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少年法の壁  作者: リンダ


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言葉が消えた日

 第32話 言葉が消えた日


 言い返す力がなくなる、という壊れ方がある。


 怖いから黙るのとは少し違う。

 我慢して飲み込むのとも違う。

 もう、言葉を出すところまでたどり着けないのだ。


 理人は、その入り口に立ち始めていた。


 六月の終わり、教室へ入った理人は、以前よりさらに静かだった。


 前ならまだ、小さくでも返事をした。

「やめろ」と言うこともあった。

 ときには低く言い返すことさえあった。


 でも最近の理人は、反応そのものが薄くなってきていた。


 机に鞄を置く。

 座る。

 教科書を出す。

 授業を受ける。


 動作はしている。

 でも、その全部がどこか遠い。


 名前を呼ばれても、一拍遅れて顔を上げる。

 何か言われても、目だけ動いて、口は開かない。

 笑い声が起きても、肩が少し固くなるだけで、それ以上の反応が出ない。


 その変化に最初に気づいたのは、理人をいじめている側だった。


「……なんかさ」

 中島こころが、昼休みに小さく言った。

「最近、あいつ反応なくない?」


 江口が鼻で笑う。


「壊れてきたんじゃね」

「つまんねー」

 水田が机に頬杖をつきながら言う。

「前はちょっと言い返すからまだ面白かったのに」


 神谷は窓際から理人を見ていた。

 その目つきには、前よりあからさまな苛立ちが混じっていた。


 反応がない相手は、一見、いじめる側の興味を失わせそうに見える。

 でも実際には逆だった。


 反応しない。

 怒らない。

 泣かない。

 声を出さない。


 それは、彼らにとって

 もっと押してもいい相手

 に見えてしまう。


 四時間目のあと、理人がノートをしまっていると、後ろから江口が消しゴムを取り上げた。


「おい」


 理人はそちらを見る。

 でも、それだけだった。


「返してほしいなら、ちゃんと言えよ」

 江口が笑う。


 理人は何も言わない。


「ほら、言えない」

 中島こころが言う。

「マジで人形みたい」


 神谷が近づき、理人の机の角へ指先を置いた。


「理人くん」

 声はやわらかい。

「生きてる?」


 その言葉に、周囲で小さな笑いが起きる。


 理人は顔を上げる。

 でも何も返さない。


 返したい気持ちがゼロになったわけではない。

 胸の奥では、まだ嫌だとも、苦しいとも、怒りともつかないものが渦巻いている。


 ただ、それを口へ運ぶ力が、もうない。


 言い返したところで変わらない。

 変わらないどころか、また笑われる。

 そういう経験が何度も重なるうちに、言葉は理人の中で出口を失っていた。


「ねえ、何か言えば?」

 神谷が少し苛立ったように言う。


 理人は消しゴムを持つ江口の手を見たあと、小さく言った。


「……別に」


 それだけだった。


 その“別に”は、前みたいな強がりですらなかった。

 ただ、もうこれ以上何も出てこないという響きだった。


 その声を聞いて、神谷の顔がわずかに変わる。


 勝っているはずなのに、妙に不快だった。

 相手が壊れていくと、優越感と同時に、どこか見たくないものを見ている感じも混じってくる。


 だから余計に、もう一段押したくなる。


 理人の変化は、高石にもはっきり見えていた。


 授業中に当てられても、返事が小さい。

 ノートは取っているのに、視線が合わない。

 移動のときも、誰かを避けるより、ただ流れに押されて動いているように見える。


 そして何より、高石が「大丈夫か」と聞いたときの返事が変わっていた。


 前は「別に」でも、そこにまだ棘があった。

 今は、棘すらない。

 ただ薄い紙みたいな声で、「……平気です」と言う。


 それが一番危なかった。


 怒りも拒絶も見えないとき、人は一見落ち着いたように見える。

 でも本当は、もう抵抗する力そのものが尽きかけていることがある。


 その日の放課後、家に帰った理人は、リビングのソファへ座ったまましばらく動かなかった。


 美羽が「お兄ちゃん」と呼んでも、返事が遅い。

 葵が「ご飯まで少し横になる?」と聞いても、「……うん」と言うだけ。


 健斗が会社から戻り、その顔を見るなり表情を曇らせた。


「……今日、またしんどかったか」


 理人は少しだけ父の方を見た。

 でも、うまく答えられない。


「……別に」


 また、その言葉。


 でも健斗には分かった。

 これは誤魔化しではない。

 もう、それ以外の言葉を出す力が細っているのだ。


 葵も同じことを感じていた。


 理人は今、泣く力さえ少し薄くなっている。

 怒る力も、訴える力も、削られている。


 これは“落ち着いた”のではない。

 もっと深いところまで沈んでいる。


 家族の危機感は、さらに強くなっていた。


 その一方で、加害側の家には、それぞれ別の歪みがあった。


 神谷莉央の家では、父親がほとんど家に帰らない日が増えていた。

 母親はそれを責め、父親は仕事を言い訳にする。

 だが実際には、外に別の女がいるという噂を、莉央はうすうす感じ取っていた。


 夕食の席では会話がなく、母はスマホを見ながらため息をつく。

 父が帰れば、今度は小さな声で言い争いが始まる。


「あなた、また遅かったわね」

「仕事だって言ってるだろ」

「ほんとに?」

「疑うなら好きにしろよ」


 扉越しに聞こえるその声を、莉央は何度も聞いていた。


 家の中には、誰も安心して笑える空気がない。


