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少年法の壁  作者: リンダ


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また来たのか



 第28話 また来たのか


 朝の空気は、まだ夏の手前だった。


 暑いとまではいかない。けれど、駅前のアスファルトの上にはもう初夏の匂いが漂っていて、空は高く白くかすんでいた。


 理人は玄関の前に立っていた。


 ランドセルを背負う。

 靴を履く。

 手のひらは少し湿っている。

 胸の奥は、やっぱり落ち着かない。


 それでも今日は、昨日までと少しだけ違うものがあった。


 細い橋みたいなもの。


 高石が言った言葉。

 光の「飯山の空、まだ理人のこと忘れてねえから」という声。

 父と母の「行ってこい」。

 それらが、切れそうで切れない糸みたいに理人の中に残っていた。


 だから理人は、行くことにした。


 もう一度だけ。


 行ってみる。

 それで何が変わるかは分からない。

 でも、自分が今どこにいるのかを、自分で確かめたかった。


 そしてもう一つ、理人は今日はスマホを持っていた。


 ポケットの中で、録音機能をオンにする。

 画面を見つめ、赤い印を確認する。


 録音中。


 父がランドセルへレコーダーを入れたことを知ってから、理人の中には一つの思いが残っていた。


 また“知らない”で消されるかもしれない。

 また“見ていない”で逃げられるかもしれない。

 だったら、自分でも残しておこう。


 怖い。

 でも、それ以上に、もうなかったことにされたくなかった。


 理人はポケットの上からスマホを軽く押さえ、家を出た。



 学校までの道は、やっぱり少し長く感じた。


 信号待ちの間も、校門へ近づくたびも、心臓は少し速かった。

 でも、前みたいに完全に足が止まることはなかった。


 校門をくぐる。

 昇降口へ入る。

 上履きに履き替える。


 その一つ一つが、理人には小さな山を越えるみたいだった。


 六年棟の階段を上るとき、胸の奥にまたざわつきが戻る。

 教室の前まで来ると、扉の向こうから子どもたちの声が聞こえた。


 普通の教室の音だった。

 笑い声。

 椅子を引く音。

 誰かの「それ貸して」。

 高石のいない朝のざわめき。


 理人は一度だけ深く息を吸った。


 扉を開ける。



 その瞬間、空気が変わった。


 ざわめきそのものは止まらない。

 でも、温度が変わる。

 さっきまで流れていたものが、理人の入ってきた一瞬だけ、目に見えない壁みたいに固くなる。


 何人かが振り向く。

 視線が走る。

 また来たのか、という気配が教室のあちこちに広がる。


 理人はその中を、できるだけ普通の顔で自分の机まで歩いた。


 机は前回ほど露骨には荒らされていない。

 高石が見張っていたのだろう。

 それでも、安心はできなかった。


 鞄を置こうとした、そのとき。


「……あんた、なんで来たん?」


 神谷莉央の声だった。


 理人が顔を上げると、神谷は机に寄りかかるように立っていた。その隣で中島こころが、口元をゆがめるように笑っている。


「死神が来たわ」

 と中島が言う。


 数人が小さく笑う。


「このクラスに、お前のいるところなんてねぇんだよ」

 神谷は低く言った。

「さっさと帰れや」


 理人の胸がどくんと鳴る。


 でも、今はポケットの中でスマホが動いている。

 その事実が、かろうじて理人の足をその場へとどめていた。


「まじで、お前の顔見たらムカつく」

 中島こころが続ける。

「お前の顔見たら、私らの目が腐るわ」


 その言葉に、理人の中で何かがひりっとした。


 怖い。

 でも今までみたいに、ただ飲み込むだけでは終わりたくなかった。


 理人は鞄の肩紐を握ったまま、はっきり言った。


「……腐るんだったら、俺の近くに来なきゃいいじゃん」


 一瞬、教室の空気が止まる。


 神谷とこころの表情が変わった。

 まさか理人が言い返すとは思っていなかったのだろう。


「なにこいつ」

 中島が目を細める。

「私らに逆らうってか?」


 その次の瞬間だった。


 理人が机に鞄を置きかけた背中へ、横から強い衝撃が入る。


「っ……!」


 女子のやることとは思えないほど鋭い蹴りだった。

 神谷の足が、理人の背中の下の方へ入っていた。


 理人の体が前へ大きくよろめく。

 机に手をつかなければ、そのまま倒れていたかもしれない。


「神谷さん、ナイスキック〜」

 中島こころが笑う。


 教室の一角で、何人かが息をのむ。

 でも笑いも混じる。


 理人は痛みに顔をしかめながら、それでも倒れずにこらえた。

 机に手をついたまま、ゆっくりと振り返る。


 背中が熱い。

 でも、その痛み以上に、怒りの方が先に来た。


「……そんなことでしか」

 理人は息を整えながら言う。

「自分の強さを誇示できん……可哀想な奴ら」


 その言葉で、中島の顔が一気に険しくなる。

 神谷も目の奥を冷たくした。


「なんだと、テメー――」


 中島が一歩出かけた、そのとき。


「神谷さん」


 教室の扉の方から、はっきりした声が飛んだ。


 高石正美だった。


