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少年法の壁  作者: リンダ


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見ていたこの震える声



第33話 見ていた子の震える声


 沈黙は、いつも無関心から生まれるわけではない。


 本当は見ていた。

 本当はおかしいと思っていた。

 本当は止めたかった。


 でも、声を出した瞬間に自分が次の標的になるかもしれない。

 笑われる側へ落ちるかもしれない。

 教室の空気から弾き出されるかもしれない。


 その恐怖が、口を閉ざさせる。


 六年一組を支えていたのは、そういう沈黙だった。


 だからこそ、

 その沈黙の中から誰か一人が震えながらでも声を出すことには、

 大きな意味があった。



 その日、高石は個別の聞き取りをもう一度行っていた。


 前回のアンケートは、ほとんどが

 知らない

 見ていない

 で埋まった。


 けれど、高石はもうあれを“本当の答え”だとは思っていなかった。


 クラス全体に支配の空気がある。

 誰かが何かを言えば、すぐに位置が変わる。

 だから紙の上ではみんな黙る。


 ならば、もう一度、一人ずつ向き合うしかない。


 その日、放課後に空き教室へ呼ばれたのは、相良拓斗だった。


 椅子に座った相良は、最初から落ち着かなかった。

 指先が机の端を何度も触っている。

 視線も定まらない。


「相良くん」

 高石はできるだけ静かに言った。

「先生は、今日は“みんな同じ答えをしたかどうか”を聞きたいんじゃない」

「……」

「本当に見たことだけを知りたい」


 相良は黙る。


 高石は続けた。


「伊達くんが今どういう状態か、知ってるよね」

「……」

「学校を思い出すだけで息が苦しくなる」

「……」

「もう、ここまで来てる」


 相良の喉が小さく動く。

 それでも、まだ言葉は出ない。


「怖いのは分かる」

 高石ははっきり言った。

「でも先生も、もう見て見ぬふりはしない」

「……」

「君がもし話したことで何かされそうになったら、それも先生が止める」


 相良はそこでようやく顔を上げた。


「……ほんとに?」


 その一言は、小さかった。

 でも、それが本音だった。


 今までずっと、誰も守ってくれないと思っていた。

 何か言えば終わると思っていた。

 だから黙るしかなかった。


 高石はうなずく。


「ほんとに」


 長い沈黙が落ちる。


 教室のざわめきも、廊下の足音も、ここには届かない。

 それでも相良の中には、六年一組の空気がそのまま残っていた。


 獅童の目。

 神谷の笑い方。

 江口の軽い暴力。

 中島こころの言葉。

 それを見て見ぬふりをした自分。


 もし言えば、自分も終わる。

 でも、もう理人はもっと先まで追い詰められている。


 相良は指先を強く握った。


「……見ました」


 やっと出た声は、震えていた。


 高石は何も挟まない。


「準備室の前のことも……見ました」

「……」

「あと、遠足のときも」

「……」

「写真、わざと入れなかったの……わかってた」

「……」

「飯盒のときも、理人だけずっと働かされてて」

「……」

「神谷が、“食欲ないらしい”って嘘ついたのも聞きました」


 高石は静かに息をのんだ。


 相良はもう止まれなかった。


「机に書いてあったのも……たぶん、誰がやったか、わかります」

「……」

「でも止められなかった」

 声が揺れる。

「俺、ずっと見てたのに」

「……」

「ごめん……」


 最後の一言で、相良の目に涙が滲んだ。


 それは理人への謝罪でもあり、

 同時に、自分が恐怖に負け続けたことへの嗚咽でもあった。


 高石はその場で責めなかった。

 ただ、はっきりと言った。


「話してくれてありがとう」


 その言葉で、相良はさらに涙をこぼした。


 今まで黙っていた子が初めて証言した。

 その一歩は小さくても、

 六年一組の恐怖政治にとっては、確かに亀裂だった。



 だがそのころ、伊達家では別の意味で時間が動いていた。


 理人の状態は、少しも安定しているとは言えなかった。

 言葉はまだ少ない。

 学校へ行く話になると顔色が変わる。

 夜もふと目を覚ますことがある。

 笑える瞬間が全くないわけではない。

 でも、それは家の中に限られていた。


 健斗と葵は、ついに決断の話をしていた。


「……先に、飯山へ行かせよう」

 健斗が言った。


 葵も、もう同じ考えにたどり着いていたのだろう。

 静かにうなずく。


「うん」


 理人を学校へ戻すことを先に考えている場合ではない。

 命の危険がある。

 このままこの街に置いておくこと自体が、もう危うい。


 飯山なら、祖父母がいる。

 光もいる。

 あの子が少しでも呼吸しやすい景色がある。


「飯山は、“故郷”の舞台の街やし」

 葵が小さく言う。

「理人も、少しは安心できるかもしれん」

「今はまず、守る方が先だ」

 健斗が答える。


 学校へ戻すより先に、

 理人を生かすこと。

 その方向へ、家族の決意ははっきり傾いた。



 その夜、理人へその話をしたとき、理人はしばらく何も言えなかった。


「飯山に……?」


「うん」

