飯山の夜、横須賀の会議
第35話 飯山の夜、横須賀の会議
同じ夜でも、場所が違えば、空気の重さはこんなにも違うのかと理人は思っていた。
飯山の夜は、音が少なかった。
窓の外には濃い闇が広がり、その向こうに山の輪郭が沈んでいる。遠くで車が一台通る音がしても、すぐにまた静けさが戻る。空を見上げれば、横須賀ではもう背景にしか見えなくなっていた星が、ここではちゃんと一つ一つの点として見えた。
飯山へ来てから数日。
理人はまだ完全に元気になったわけではない。
食欲も波があるし、夜中にふと目を覚ますこともある。
でも、呼吸だけは少しずつ深くなっていた。
朝起きた瞬間の胸の苦しさは、横須賀より薄い。
外を歩くときの緊張も、少し違う。
空を見ても、完全に何も感じないわけではなくなってきた。
消えかけていた感覚が、ほんの少しずつ戻り始めている。
⸻
その晩も、理人と光は祖父母の家の近くの道を少しだけ歩いていた。
昼間の暑さがまだ少し残っているが、風は涼しかった。田んぼの向こうに小さな家々の明かりが点いていて、虫の声が絶えず聞こえる。
光は理人の少し前を歩きながら、急に立ち止まった。
「なぁ、理人」
「ん?」
光は振り返る。
昼間の勢いのある顔ではなく、少しだけ真面目な顔をしていた。
「横須賀の学校が辛いんなら、こっちに来ないか?」
理人は一瞬、言葉の意味をそのまま受け取れなかった。
「……こっちに?」
「うん」
光はうなずく。
「飯山に」
風が少し吹く。
理人は空を一度見てから、また光の方を見た。
「……お父さんとお母さんの仕事もあるし」
理人は小さく言う。
「なかなか難しいかも」
「それは、そうかもしれんけど」
光は少しだけ視線を下げて、それからまた上げる。
「理人と美羽ちゃんがおじいちゃんの家から学校に通うのはどうだ?」
理人は思わず足を止めた。
祖父母の家から学校に通う。
飯山で暮らす。
それは、今までぼんやりとも考えたことのない未来だった。
「……できれば、いいけどな」
と理人は正直に言った。
「でも、なんで?」
その問いに、光は一瞬だけ黙った。
そして次の瞬間、顔がみるみる赤くなっていく。
耳まで熱を持ったのが、暗がりでも分かるくらいだった。
「なんで、って……」
光は一度ぎゅっと拳を握った。
ボクシングで鍛えた腕でも、今は妙に頼りなく見える。
「……私」
声が少しだけ震える。
「やっぱり理人のことが好きだから」
理人は息を止めた。
好き。
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
光は顔を真っ赤にしたまま、それでも逃げなかった。
「私、こんな男まさりなことしてるけど」
「……」
「やっぱ中身は、年頃の女の子なんだなって……自分でも思う」
「……」
「理人がしんどそうにしとるの見ると、こっちまで苦しい」
「……」
「だから、できれば近くにおってほしいって、思った」
その言葉を聞きながら、理人の胸の奥で何かがじわっと広がった。
好き、と言われること。
会いたいと言われること。
近くにいてほしいと思われること。
それが、こんなにも嬉しいのかと理人は思った。
横須賀では、
いなくなればいいと言われた。
死神だと言われた。
顔を見るだけで目が腐ると言われた。
そんな言葉に削られたあとだからこそ、
光の「好き」が胸にまっすぐ入ってくる。
理人はすぐには答えられなかった。
でも、その沈黙は苦しいものではなかった。
しばらくして、やっと口を開く。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
でも、声はやわらかかった。
光は少し困ったように笑う。
「うん」
その“うん”の中に、照れくささと、言えてよかったという安堵が混じっていた。
理人は夜空を見上げた。
星は遠い。
でも今夜は、その遠さが寂しさではなく、静かな広がりとして感じられた。
⸻
そのころ、横須賀の伊達家では別の話が進んでいた。
飯山へ理人を送り出してから数日。
家の中の空気は少し静かになった。
でもそれは安心ではなく、理人のいない空白を抱えた静けさだった。
葵はリビングで洗濯物をたたみながら言った。
「このまま、ここで暮らしても……」
健斗が顔を上げる。
「理人が苦しいだけな気がする」
健斗はすぐには答えなかった。
その考えは、自分の中にもずっとあったからだ。
「飯山で暮らした方が」
葵は続ける。
