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少年法の壁  作者: リンダ


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話し合いという罠

 第30話 話し合いという罠


 学校は、問題が表面化するとき、まず“落ち着いた形”へ持っていこうとする。


 記録を取り、

 聞き取りをし、

 会議を開き、

 そして最後には、こう言うことが多い。


「まずは当事者どうしで話し合いを」


 その言葉は、一見まっとうに聞こえる。

 だが、それがいつでも正しいわけではない。


 傷つけられた側にとって、

 まだ傷が開いたままの状態で、

 自分を追い詰めた相手と向き合わされることが、

 どれほど残酷か。


 その想像をせずに使われる“対話”は、

 ただの罠になる。


 理人が準備室で閉じ込められかけた件も含め、学校側はさすがに“何もしない”姿勢だけではいられなくなっていた。


 音声データがある。

 スクリーンショットもある。

 美羽への接触もある。

 高石も今度こそ明確に目撃に近い状況を見ている。


 それでも校長の安西と教頭が最初に出してきた案は、やはり同じ方向だった。


 関係児童どうしの話し合いの場を設ける。


 理人、獅童、神谷、江口、水田、中島。

 必要なら保護者も同席し、

「互いの認識を確認し、今後の学級生活のために前向きな対話を行う」。


 その文面を見たとき、健斗は紙を机へ置いたまましばらく動かなかった。


 葵が低く言う。


「……正気?」


 その一言に、健斗はゆっくりとうなずいた。


「話し合い、だと」

「理人に、あの子らの前で何を話せって言うん」

「和解ごっこだな」


 健斗の声には、乾いた怒りがあった。


 提案内容の確認のために開かれた面談でも、その認識は変わらなかった。


 校長の安西は、いつもの落ち着いた声で言った。


「もちろん理人くんの心理的負担には十分配慮します。その上で、今後の学校生活を考えたとき、やはり同じ空間で過ごす以上、一度きちんと対話の機会を設けることが必要ではないかと」


