を見て、好きなものを好きだと思えるようになってくれたら。

 その横に、自分がいられたら。


 そんな願いが、前よりずっとはっきりした形になっていた。


 同じ夜、横須賀では別の準備が進んでいた。


 健斗のスマホに録音された、校長と教頭との会話。

 “加害者とされる子にも未来がある”

 “あなた方に子どもたちの未来を奪う権利があるのですか”


 そのやり取りの音声データは、今、弁護士の佐藤絵梨奈の事務所で整理されていた。


 佐藤はヘッドホンを外し、机の上の書類へ目を落とす。

 横には、健斗がまとめた会議の経緯メモ。

 高石が別に残した学校内部の記録。

 そして、発信者情報開示の結果。


「……ここまで来ると」

 佐藤が低く言う。

「学校幹部が被害者保護より、加害側と組織防衛を優先している流れがかなり見えます」


 健斗と葵は向かいに座っている。

 高石も今日は同席していた。


 佐藤は続ける。


「もちろん、この発言だけで直ちに違法とは言えません」

「はい」

「でも、被害者側へ“加害児童の未来を奪うのか”という罪悪感を背負わせようとする発言としては、十分重い」

「……」

「しかも、この発言の前提に、理人くんがどういう状態かを学校側はすでに把握している」


 その点が大きかった。


 理人は過呼吸を起こしている。

 消えたいに近い言葉をノートへ書いている。

 学校を恐れている。

 その状態を知った上でなお、“向こうにも未来がある”を先に出してくる。


 それはもう、単なる配慮の言葉ではなかった。


 高石は、そこで静かに言った。


「学校の中では、この会話を問題視する人間はほとんどいません」


 佐藤が顔を上げる。


「やはり」


「むしろ“校長として当然の整理だ”という空気すらあります」

「……」

「理人くんの件は、今、トップシークレット扱いです。他の教員には“関わるな”と通達が出ています」


 佐藤は目を細めた。


「それも文書や記録で残っていますか」

「口頭と、内部文書の写しがあります」

「それなら十分です」


 佐藤は資料を整えながら言う。


「外へ渡る準備を進めます」

「……」

「必要なら教育委員会だけでなく、その先も視野に入れます」


 健斗は短くうなずく。

 葵も、その言葉を黙って受け止めていた。


 横須賀では、まだ理人本人はいない。

 でも、その不在の間に、理人の未来を守るための材料が一つずつ外へ積まれていく。


 飯山の夜は、さらに深まっていた。


 祖父母が先に部屋へ入り、縁側には理人と光だけが残った。

 虫の声が濃くなり、風は少しひんやりしてくる。


 光が、足元を見たまま小さく言う。


「今日、笑ったな」


 理人は少しだけ肩をすくめた。


「……ちょっとだけ」


「うん」

 光はうれしそうに言う。

「ちょっとだけでも、よかった」


 その言い方があまりにも素直で、理人はまた少しだけ照れた。


 誰かが、自分の小さな笑いをこんなに大事に受け取る。

 それは、今の理人には不思議なくらいあたたかかった。


「……なんか」

 理人がぽつりと言う。

「ここだと、ちょっとだけ楽」


「うん」

 光はすぐに答える。

「ここ、空が広いからな」


 理人は夜空を見上げた。


 飯山の夜。

 広い空。

 やっと少しだけ出た笑い。

 その小さな回復は、祖父母や光にとって、何より大きな希望だった。


 そして同じころ横須賀では、

 校長・教頭の論理が録音という形で外へ渡る準備が整えられていた。


 壊れていく場所と、少しずつ戻っていく場所。

 その対比の中で、物語はさらに深く進んでいく。

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