「理人のためにも、美羽のためにもいいんじゃないかって思う」
「……」
「美羽だって、今回巻き込まれたやろ」
「うん」
「この街で、“理人の妹”として見られ続けるのも、あの子にはしんどいはず」
健斗は深く息を吐いた。
仕事のこと。
生活のこと。
現実的な問題は山ほどある。
でも、今までの“現実”の中に理人を置き続けた結果がこれだ。
ならば、生活の形そのものを変えることも、もう視野に入れなければならない。
「……飯山での生活、考えるか」
と健斗が言った。
それはまだ決定ではない。
でも、確かに一歩だった。
⸻
一方そのころ、高石正美のもとには、封書が届いていた。
差出人は、SNS事業者の法務対応窓口。
高石は職員室でそれを受け取った瞬間、心臓が少し速くなるのを感じた。開封は職員室ではしなかった。今の学校の空気では、どこで誰に見られるか分からない。
高石はその封書を鞄へ入れ、放課後、人の少ない空き教室でそっと開いた。
中には、発信者情報の開示結果が印刷されていた。
裏アカウントの登録情報。
発信に使われた端末やアカウントの一覧。
時間。
接続元の情報。
高石は一枚ずつ確認しながら、顔色を変えた。
特定できた名前が、並んでいる。
神谷莉央。
中島こころ。
江口駿。
水田蓮。
そして、直接書き込みは少なくても閲覧・反応に関与していた複数の児童名。
やはり、という思いと、ここまで明確に出るのかという重さが同時に来た。
高石はすぐにコピーを取った。
原本は別に保管し、コピーはその日のうちに弁護士事務所へ持ち込むと決めた。
⸻
だが、そのころ学校の中では別の動きもあった。
校長と教頭は、事態がさらに外へ広がることを恐れていた。
音声データ。
保護者会。
教育委員会からの問い合わせ。
そして長期欠席。
すべてが、学校の管理責任へつながりかねない。
そのため、校長室から教員たちへ通達が出された。
伊達理人の事案については、学校幹部が対応する。
他の教員は一切関わるな。
情報共有はトップシークレット扱いとする。
職員室にその話が回ったとき、空気は一瞬止まった。
何人かの教員は顔を見合わせる。
理人の件に違和感を覚えていた者もいる。
でも、“一切関わるな”という文言の重さは大きかった。
校長と教頭が明確に線を引いたのだ。
深入りするな。
触るな。
余計な記録を残すな。
その圧は、学校組織そのものの論理だった。
⸻
高石は、その通達を見たとき、逆に腹が決まった。
やはり、学校は理人を守るより先に、自分たちの閉じた秩序を守ろうとしている。
トップシークレット。
一切関わるな。
子どもがここまで壊れているのに、その言葉が先に出るのだ。
高石は無言で通達を折りたたみ、机の引き出しへ入れた。
そして鞄の中の封書を確かめる。
発信者情報の一覧は、もう学校の中だけでは止まらない。
高石はその日の夜、コピーを持って弁護士事務所へ向かった。
⸻
佐藤絵梨奈は、その一覧を見た瞬間、表情を引き締めた。
「ここまで出ましたか」
高石はうなずく。
「学校にはまだ正式には出していません」
「出さない方がいいです」
佐藤は即答した。
「今の段階で学校側へ全面的に渡すと、内部で握りつぶされる危険があります」
高石はその言葉に、静かにうなずく。
「校長と教頭が、他の教員へ“関わるな”と通達を出しました」
「……やはり」
佐藤は低く言った。
「もう学校組織そのものを信用しない前提で進めた方がいいですね」
その言葉は重かった。
でも、もう高石にも否定できなかった。
⸻
飯山の夜。
理人は祖父母の家の縁側に座り、手の中の麦茶のコップを見つめていた。
光の告白はまだ胸の奥に残っている。
好き。
その言葉を思い出すたび、少し照れくさい。
でも、それ以上に、あたたかい。
自分は、いてほしいと思われる存在でもあるのだ。
その事実が、今の理人には思った以上に大きかった。
完全に元気になったわけではない。
夜になると、横須賀の教室の夢を見ることもある。
でも飯山の空は広く、祖父母も光も急かさない。
失われかけていた感覚が、少しずつ戻る。
星を見て、風を感じて、誰かの言葉をあたたかいと思える。
その回復はまだ小さい。
でも確かだった。
⸻
同じ夜、横須賀では別の会議が進んでいた。
証言。
証拠。
隠蔽。
通達。
教育委員会への報告の書き換え。
子どもの苦しみをめぐって、大人たちの論理がぶつかり合っている。
飯山の夜と、横須賀の会議。
二つの場所の温度差が、そのまま物語の緊張を高めていた。




