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少年法の壁  作者: リンダ


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もう一度だけ

第27話 もう一度だけ


 学校へ戻ることは、まだ“未来の話”だった。


 校舎を思い浮かべるだけで胸がざわつく。

 六年一組という言葉を聞くだけで、喉の奥が細くなる。

 過呼吸を起こした朝から、理人の中では“登校”という行為そのものが、まだ危険な場所の入り口のままだった。


 それでも、完全に何も変わっていないわけではなかった。


 高石正美は、あの日以来、伊達家へ直接連絡を入れてくるようになった。

 学校の決まり文句のような言い方ではなく、あくまで個人としての口調で。


「今日は理人くんの机、使わせていません」

「理科室移動のときのグループも、今は固定させないようにしています」

「発信者情報の件は、水面下で確認を進めています」


 どの言葉も、学校全体を信用させるには足りなかった。

 校長も教頭も、まだ事なかれ主義の顔を崩していない。

 だから理人にとって学校は、依然として怖い場所のままだった。


 でもその中に、高石という個人だけはいた。


 その存在が、今の理人にとっては、切れそうで切れない細い橋みたいなものだった。



 六月の終わり、蒸し暑い夕方だった。


 理人は自分の部屋で、窓を少しだけ開けていた。外からは、どこかの家の風鈴みたいな音がかすかに聞こえる。夏が近づいているのに、自分だけその流れから取り残されているような感覚が、最近の理人にはずっとあった。


