表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少年法の壁  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/45

飯山の夜、横須賀の会議


第35話 飯山の夜、横須賀の会議


 同じ夜でも、場所が違えば、空気の重さはこんなにも違うのかと理人は思っていた。


 飯山の夜は、音が少なかった。


 窓の外には濃い闇が広がり、その向こうに山の輪郭が沈んでいる。遠くで車が一台通る音がしても、すぐにまた静けさが戻る。空を見上げれば、横須賀ではもう背景にしか見えなくなっていた星が、ここではちゃんと一つ一つの点として見えた。


 飯山へ来てから数日。

 理人はまだ完全に元気になったわけではない。

 食欲も波があるし、夜中にふと目を覚ますこともある。

 でも、呼吸だけは少しずつ深くなっていた。


 朝起きた瞬間の胸の苦しさは、横須賀より薄い。

 外を歩くときの緊張も、少し違う。

 空を見ても、完全に何も感じないわけではなくなってきた。


 消えかけていた感覚が、ほんの少しずつ戻り始めている。



 その晩も、理人と光は祖父母の家の近くの道を少しだけ歩いていた。


 昼間の暑さがまだ少し残っているが、風は涼しかった。田んぼの向こうに小さな家々の明かりが点いていて、虫の声が絶えず聞こえる。


 光は理人の少し前を歩きながら、急に立ち止まった。


「なぁ、理人」


「ん?」


 光は振り返る。

 昼間の勢いのある顔ではなく、少しだけ真面目な顔をしていた。


「横須賀の学校が辛いんなら、こっちに来ないか?」


 理人は一瞬、言葉の意味をそのまま受け取れなかった。


「……こっちに?」


「うん」

 光はうなずく。

「飯山に」


 風が少し吹く。

 理人は空を一度見てから、また光の方を見た。


「……お父さんとお母さんの仕事もあるし」

 理人は小さく言う。

「なかなか難しいかも」


「それは、そうかもしれんけど」

 光は少しだけ視線を下げて、それからまた上げる。

「理人と美羽ちゃんがおじいちゃんの家から学校に通うのはどうだ?」


 理人は思わず足を止めた。


 祖父母の家から学校に通う。

 飯山で暮らす。

 それは、今までぼんやりとも考えたことのない未来だった。


「……できれば、いいけどな」

 と理人は正直に言った。

「でも、なんで?」


 その問いに、光は一瞬だけ黙った。


 そして次の瞬間、顔がみるみる赤くなっていく。

 耳まで熱を持ったのが、暗がりでも分かるくらいだった。


「なんで、って……」


 光は一度ぎゅっと拳を握った。

 ボクシングで鍛えた腕でも、今は妙に頼りなく見える。


「……私」

 声が少しだけ震える。

「やっぱり理人のことが好きだから」


 理人は息を止めた。


 好き。


 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。


 光は顔を真っ赤にしたまま、それでも逃げなかった。


「私、こんな男まさりなことしてるけど」

「……」

「やっぱ中身は、年頃の女の子なんだなって……自分でも思う」

「……」

「理人がしんどそうにしとるの見ると、こっちまで苦しい」

「……」

「だから、できれば近くにおってほしいって、思った」


 その言葉を聞きながら、理人の胸の奥で何かがじわっと広がった。


 好き、と言われること。

 会いたいと言われること。

 近くにいてほしいと思われること。


 それが、こんなにも嬉しいのかと理人は思った。


 横須賀では、

 いなくなればいいと言われた。

 死神だと言われた。

 顔を見るだけで目が腐ると言われた。


 そんな言葉に削られたあとだからこそ、

 光の「好き」が胸にまっすぐ入ってくる。


 理人はすぐには答えられなかった。

 でも、その沈黙は苦しいものではなかった。


 しばらくして、やっと口を開く。


「……ありがとう」


 それしか言えなかった。

 でも、声はやわらかかった。


 光は少し困ったように笑う。


「うん」


 その“うん”の中に、照れくささと、言えてよかったという安堵が混じっていた。


 理人は夜空を見上げた。


 星は遠い。

 でも今夜は、その遠さが寂しさではなく、静かな広がりとして感じられた。



 そのころ、横須賀の伊達家では別の話が進んでいた。


 飯山へ理人を送り出してから数日。

 家の中の空気は少し静かになった。

 でもそれは安心ではなく、理人のいない空白を抱えた静けさだった。


 葵はリビングで洗濯物をたたみながら言った。


「このまま、ここで暮らしても……」

 健斗が顔を上げる。

「理人が苦しいだけな気がする」


 健斗はすぐには答えなかった。

 その考えは、自分の中にもずっとあったからだ。


「飯山で暮らした方が」

 葵は続ける。

