閉ざされた場所
第29話 閉ざされた場所
教室の中で、理人の居場所はますます薄くなっていた。
以前は、まだ“輪の外にいる”だけだった。
声をかけられない。
机を寄せると半歩ずれる。
連絡が自分だけ遅れる。
そういう、空気の中の排除だった。
でも今は違う。
高石が前より明確に目を光らせるようになってから、露骨な言葉は減った。
理人が来ると教室の空気が一瞬冷えるのは変わらないが、前みたいにあからさまな暴言を教師の前で吐くことは少なくなった。
その代わりに、もっと見えにくい形で、もっと逃げにくい形で、理人は追い込まれ始めていた。
目の届きにくいところ。
死角になるところ。
人目から一瞬だけ外れるところ。
誰も見ていないわずかな時間に、圧が集中する。
それはまるで、教室の中そのものが理人を吐き出しきれなくなり、
今度はもっと閉じた場所へ押し込めようとしているみたいだった。
⸻
その日の三時間目は理科だった。
授業は教室ではなく、理科室で行われる。
高石も一緒に移動してはいたが、準備のために先に行く必要があり、子どもたちはいつもより少しばらけた形で廊下を歩くことになった。
「実験道具、落とさないでねー」
高石が前の方から声をかける。
理人は班ごとのトレーを持たされて、最後尾に近い位置を歩いていた。
誰かがわざとそうしたのか、自然にそうなったのか、今の理人にはもう区別がつかない。
ただ、自分だけが一番後ろになる場面が増えていることだけは分かっていた。
理科室へ着く直前、準備室の前を通りかかったときだった。
「伊達、それ一回こっち置いとけよ」
後ろから獅童の声がした。
理人が振り向く。
獅童の横には江口と水田がいる。
中島こころと神谷も、少し離れたところからこちらを見ていた。
「なんで」
理人は短く返す。
「先生が、先に中の棚取ってこいって」
江口が言う。
「トレー持ってたら邪魔だろ」
理人は一瞬迷った。
準備室の扉は半分開いている。
中は薄暗く、棚や教材がぎっしり入っているのが見えた。
本来なら、そこへ一人で入る必要はない。
でも今この場で「自分で聞く」と言えば、また空気が変わるのが分かった。
高石は前の理科室の中にいる。
ここからでは姿が見えない。
理人は結局、トレーを持ったまま準備室の中へ一歩入った。
その瞬間、後ろで扉が強く押される音がした。
ばん、と鈍い音。
「……!」
理人が振り返る。
扉は完全には閉まっていない。だが外から体を寄せれば、簡単には出られない角度になっていた。
「開けろよ」
理人が言う。
外から、くぐもった笑い声がした。
「なんで?」
中島こころの声。
「閉ざされた場所、好きそうじゃん」
「星でも見てろよ」
江口が笑う。
理人は扉に手をかけた。
押す。
でも、外から誰かが体重をかけているのか、すぐには開かない。
胸の奥がひゅっと冷たくなる。
狭い。
薄暗い。
棚が迫っていて、空気が少し埃っぽい。
それだけで、理人の呼吸が浅くなる。
「……やめろって!」
声が少し上ずる。
「そんな怒んなよ」
獅童の声がする。
「別に閉じ込めてるわけじゃねえし」
「出たいなら出れば?」
神谷の声まで混じる。
その穏やかな言い方が逆に残酷だった。
理人はもう一度強く扉を押した。
がたん、と棚が揺れる音がする。
そのとき、外から今度は別の衝撃が入った。
誰かが扉越しに蹴ったのだろう。
どん、と鈍い音がして、理人の肩が棚へぶつかる。
「っ……!」
「こわーい」
中島が笑う。
「暴れるのやめてくれる?」
理人の中で、何かが急速にせり上がってくる。
怖い。
苦しい。
怒りもある。
でもそれ以上に、この狭い空間そのものが嫌だった。
ここには窓がない。
外が見えない。
誰かが助けてくれる気配もない。
閉ざされた場所。
それはそのまま、今の理人の心の中みたいだった。
⸻
理科室の方から、子どもたちの声が遠く聞こえる。
始まってしまう。
誰も気づかないまま。
理人はポケットの中のスマホを思い出した。
録音は続いている。
だが今この瞬間、証拠が残ることと、自分がここから出られることは別だった。
「開けろ!」
今度ははっきり叫んだ。
その声に、外の笑いが少し止まる。
だが次の瞬間、江口が低く言った。
「ほんと、うるせえな」
その一言のあと、扉が少しだけ緩んだ。
理人が押し返すと、ようやく隙間ができる。
そこから体を滑り込ませるようにして出た瞬間、神谷が薄く笑った。
「なに、そんな必死になってんの」