 健斗はすぐには返さなかった。

 だがその沈黙の重さだけで、葵には分かった。

 今、健斗は怒鳴らないために必死で押さえている。


 葵が先に口を開いた。


「対話?」


 その言葉は、冷たかった。


「理人は、学校へ行こうとするだけで息ができなくなるんです」

「……」

「準備室の前で追い込まれて、実際に呼吸が乱れてるんです」

「……」

「その子を、また同じ子たちの前へ座らせて、“話し合いましょう”って言うんですか」


 安西は少しだけ姿勢を正した。


「誤解が重なっている部分もあるかもしれません」

「誤解?」

 今度は健斗が言った。

「音声まで出てるのに、まだ誤解ですか」


 教頭が間に入ろうとする。


「いえ、もちろん音声の内容は重大です。ただ、子どもたちの中には自分の行為の意味を十分に理解しないまま――」

「だから話し合えば理解する、と?」

 健斗の声が一段低くなる。

「理人を何だと思ってるんですか」


 会議室が静まる。


「傷つけられた側に、加害した側の学びのための場まで背負わせるつもりですか」

「……」

「それは対話じゃない」

 健斗は言い切った。

「二次加害です」


 その言葉が、会議室の真ん中へ重く落ちた。


 それでも学校側は、提案を完全には引っ込めなかった。


 安西は慎重な顔で言う。


「もちろん、理人くん本人が拒否する場合は無理強いはしません。ただ、学校としては可能性として――」


「可能性でも出さないでください」


 葵はもう、一歩も引かなかった。


「理人は今、毎日やっと息をしてる状態なんです」

「……」

「それを“同じ空間で過ごす以上必要”って、きれいに言い換えないでください」

「……」

「必要なのは和解じゃない。まず、理人が安全でいられることです」


 その言葉に、高石だけが小さく目を伏せた。


 高石も、この“話し合い”という案には強い違和感を持っていた。

 理人の今の状態を見て、それを進めるべきだとは到底思えない。

 だが校長と教頭の意向が強く、学校の正式な会議ではそれを正面から否定しきれなかった。


 だからこそ、高石の中では別の決意が固まりつつあった。


 学校の外へつながる道を、自分の側でも持っておかなければならない。


 結局、その日の面談も平行線のままだった。


 学校側は

「対話の可能性を検討する」

 と曖昧な言葉で残し、


 伊達家は

「理人をその場へ座らせることには反対する」

 と明確に伝えた。


 何も解決しない。

 それでも時間だけが過ぎていく。


 そのやり取りそのものが、伊達家を消耗させていた。


 理人本人は家で休んでいる。

 だが外では、

 理人を守るために戦う父と母が、

 学校の言葉の罠に何度も向き合わされている。


 それは別の形の消耗だった。


 高石正美は、その帰りに職員室へ戻らず、校舎の端の空き教室へ向かった。


 同じ学年の教員ではなく、

 比較的信頼できる他学年の教員二人に、個別に声をかけていたのだ。


 理科専科の男性教師と、養護教諭。

 どちらもこれまで理人の様子を気にかけていたが、学校全体の空気に正面から踏み込めずにいた。


 高石は扉を閉めて、低い声で言った。


「お願いがあります」


 二人は顔を見合わせる。


「理人くんの件です」

 高石は続ける。

「学校が、このまま“内部で収める”方向へ流れる可能性があります」

「……」

「だから、せめて記録と証拠だけは、学校の外にも残る形で整理しておきたいんです」


 養護教諭が息をのむ。


「高石先生、それ……」

「わかってます」

 高石は即答した。

「正式な学校方針ではありません。だからこそ、個人で動くしかないんです」


 理科専科の教師が小さく言う。


「でも、校長はかなり神経質になってる」

「知っています」

「もし逆らう形になれば……」


 高石は一瞬だけ黙った。

 でも、そのあと静かに答える。


「それでも、もう見なかったことにはできません」


 その言葉には、覚悟があった。


 そのころ、校長室では別の会話が交わされていた。


 安西誠也は、窓を背にして低い声で言った。


「これ以上、余計なことを広げたくない」


 向かいにいる教頭が、小さくうなずく。


「はい」


「教育委員会に正式な重大事案として上がれば、こちらとしても厄介です」

 安西は言葉を選びながらも、本音を隠さなかった。

「今後の人事にも響きます」

「……」

「委員長ポストの話も、遠のく」


 教頭は黙って聞いている。


「だから、他の教員には極力深入りさせないように」

 安西は続ける。

「関係する情報は必要最小限でいい」

「はい」

「特に、個人的に動こうとする者が出ないように」


 教頭はそこで一瞬だけ目を伏せた。


 高石の顔が頭をよぎったのかもしれない。

 だが何も言わなかった。


「学校全体の問題にするな」

 安西ははっきり言う。

「一担任のクラス内トラブルとして収められるなら、それが一番いい」


 その言葉で、何が守られようとしているのかは明白だった。


 子どもではない。

 学校の体面だ。

 自分たちの立場だ。


 その圧は、じわじわと他の教員にも伝わり始めていた。


 職員室で理人の件を口にすると、誰かがすぐ話題を変える。

「今は高石先生に任せるしかないですね」と言いながら、深く踏み込まない。

 教頭の前では、みんな言葉を選ぶ。


 見ている教師はいる。

 おかしいと思っている教師もいる。


 でも、校長と教頭が“深入りするな”という空気を作れば、それだけで多くは止まる。


 学校という組織は、そういう場所だった。


 理人は、そのすべてを知らない。


 だが、その夜、家の中に戻ってきた健斗と葵の疲れた顔を見て、何かがまたうまくいかなかったことだけは分かった。


「……どうだった」


 理人が小さく聞く。


 健斗はすぐには答えなかった。

 代わりに葵が言う。


「学校は、まだ“話し合えば”って言うとる」


 理人の顔が固まる。


 話し合い。


 その言葉だけで、胸の奥が嫌な冷たさに触れる。

 自分を消えろと言った相手と、

 同じ机に座らされて、

 何を話せというのだろう。


 理人はうつむいた。


「……無理」


 それだけが、やっと言えた。


「うん」

 葵はすぐにうなずく。

「無理でいい」

「……」

「それは理人がわがままなんやない」

「……」

「その場を作ろうとする方がおかしいんよ」


 その言葉に、理人の肩が少しだけゆるむ。


 その夜遅く、高石から健斗へ短い連絡が入った。


 学校とは別に、協力してくれる教員を探しています。正式な動きは難しくても、記録と事実だけは残します。


 健斗はその文面を何度も読み返した。


 学校全体は信用できない。

 校長も教頭も、自分の立場を守る方へ流れている。

 それでも、その中で一人だけ、いや、もしかしたら二人三人かもしれないが、まだ踏みとどまろうとしている教師がいる。


 細い。

 あまりにも細い。

 だが今は、その細い糸すら無視できなかった。


 布団に入った理人は、天井を見ながら考えていた。


 話し合い。

 和解。

 対話。


 学校が使うその言葉は、理人には全部、刃物みたいに聞こえた。

 きれいな言葉なのに、自分をまたあの教室へ押し戻そうとしてくる。


 それは罠だった。


 でも同時に、

 高石はその罠に気づいている気もした。

 学校の中で一人だけ、違う方向を見ている気がした。


 理人は目を閉じる。


 閉ざされた場所はまだある。

 教室も、学校も、まだ安全ではない。

 でもその中で、誰が本気で守ろうとしていて、誰が自分の立場だけを守ろうとしているのか、

 少しずつ輪郭が見え始めていた。

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