故郷の空は、まだ広かった
第34話 故郷の空は、まだ広かった
飯山の朝は、横須賀の朝とは音が違った。
車の流れが途切れない道路の音ではなく、遠くで鳴く鳥の声と、風に揺れる木の葉の音が先に耳へ入る。窓を少し開けると、湿り気のある夏の空気の中に、土と草の匂いが混じっていた。
理人は、祖父母の家の二階の部屋で目を覚ました。
最初の数秒、自分がどこにいるのか分からなかった。
でも天井の木目と、薄い色のカーテンと、障子越しの明るさを見て、ああ、飯山だ、とゆっくり思い出す。
胸の奥に、まだ重たいものはある。
学校のことを完全に忘れたわけでもない。
夜の途中でふっと目が覚めることもある。
それでも、横須賀で目を覚ますときみたいな、
最初の一息から息苦しい感じは、少しだけ薄かった。
理人は布団の中で、ゆっくりと息を吸った。
吸える。
ちゃんと、吸える。
そのことだけで、少しだけほっとする自分がいた。
朝ごはんの席では、祖母が味噌汁をよそい、祖父が新聞をたたみながら「よく寝れたか」と聞いた。
理人は小さくうなずく。
「……少しは」
「それで十分だ」
祖父はそう言う。
それ以上、学校のことを無理に聞こうとしない。
何かしゃべらせようともしない。
ただ、ここにいていいのだという空気だけが食卓の上にある。
祖母も「無理して食べんでいいからね」と言いながら、ご飯の横へ梅干しを一つ置いてくれた。
理人は湯気の立つ味噌汁を見つめながら思う。
ここでは、何かを食べることが試されない。
会話に入れるかどうかで値踏みされない。
呼吸の浅さも、沈黙も、責められない。
それだけのことが、今の理人には大きかった。
昼前になると、光がやって来た。
「理人、起きとるかー」
勝手知ったる感じで玄関から声がして、祖母が笑いながら「おるよ」と返す。
その気安さが、理人には少しだけ救いだった。
光は今日も動きやすそうなTシャツ姿で、腕や脚に無駄のない筋肉がついていた。ボクシングをしているだけあって、立ち方に妙なぶれがない。けれど理人の前では、その強さを見せつけるというより、ただ自然にそこにいる。
「外、ちょっとだけ歩くか?」
光が聞く。
理人は迷った。
でも、窓から見える空の色が今日は少しきれいだった。
「……うん。少しだけ」
その返事に、光は大げさに喜ばなかった。
ただ「よし」とだけ言う。
そのさりげなさが、ありがたかった。
祖父母の家の近くの道は、横須賀の通学路とはまるで違った。
山の輪郭が見える。
空が広い。
遠くの田んぼが風で揺れている。
用水路の水音が、低く静かに流れている。
理人は最初、肩を少しすくめたまま歩いていた。
でも、しばらくすると少しだけ首が上がる。
「……広いな」
ぽつりと出たその言葉に、光が横で笑う。
「当たり前やろ。飯山やもん」
「……」
「横須賀より、空はだいぶでかい」
理人は少しだけ目を細めた。
本当に広い。
その広さが、自分を試さない。
何かを言ってこない。
ただそこにある。
それだけで、胸の奥にこびりついていたものが、ほんの少しだけゆるむ気がした。
歩きながら、光は必要以上に話しかけなかった。
でも沈黙が長くなりすぎると、ぽつぽつと別の話をする。
「昨日のスパーリングさ、相手の左が意外と速くてさ」
「……へえ」
「でも二ラウンド目で慣れた」
「またやってんだ」
「そりゃやるよ。好きやし」
好き。
その言葉を聞いたとき、理人の中で何かが小さく動いた。
好きなものを、好きと言う。
そんな当たり前のことが、横須賀ではいつの間にか怖くなっていた。
でも今、光は何の躊躇もなく言う。
ボクシングが好きだと。
今日もまた行くつもりだと。
理人はその横顔を見ながら、少しだけ思う。
好きって、言っていいんだったな。
午後、祖父母の家の縁側で、理人は久しぶりにぼんやり空を見ていた。
夏が近い雲がゆっくり流れている。
風が通る。
遠くで子どもたちの声がする。
横須賀で空を見上げても、もう何も感じない日が続いていた。
空はただの背景になっていた。
でも飯山の空は、少しだけ違った。
まだ、きれいだと思える。
ほんの少しだけでも。
それは大きな回復ではない。
でも、消えかけていた感覚が、ほんの少し戻り始めている証拠だった。
祖母が麦茶を持ってきて、「今日は顔が少し違うね」と言った。
理人は照れたように目を伏せる。
「……そうかな」
「そうだよ」
祖母は笑う。
「まだしんどいのは分かるけどね」
その“分かるけど”の一言で済ませてくれる感じが、理人にはありがたかった。
そのころ、横須賀では別の空気が動いていた。
七月に入り、六年一組の中には、少しずつ証言する子が出始めていた。