理人は息を乱しながら、獅童たちを見る。
「……最低だな」
声は震えていた。
でも、言わずにはいられなかった。
獅童の目が細くなる。
「お前が大げさなんだよ」
「閉じ込めたわけでもねえし」
と水田。
「被害者ごっこ好きだよな」
中島こころが笑う。
そのときだった。
「何してるの!」
理科室の方から、高石の声が飛んだ。
全員の肩が揺れる。
高石は理科室の前まで出てきて、準備室前の空気を一目で読んだのだろう。
理人の乱れた呼吸。
開ききっていない扉。
その前に立つ獅童たち。
「伊達くん、大丈夫?」
理人はすぐには返事ができなかった。
喉が詰まり、息が浅いままだからだ。
その様子を見て、高石の表情が変わる。
「今、何があったの」
獅童がすぐに口を開く。
「別に何も」
「準備室の前で、伊達が勝手に――」
「嘘つかないで」
高石の声は、今までよりもはっきりしていた。
教室でのやり取りとは違う。
この場では、理人の息の乱れが目に見えている。
物理的な異常が、もう目の前にある。
「理人くん」
高石は今度は少し声を落として聞く。
「中、閉められた?」
理人は肩で息をしながら、小さくうなずいた。
そのうなずきだけで、十分だった。
高石は準備室の扉を自分で開け、周囲を見て、それから振り返った。
「全員、理科室入って」
静かだった。
でも逆らえない声だった。
「今のことは、後で一人ずつ聞きます」
神谷の顔に、初めてはっきり不快さが浮かぶ。
獅童も舌打ちしそうな顔をしたが、高石の目がそれを許さなかった。
⸻
その日の理科の授業中、理人は内容をほとんど聞けなかった。
呼吸は少しずつ戻った。
でも胸の奥のざわつきは消えない。
狭い空間に押し込められた数十秒が、体の中で何度も再生される。
閉ざされた場所。
理人はその言葉を頭の中で繰り返した。
準備室だけじゃない。
教室もそうだ。
学校という建物そのものもそうかもしれない。
どこへ行っても、結局は見えない壁があって、自分を押し込めてくる。
今の自分の心の中にも、似たような部屋がある気がした。
薄暗くて、窓がなくて、声を出しても外へ届きにくい部屋。
理人は机の下で、ポケットの上からスマホに触れた。
録音は、たぶん残っている。
でも、それでも苦しさはその場で終わらない。
証拠が増えるほど、自分がどれだけ追い詰められているのかをもう一度知ることにもなる。
⸻
放課後、高石は理人を保健室へ連れて行った。
ベッドに座らせ、水を渡し、しばらく何も言わずに待つ。
理人の呼吸が落ち着いてから、ようやく言った。
「今日は、来たこと自体がすごいよ」
理人はうつむいたままだった。
「……別に、すごくない」
「すごいよ」
高石は静かに言う。
「細い橋でも、渡ろうとしたんだから」
その言葉に、理人は少しだけ目を上げた。
高石は続ける。
「でも、教室はまだ変わりきってない」
「……」
「そこは、先生ももう分かってる」
「……うん」
その“うん”は、とても小さかった。
けれど、理人が今感じていることと、先生の見ていることが少しだけ重なった瞬間でもあった。
⸻
家へ帰ったあと、理人は今日は特に疲れ切っていた。
葵が顔を見るだけで何かあったと分かるほど、表情が削られていた。
美羽も兄の様子を見て、今日はいつも以上に静かだった。
健斗が「何があった」と聞くと、理人は少し迷ったあとで言った。
「準備室に……」
それだけで、葵の顔色が変わる。
理人は全部を説明しきれなかった。
でも、“閉められた”“出られなかった”“息が苦しくなった”という断片だけで十分だった。
健斗は黙って聞いていたが、聞き終えたあと低く言った。
「もう、学校の中は安全な場所じゃないな」
その言葉に、誰も反論できなかった。
⸻
その夜、理人は布団に入ってからも、準備室の扉の音を何度も思い出していた。
ばん、という音。
薄暗い棚の影。
埃っぽい空気。
外から聞こえる笑い声。
閉ざされた場所は、理人にとってもう象徴ではなかった。
現実だった。
そしてその現実は、
第3クールの空気をさらに深く、さらに重くしていく。
理人は目を閉じながら思う。
まだ、あの教室は変わっていない。
細い橋はある。
でも、その先にある場所は、まだ安全ではない。
それでも、今日は録音が残っている。
高石も見た。
家族も知る。
完全に閉ざされているわけじゃない。
でも、まだ抜け出せてもいない。
その宙吊りの苦しさの中で、理人は長い夜を迎えるしかなかった。