 学校で理人を見下すときだけ、自分の立つ位置がはっきりする。

 その瞬間だけ、自分は壊れていない側に立てる。

 それが、莉央の中で少しずつ癖になっていた。


 江口駿の家では、母親がギャンブルへ沈み込みつつあった。


 パチンコ店の明るい光と騒音の中にいる時間だけ、現実を忘れられる。

 家へ帰れば、生活費が足りないとか、また督促が来たとか、そんな話ばかりだ。


 駿は、母親が財布の中を何度も確認する姿を見て育ってきた。

 景気の悪化で父の収入も下がり、家の空気はいつも張りつめている。


「無駄遣いするな」

「塾代だって大変なんだから」

「結果出せよ」


 そう言われ続ける日々の中で、

 駿は“弱い方へ回る側”にはなりたくなかった。


 自分が押さえつけられる側になるくらいなら、

 もっと弱そうな誰かを叩く方がましだ。


 その歪んだ力の流れが、学校で理人へ向かっていた。


 水田蓮の家では、父親が「成績がすべてだ」と信じていた。


 夕食の席で最初に聞かれるのは、今日何があったかではない。

 テストの点。

 順位。

 内申に影響する行動。


「次の模試で落ちたら意味ないからな」

「中学はスタートが大事だぞ」

「余計なことしてる暇あったら勉強しろ」


 そのプレッシャーの中で、蓮はいつも薄く笑う癖を覚えた。

 本音を出せば負ける。

 痛いとか苦しいとか言えば、もっと見下される。


 だから、他人が苦しんでいるのを見ると、どこか冷たくなる。

 自分だけじゃない、と思いたいのかもしれない。

 そして、笑いながら人を削ることで、自分はまだ上にいると確認したかった。


 中島こころの家では、母親がほとんど家にいなかった。


 仕事だと言うこともあれば、友人と出かけることもある。

 父親は疲れ切っていて、家にいても会話が少ない。


 冷蔵庫にはコンビニの総菜が並び、

「これ食べといて」

 というメモだけが置かれている夜も多かった。


 こころは、家でちゃんと見てもらえない分、学校で“見られる側”に立ちたかった。

 笑いの中心にいれば、少なくとも無視はされない。

 神谷の近くにいれば、自分は安全だ。

 そうやって、誰かを笑いものにする側へ立ち続けていた。


 獅童の家には、もっと露骨な怒鳴り声があった。


 父親は機嫌が悪いと物を投げる。

 母親はそれを止めきれず、黙って片づける。

 獅童自身も、「男なら」「弱音吐くな」「なめられるな」と言われて育った。


 力がある方が勝つ。

 押し切った方が上。

 言い返せないやつは負け。


 そんなルールが、家の中で当たり前になっていた。


 だから学校でも、それをそのまま持ち込む。

 押したら黙る相手。

 蹴ったら耐える相手。

 笑えば周りもついてくる相手。


 理人は、獅童にとって、そういう“勝ちやすい相手”に見えてしまっていた。


 けれど、どんな家庭の歪みがあろうと、

 それは理人を傷つけていい理由にはならない。


 むしろ、この連鎖の恐ろしさはそこにあった。


 壊れている家で育った痛みが、

 さらに弱い誰かを壊す側へ回る。


 そして壊された側は、何の関係もないのに傷だけを引き受ける。


 その夜、弁護士の佐藤絵梨奈との二度目の打ち合わせで、高石、健斗、葵はそのことも話題にした。


 加害側保護者との面談の様子。

 家庭のにおいとして見えてくる不和。

 子どもたちの歪んだ力の使い方。


 佐藤は静かに聞いたあと、はっきり言った。


「背景事情として家庭環境が影響している可能性はあります」

「……」

「でも、それは加害行為の免罪符にはなりません」


 その言葉に、葵は深くうなずいた。


「そうなんです」

「理人には何の関係もない」

 健斗も言う。

「それぞれの家がどう壊れていようが、うちの息子を叩いていい理由にはならない」


 佐藤は資料へ目を落としながら答える。


「そこは法的にも同じです。家庭内の問題があっても、被害者がそれを引き受ける理由にはならない」


 その明確さが、伊達家にとっては救いだった。


 理人は、その夜もソファに座っていた。


 家族が弁護士と話している内容の全部は知らない。

 でも、自分の周りで何かが確実に進んでいることだけは分かる。


 それでも、明日学校へ行けば、また言葉は出なくなるかもしれない。

 また薄い返事しかできないかもしれない。

 また笑われるかもしれない。


 その現実は変わらない。


 理人は少しだけ美羽の方を見た。

 美羽は隣で、黙って折り紙を折っている。

 前の自分なら、一緒に何か変なものを作って笑っていたかもしれない。


 でも今は、その“前”の自分が遠い。


 言葉が消えていく。

 そのことを理人自身が一番怖がっていた。


 怒れなくなる。

 悲しいと言えなくなる。

 助けてとも言えなくなる。


 そうやって、人は静かに壊れていくのかもしれない。


 その夜遅く、葵は寝室で健斗に小さく言った。


「……理人、今日ほとんど表情変わらんかった」


 健斗も同じことを考えていたのだろう。

 短くうなずく。


「前より危ないな」


 怒る元気も、泣く元気も、言い返す元気も薄くなってきている。

 それは落ち着いたのではない。

 もっと深いところまで沈んでいるということだ。


 伊達家の危機感は、さらに強まっていた。


 学校の外では弁護士が動き始め、

 高石も個人で踏みとどまり、

 証拠も積み上がっていく。


 それでも、理人本人の心はまだ回復にはほど遠い。


 むしろ今は、

 言葉が消えていく

 という別の壊れ方のただ中にいた。


 それが、この第32話の一番重い現実だった。

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