 葵がやさしく言う。

「夏休みを待たずに、先に行ってもええ」

「……」

「じいちゃんもばあちゃんも、光ちゃんも待っとる」


 理人の喉が小さく動く。


 行きたい。

 そう思う。

 でも同時に、自分だけ逃げるみたいな感覚もある。

 学校のことを置いて、自分だけ別の場所へ行くことに、かすかな罪悪感もある。


 健斗は、そんな理人の顔を見て言った。


「逃げるんじゃない」

「……」

「生きるために、いったん離れるんだ」


 その言葉で、理人の目が揺れた。


 生きるために。


 その言い方が、今の理人には必要だった。


「……行きたい」


 やっと出たその言葉に、葵は静かにうなずいた。


「よし」


 それだけで、家の空気が少しだけ変わった。



 数日後。


 理人は小さな荷物を持って、横須賀駅へ向かっていた。


 朝の駅はまだ通勤通学の人で混んでいる。

 ホームの放送が響き、電車が入ってくる金属音が空気を揺らす。


 理人は帽子を少し深くかぶり、健斗と葵、美羽に囲まれるようにして歩いていた。誰かに見られることが怖くないわけではない。けれど今日は、学校へ行くのとは違う緊張だった。


 東京方面へ直通する電車に乗る。

 車窓に流れる景色が少しずつ変わる。

 東京駅で新幹線ホームへ向かい、人の波を抜ける。

 飯山へ行く列車――はくたか――の車体が見えたとき、理人は胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。


 旅立ちの緊張。

 でもそれは、学校の怖さとは別のざわつきだった。


 座席に身を沈める。

 窓の外にはホームの人の流れ。

 発車ベル。

 ドアが閉まる音。


 理人は深く座り直した。


 発車の時を待つ、その数十秒の静けさの中で、自分が今、本当にこの街を離れるのだと実感し始める。


 横須賀の海。

 学校。

 教室。

 あの空気。


 全部がまだ消えたわけではない。

 でも、いったん離れる。


 それだけで、胸の奥に張りついていたものが少しだけ緩む気がした。



 はくたかは北へ向かう。


 窓の外の景色が、都市の色から少しずつ変わっていく。

 建物の密度が薄れ、空が広くなっていく。

 理人は途中から、少しだけ目を閉じていた。


 完全に安心しているわけじゃない。

 でも、少なくとも今は、あの教室へ向かわなくていい。

 そのことが、今の理人には大きかった。


 美羽は途中で窓に顔を寄せ、

「もう長野?」

 と何度も聞く。

 葵は小さく笑い、

「まだよ」

 と返す。

 健斗は黙って車窓を見ている。


 そのやり取りの中に、久しぶりに“普通の家族旅行”に近い空気が一瞬だけ戻ることがあった。



 飯山駅へ着いたとき、空気は横須賀より少し軽かった。


 改札を出る。

 山の見える広い景色。

 駅前の空の高さ。

 湿り気はあるのに、どこか抜けるような風。


 理人はその空気を吸った瞬間、胸の奥で何かが少しほどけるのを感じた。


 そして、改札の向こうに祖父母と光がいた。


「理人!」


 最初に声を上げたのは光だった。


 走ってくる。

 中学一年生らしく少し背が伸び、前に会ったときより体つきが引き締まっている。ボクシングをしているだけあって、肩から腕にかけて無駄な力みのない筋肉がついていた。女子らしい華奢さだけではなく、ちゃんと鍛えた体の芯がある。


 でもその顔は、理人を見るなりぱっと変わった。


 祖父母も同じだった。


 飯山の駅で出迎える前は、

 「少し疲れているくらいかもしれない」

 そう思っていたのかもしれない。


 でも実際に目の前に現れた理人は、想像以上だった。


 頬が少し痩せている。

 目の奥に生気が薄い。

 顔色も、元気な小学生のそれではない。

 立っているだけで、どれだけしんどいところを抜けてきたかが分かってしまう。


 祖母が小さく息をのむ。


「……理人」


 祖父も、すぐには言葉が出なかった。


 光は理人の前で立ち止まったまま、しばらく何も言えない。

 会いたかった。

 楽しみにしていた。

 でもいざ会ったら、それ以上に、

 この子が本当に酷い目に遭ってきたのだということが、

 顔と目だけで分かってしまった。


 光はやっと、少しだけ震える声で言った。


「……よう来たな」


 理人は小さくうなずく。


「……うん」


 その一言だけで、光の目に少し熱いものが浮かんだ。

 でも、今は泣かない方がいいと思ったのだろう。

 代わりに、少し強めの声で言う。


「こっからは、少し休め」


 その言葉は、理人の胸へまっすぐ落ちた。



 飯山の空は広かった。


 祖父母と光に囲まれながら駅を出る理人の背中は、まだ疲れ切っている。

 でも、その足元には、横須賀を出るときにはなかった別の空気が少しだけ流れ始めていた。


 恐怖政治の教室の中で、震える声が初めて証言したその日。

 同じ日に理人は、命を守るために故郷の景色の中へ入っていく。


 それはまだ回復ではない。

 逃避でもない。

 生き延びるための移動だった。


 そしてその駅で、理人を迎えた祖父母と光の目には、

 この子をもうこれ以上壊してはいけない

 という思いが、はっきりと宿っていた。

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