 いつもより少し早く教室へ入ってきた高石は、その場の空気を一目で読んだのだろう。表情は固く、目はまっすぐ神谷を見ていた。


「今のは、どういう意味?」


 神谷は一瞬だけ動きを止めた。

 だが次の瞬間には、もういつもの顔へ戻っていた。


「いや、うちらは別に」

 神谷は肩をすくめる。

「昨日のドラマのセリフ真似しただけです」


 その自然さに、理人の胸が冷たくなる。

 またそれか。

 また、言っていないことにするのか。


 だが今日は、高石が引かなかった。


「嘘言うんじゃない」


 その声は、教室の空気をはっきり切り裂いた。


 今までの高石なら、ここで“今は何があったのか説明して”と一歩引いていたかもしれない。

 でも今日は違った。


「私は今、このクラスで起きていることを見過ごしはしないから」


 その言葉に、教室の何人かが顔を上げる。


 神谷はわずかに表情を止めた。

 中島も、笑いかけた口元を閉じる。

 獅童や江口でさえ、今の高石の声には少し空気を変えられていた。


 高石は理人を見る。

 その一瞬だけ、目の中に「大丈夫か」という感情が見えた。


 理人は何も言えなかったが、その視線が今は細い橋の上の板一枚みたいに思えた。



 一時間目と二時間目のあいだの休み時間。


 教室の空気はまたざわついていたが、さっきよりは妙に静かだった。

 高石の言葉が残っているのだろう。

 でも、その静かさの下に悪意が消えたわけではない。


 そこへ、美羽が廊下から顔を出した。


「お兄ちゃん、忘れ物」


 小さな手に持っていたのは、理人の家用のメモ帳だった。

 朝、机の上に置き忘れていたものだ。


 理人が振り向く。


「……ありがとう」


 その瞬間、教室の後ろの方で中島こころが鼻で笑った。


「でた」

「正義のヒロインぶった妹が」

 神谷が低く言う。


 その言葉は、美羽にもはっきり聞こえた。


 前なら少し怯んだかもしれない。

 でも、この前の帰り道で一度向き合ってから、美羽の中にも変化があった。


 美羽は兄の机のそばまで来ると、まっすぐ神谷の方を見て言った。


「だから何?」


 その一言に、今度は別の意味で空気が止まる。


 美羽は三年生だ。

 体も小さい。

 でも、その目はぶれていなかった。


「私、間違ったことしてないし」

 と美羽は続ける。

「お兄ちゃんのこと、いじめる方がおかしい」


 教室の空気がぴりつく。


 神谷の顔に、今度こそはっきり不快さが浮かぶ。

 だがそこで、廊下の向こうから別の声がした。


「いくらなんでも、下級生に対してやりすぎだろ」


 他のクラスの女子だった。

 六年二組の子と、五年生の女子が二人、廊下側からこちらを見ている。


 今まで気づいていないふりをしていた外側の目が、ついに声になった。


「さっきから聞こえてるけど、普通じゃないよ」

 と六年二組の女子が言う。


 中島こころが「は?」と振り返る。

 だが、さっきまで教室の中だけで通じていた空気が、外の視線にさらされた瞬間、その強さは少しだけ弱まった。


 美羽は兄の机へメモ帳を置き、最後に小さく言った。


「じゃあね、お兄ちゃん」


 理人はその背中を見送りながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 守られてばかりだ。

 そう思う苦さもある。

 でも同時に、自分のために立つ人がいることが、今の理人には痛いくらいありがたかった。



 休み時間が終わったあと、高石は理人を廊下へ少しだけ呼び出した。


「大丈夫か」

 と短く聞く。


 理人は背中の痛みをかばいながら、小さくうなずいた。


「……平気、ではないです」

 と、少しだけ正直に言う。


 高石の表情が変わる。

 その“平気ではない”を理人が口にしたこと自体が、大きかった。


「録音はしてるか」

 高石が低く言う。


 理人は一瞬驚いたが、こくっと小さくうなずいた。


「……はい」


 高石は短く息を吐いた。


「それでいい」

「……」

「今は、残すことも大事だ」


 学校全体は、まだ信用できない。

 高石自身もそれを知っている。

 だからこそ、その言葉は理人にとって“先生の助言”というより、“一緒に橋を渡るための確認”みたいに聞こえた。



 その日の帰り道、理人はまだ胸の中がざわついていた。


 教室はやっぱり変わっていなかった。

 少し整ったように見えても、理人が入った瞬間に冷たくなる。

 表面の静けさの下で、悪意はそのまま残っている。


 細い橋の上を渡ろうとした。

 でも、その向こう側の教室は、まだ安全な場所ではなかった。


 それを、理人はまた思い知った。


 それでも今日は、前と少しだけ違うこともあった。


 言い返した。

 倒れなかった。

 高石がその場で止めた。

 美羽が来た。

 外のクラスの子が「やりすぎだろ」と声を上げた。


 悪意は消えていない。

 でも、完全な密室ではなくなり始めている。


 理人は家の近くまで来たところで、空を少しだけ見上げた。


 夏の手前の空は、まだ白く高い。

 気持ちは全然軽くない。

 明日が怖いのも変わらない。

 でも、ただ沈むだけではなくなり始めている何かも、たしかにあった。



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