相良拓斗のあと、六年二組の女子へも話していた別クラスの男子、さらに給食のときにおかしいと思っていた女子児童も、少しずつ口を開き始める。
「もう、誰かを傷つけるのは見たくないです」
その言葉は、とても小さかった。
でも、その小ささのまま、確かに意味を持っていた。
見ていたのに止めなかった子たちの中に、
ようやく「もう嫌だ」が生まれ始めていた。
だが当然、加害側はそれを許さなかった。
「はぁ?」
江口が机に肘をついて言う。
「正義のヒーロー気取りか?」
「てかさ」
中島こころが笑う。
「あんな重苦しい雰囲気の中、毎日学校来て、何が楽しいの?」
その言葉に、証言しようとした女子が顔をこわばらせる。
神谷が静かに続ける。
「楽しいとか楽しくないとか、そういうことじゃないんだけど」
一瞬だけ、まともなことを言うのかと思わせておいて、
その次の言葉が本性だった。
「なんなら、あんたも理人みたいにしてやろうか?」
その一言で、周囲の空気が凍る。
笑いは混じっていない。
むしろ、それまでの軽い空気を外したぶんだけ、脅しとしてまっすぐ届く。
証言しようとした女子は何も返せなかった。
ただ、肩が小さくすくむ。
それが、この教室の現実だった。
誰かが一歩出る。
するとすぐに、“次はお前だ”という圧が返ってくる。
その恐怖が、また沈黙を強くする。
それでも以前と少し違うのは、
その脅しを“脅しだ”と分かる子が、前より増えてきていることだった。
一方で、学校幹部は別の方向へ動いていた。
校長室では、安西誠也と教頭が低い声で話している。
「伊達理人の件だが」
安西が言う。
「長期欠席について、教育委員会から問い合わせが来た」
教頭が少し身を固くする。
「はい」
「だが、現段階で余計な文言は入れなくていい」
安西は淡々と言う。
「“体調不良により在宅療養中”で出しておこう」
教頭は一瞬だけ黙った。
その沈黙には、引っかかりもあったのかもしれない。
だが最終的にはうなずく。
「……わかりました」
安西は続ける。
「教育委員会に“いじめ”“暴力”“重大事案”のニュアンスを持たせると厄介になる」
「……」
「まずは学校内で対応中という形を崩さないことだ」
その言葉の中にあるのは、理人の回復ではない。
学校の体面だった。
事実より先に、どう書類を整えるか。
どう外へ見せるか。
“体調不良”。
たしかに、理人の体調は悪い。
でもそれは、この学校の中で起きたことの結果だ。
その因果を切り離して書類へ載せることは、
半分、嘘だった。
だが校長と教頭の中では、それで話がまとまっていく。
高石は、その動きを偶然耳にしてしまった。
職員室の奥、校長室の扉が半開きだったときに聞こえた断片。
「体調不良により在宅療養中」
「余計なことは書かない」
その言葉だけで十分だった。
高石の中に、冷たい怒りが走る。
理人はたしかに体調を崩している。
でも、その言葉だけでは真実の半分も届かない。
学校が追い詰めた結果を、学校が“個人の体調不良”へ丸め込もうとしている。
高石はその場で何も言わなかった。
言えば、校長と教頭はまた言い訳を整えるだろう。
だから黙って、ただ胸の内で決めた。
やはり、学校の外へつなぐ道を急がなければならない。
飯山では、そんな横須賀の空気とは別の時間が流れていた。
夕方、光が「夜、晴れそうだぞ」と言って、理人を庭先へ呼んだ。
祖父が古い折りたたみ椅子を出してくる。
祖母は「冷えるほどじゃないけど、上着だけ持っとき」と声をかける。
理人は空を見上げた。
横須賀で見上げたときみたいな重さが、今夜は少しだけ薄い。
「レグルスは、今の時期だともう低いかな」
理人がぽつりと言う。
光が横で笑う。
「また先生みたいな口調になっとる」
理人は少しだけ口元を動かした。
それは本当に小さい変化だった。
でも、光も祖父母も、それを見逃さなかった。
消えかけていた感覚が、少しずつ戻ってきている。
空を見て、星の位置を考える余裕が、ほんの少しだけ戻っている。
理人はまだやつれている。
目の奥の疲れも消えていない。
でも、飯山の空は、まだ広かった。
その広さが、理人の中に残っていた何かを、ゆっくり起こし始めていた。
夜、床に入る前に、理人は窓の外をもう一度見た。
遠い星。
山の輪郭。
静かな町。
横須賀では閉ざされていた感覚が、ここではまだ少し動く。
一方で、横須賀ではまだ圧力が続いている。
証言した子は脅され、学校幹部は事実を薄めようとしている。
世界は二つに割れていた。
でも今、理人に必要なのは、
まずこの広い空の下で呼吸を取り戻すことだった。
それが、この第34話のいちばん大事なことだった。