「理人のためにも、美羽のためにもいいんじゃないかって思う」

「……」

「美羽だって、今回巻き込まれたやろ」

「うん」

「この街で、“理人の妹”として見られ続けるのも、あの子にはしんどいはず」


 健斗は深く息を吐いた。


 仕事のこと。

 生活のこと。

 現実的な問題は山ほどある。


 でも、今までの“現実”の中に理人を置き続けた結果がこれだ。

 ならば、生活の形そのものを変えることも、もう視野に入れなければならない。


「……飯山での生活、考えるか」

 と健斗が言った。


 それはまだ決定ではない。

 でも、確かに一歩だった。



 一方そのころ、高石正美のもとには、封書が届いていた。


 差出人は、SNS事業者の法務対応窓口。


 高石は職員室でそれを受け取った瞬間、心臓が少し速くなるのを感じた。開封は職員室ではしなかった。今の学校の空気では、どこで誰に見られるか分からない。


 高石はその封書を鞄へ入れ、放課後、人の少ない空き教室でそっと開いた。


 中には、発信者情報の開示結果が印刷されていた。


 裏アカウントの登録情報。

 発信に使われた端末やアカウントの一覧。

 時間。

 接続元の情報。


 高石は一枚ずつ確認しながら、顔色を変えた。


 特定できた名前が、並んでいる。


 神谷莉央。

 中島こころ。

 江口駿。

 水田蓮。

 そして、直接書き込みは少なくても閲覧・反応に関与していた複数の児童名。


 やはり、という思いと、ここまで明確に出るのかという重さが同時に来た。


 高石はすぐにコピーを取った。

 原本は別に保管し、コピーはその日のうちに弁護士事務所へ持ち込むと決めた。



 だが、そのころ学校の中では別の動きもあった。


 校長と教頭は、事態がさらに外へ広がることを恐れていた。


 音声データ。

 保護者会。

 教育委員会からの問い合わせ。

 そして長期欠席。


 すべてが、学校の管理責任へつながりかねない。


 そのため、校長室から教員たちへ通達が出された。


 伊達理人の事案については、学校幹部が対応する。

 他の教員は一切関わるな。

 情報共有はトップシークレット扱いとする。


 職員室にその話が回ったとき、空気は一瞬止まった。


 何人かの教員は顔を見合わせる。

 理人の件に違和感を覚えていた者もいる。

 でも、“一切関わるな”という文言の重さは大きかった。


 校長と教頭が明確に線を引いたのだ。


 深入りするな。

 触るな。

 余計な記録を残すな。


 その圧は、学校組織そのものの論理だった。



 高石は、その通達を見たとき、逆に腹が決まった。


 やはり、学校は理人を守るより先に、自分たちの閉じた秩序を守ろうとしている。


 トップシークレット。

 一切関わるな。


 子どもがここまで壊れているのに、その言葉が先に出るのだ。


 高石は無言で通達を折りたたみ、机の引き出しへ入れた。

 そして鞄の中の封書を確かめる。


 発信者情報の一覧は、もう学校の中だけでは止まらない。

 高石はその日の夜、コピーを持って弁護士事務所へ向かった。



 佐藤絵梨奈は、その一覧を見た瞬間、表情を引き締めた。


「ここまで出ましたか」


 高石はうなずく。


「学校にはまだ正式には出していません」

「出さない方がいいです」

 佐藤は即答した。

「今の段階で学校側へ全面的に渡すと、内部で握りつぶされる危険があります」


 高石はその言葉に、静かにうなずく。


「校長と教頭が、他の教員へ“関わるな”と通達を出しました」

「……やはり」

 佐藤は低く言った。

「もう学校組織そのものを信用しない前提で進めた方がいいですね」


 その言葉は重かった。

 でも、もう高石にも否定できなかった。



 飯山の夜。


 理人は祖父母の家の縁側に座り、手の中の麦茶のコップを見つめていた。

 光の告白はまだ胸の奥に残っている。


 好き。


 その言葉を思い出すたび、少し照れくさい。

 でも、それ以上に、あたたかい。


 自分は、いてほしいと思われる存在でもあるのだ。

 その事実が、今の理人には思った以上に大きかった。


 完全に元気になったわけではない。

 夜になると、横須賀の教室の夢を見ることもある。

 でも飯山の空は広く、祖父母も光も急かさない。


 失われかけていた感覚が、少しずつ戻る。

 星を見て、風を感じて、誰かの言葉をあたたかいと思える。


 その回復はまだ小さい。

 でも確かだった。



 同じ夜、横須賀では別の会議が進んでいた。


 証言。

 証拠。

 隠蔽。

 通達。

 教育委員会への報告の書き換え。


 子どもの苦しみをめぐって、大人たちの論理がぶつかり合っている。


 飯山の夜と、横須賀の会議。

 二つの場所の温度差が、そのまま物語の緊張を高めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