 机の上に置いたスマホが、短く震えた。


 画面を見る。


 光


 その名前だけで、胸の中に少し違う空気が入ってくる。


 通話ボタンを押すと、すぐに飯山の方言まじりの声が響いた。


「理人?」


「……うん」


「元気、ではねえな」

 と、光はすぐに言う。


 理人は思わず少し息を漏らした。

 笑ったとまではいかない。

 でも、少なくとも肩の力が少し抜けた。


「まあ……うん」


「もうすぐ夏休みやろ」

 光は言う。

「理人、こっちに来ないか?」


 理人は黙った。


 夏休み。

 長野。

 飯山。


 その言葉だけで、頭の中に景色が浮かぶ。

 山の見える駅。

 朝の澄んだ空気。

 夜になると近く感じる星。

 祖父母の家の畳の匂い。

 風が抜ける縁側。


 今の横須賀とは、まるで違う場所。


 光は続ける。


「無理なら、私が理人に会いに行く」

「え」

「別に不思議じゃないやろ。会いたいし」

 その言い方が、いかにも光だった。

「理人と遊びたいなって思っただけ」


 理人はまた黙った。


 “遊びたい”。

 そんなふうに、自分に向けて言われるのは久しぶりだった。


 学校では、自分がいれば空気が悪くなると言われた。

 いなくなればみんな幸せだと言われた。

 なのに今、遠い長野から、会いたい、遊びたいとまっすぐ言ってくる声がある。


 理人の目の奥が少し熱くなる。


「……両親に聞いてみる」


 やっとそれだけ言った。


 光の声が少し明るくなる。


「うん。聞いてみて」

「……」

「来れるなら、楽しみにしとるから」


 その“楽しみにしとる”が、理人の胸の中へ静かに落ちた。



 電話を切ったあと、理人はしばらくスマホを見つめていた。


 長野へ行く。

 光に会う。

 祖父母の家へ行く。


 現実味があるようで、まだ夢みたいでもある。


 でもその“夢みたい”の中に、今の理人には久しぶりの前向きさがあった。


 学校へ行くことを考えるとまだ苦しい。

 でも、長野へ行くことを想像すると、胸の奥にほんの少しだけ違う感覚が生まれる。

 怖さではなく、もしかしたら、という感じ。


 理人はそのままリビングへ下りた。


 健斗は仕事の資料を見ていて、葵は台所で夕食の支度をしていた。美羽は宿題を広げている。


「……父さん」

 と理人が言う。


 健斗が顔を上げる。

「どうした」


「夏休み……」

 理人は少し言葉を探す。

「光が、長野に来ないかって」


 葵の手が止まる。

 美羽がぱっと顔を上げる。


「飯山?」

「うん」


 理人は続けた。


「会いたいって。遊びたいって」

「……」

「行きたい、かも」


 その最後の言葉は小さかった。

 でも、伊達家の中ではとても大きな意味を持った。


 行きたい


 学校へではなく。

 別の場所へ。

 別の空気のあるところへ。

 自分を傷つけない人がいる場所へ。


 それは、理人が久しぶりに自分から示した“前へ向かう意思”だった。


 健斗と葵は、一瞬だけ顔を見合わせた。


 そして、ほとんど同時に言った。


「行ってこい」

「行ってき」


 理人が少し驚いたように目を上げる。


 葵がやわらかく笑う。


「夏休みやし。理人が行きたいなら、それが一番や」

 健斗も続ける。

「美羽も一緒に行けばいい」


「ほんと!?」

 美羽が目を輝かせる。


 理人の胸の中に、じわっと何かが広がる。


 否定されない。

 止められない。

 「無理するな」でも「様子を見て」でもなく、

 行ってこいと言われる。


 その言葉は、理人にとって思った以上に大きかった。


「……いいの」


「いいに決まっとるやろ」

 葵が言う。

「学校へ戻すことばっかりが今の答えじゃない」

「……」

「理人が息しやすい場所に行くんよ」


 その一言に、理人は少しだけうつむいた。

 涙までは出なかった。

 でも、胸の奥があたたかくなった。



 その夜、理人は自分からもう一度スマホを手に取った。


 今度は、自分から光へ連絡する。


 呼び出し音が二回鳴ったあと、すぐにつながる。


「理人?」

「……うん」

「どした」


 理人は少しだけ息を吸った。


「父さんと母さんに聞いた」

「うん」

「行ってこいって」


 電話の向こうで、光が息をのむ気配がした。

 それから、ぱっと明るくなる声。


「ほんとか!」

「……うん」

「そっか」


 短いその言葉の中に、喜びがはっきり詰まっていた。


「楽しみにしてるから」

 光は言った。

「めっちゃ楽しみにしてる」


 その声を聞きながら、理人は少しだけ目を閉じた。


 楽しみにしてる。


 今の自分に向かって、そんなふうに言ってくれる人がいる。


 それだけで、長いあいだ胸にこびりついていた

 “自分がいると不幸になる”

 という言葉が、ほんの少しだけ遠のいた気がした。


「……うん」


 理人は、それしか言えなかった。

 でも、声は前より少しだけやわらかかった。



 光は受話器の向こうで、理人の声を聞きながら、胸の奥が少し熱くなるのを感じていた。


 会える。

 この夏、理人が飯山に来るかもしれない。


 それだけで、胸が落ち着かない。


 光は表向きにはいつも明るくて、少し乱暴なくらいの勢いでしゃべる。格闘技が好きで、男子に混じってボクシングへ打ち込み、今日もスパーリングをこなしてきたばかりだ。怖いもの知らずに見られることも多い。


 でも本当は、理人の前だけでは少し違う気持ちがあった。


 小さいころから、理人は優しかった。

 星の話をしてくれた。

 難しいことを、分かるように教えてくれた。

 静かなのに、ちゃんとあたたかかった。


 そんな理人に、光はずっと、ほんの少しだけ特別な気持ちを抱いていた。


 恋だと呼ぶには、まだ自分でも照れくさい。

 でも会えたら、その想いを少しでも伝えられたらと思っている。


 もちろん今は、そんなことより理人がしんどいのを知っている。

 だからすぐにどうこう言うつもりはない。

 でも、会ったら。

 顔を見たら。

 今までより少しだけ、ちゃんと伝えられるかもしれない。


 光は受話器の向こうで、できるだけいつもの声を保ちながら言った。


「星、見に行こうな」

「……うん」

「飯山の空、まだ理人のこと忘れてねえから」


 その言葉に、理人は少しだけ息を止めた。


 忘れてねえから。


 それは、今の理人にとって、何より優しい言葉だった。



 電話を切ったあと、理人はしばらくスマホを握ったまま動かなかった。


 学校全体はまだ信用できない。

 校長も教頭も、きっと最後まで事なかれ主義のままかもしれない。

 教室の空気が急に変わるとも思えない。


 でも、高石正美という一人の大人がいる。

 そして飯山には、光がいる。

 祖父母がいる。

 家族がいる。


 学校という閉じた場所の外に、まだ自分を受け入れる場所がある。

 そのことを、理人は初めてはっきり感じ始めていた。


 “もう一度だけ”。


 それが、この先何に向けられる言葉なのか、理人にはまだ分からない。

 もう一度だけ学校へ行ってみることなのか。

 もう一度だけ星を見てみることなのか。

 もう一度だけ誰かを信じてみることなのか。


 でも少なくとも今夜、理人の中には、

 “完全な絶望ではない何か”が、ほんの少しだけ戻ってきていた。

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