表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少年法の壁  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/28

ノートに書かれた本音

 第26話 ノートに書かれた本音


 言葉は、口に出そうとすると消えてしまうことがある。


 大丈夫。

 別に。

 なんでもない。


 そういう言葉ばかりが先に出て、

 本当に言いたいことは、喉の奥でつかえてしまう。


 理人にとって、最近ずっとそうだった。


 母の前でも。

 父の前でも。

 先生の前でも。

 話そうとすると、どこかで言葉の形が崩れてしまう。


 泣いてしまう。

 詰まってしまう。

 言えなくなる。


 だから、何も言わない方がましだと思うことも増えていた。


 でも、言わなかった言葉は消えない。

 ただ、心の中に溜まっていくだけだった。


 その日、理人は自分の部屋の机に向かっていた。


 外はもう夕方で、窓から入る光が薄くなり始めている。机の上には学校のノートが何冊か積まれていたが、勉強をする気にはなれなかった。


 代わりに、何も書いていない古いノートを一冊引っぱり出した。


 表紙に題名はない。

 新品でもない。

 少しだけ角の折れた、どこにでもあるノートだった。


 理人はしばらく、その白いページを見ていた。


 何を書くつもりなのか、自分でもはっきり分かっていなかった。

 でも、何かを書かなければもう苦しい気がした。


 口に出せないなら、

 せめてどこかに置きたかった。


 シャープペンを持つ。

 手が少し震える。

 それでも、最初の一行は意外なほどあっさり出てきた。


 なんで俺なんだろう


 その文字を書いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ動いた。


 理人は止まらなくなった。


 ノートには、誰にも見せるつもりのない言葉が少しずつ増えていった。


 なんで俺なんだろう。

 俺が何したの。

 静かにしてただけなのに。

 好きなものを好きって言っただけなのに。

 鼻炎があるのは俺のせいじゃないのに。

 なんで汚いって言われなきゃいけないの。

 なんで消えろって言われるの。


 ページをめくる。

 次のページにも書く。


 いなくなったらみんな幸せって、本気で思ってるのかな。

 もし本当にそうなら、俺はどうしたらいいんだろう。

 教室にいるのが怖い。

 家にいても、外の音がすると怖い。

 休んだら負けたみたいで苦しい。

 行こうとすると息ができない。


 さらに、もう一枚。


 お父さんとお母さんには心配かけたくない。

 美羽まで巻き込みたくない。

 でも一人じゃもう無理。

 助けてほしいのに、助けてって言うのも怖い。


 理人の呼吸が少しずつ荒くなる。

 でも、書く手は止まらない。


 これが、自分の本音だ。

 誰にも見せないつもりだからこそ、初めて書ける言葉がある。


 そして最後に、理人は一番小さな字で書いた。


 消えたいって思ってしまった。

 でも、本当は消えたいんじゃなくて、苦しいのが終わってほしいだけかもしれない。

 わからない。

 わからないけど、もう疲れた。


 その一文を書いたところで、理人はペンを置いた。


 胸が苦しい。

 でも、書く前とは少しだけ違う苦しさだった。

 心の中で渦巻いていたものが、紙の上に落ちたぶんだけ、少しだけ形を持った気がした。


 そのノートを見つけたのは、葵ではなく健斗だった。


 理人が夕食の前に少し横になっているあいだ、机の上を片づけようとしていて、半分閉じたノートが目に入ったのだ。最初は見ないつもりだった。子どもの机を勝手にのぞくことに迷いもあった。


 だが、ページの端に見えた最初の一文が目へ入ってしまった。


 なんで俺なんだろう


 その瞬間、健斗の手が止まる。


 少し迷ったあと、ページを開く。

 そして、そこに書かれた言葉を読み始めた。


 読み進めるうちに、健斗の喉の奥が詰まっていく。


 理人はここまで考えていたのか。

 ここまで、自分を責めながら彷徨っていたのか。

 表では「別に」としか言わなかったその奥で、こんな言葉がずっと渦巻いていたのか。


 最後のページまで読み終えたとき、健斗はしばらく椅子に座ったまま動けなかった。


 葵が部屋へ入ってきて、その顔を見てすぐに異変に気づいた。


「どうしたの」


 健斗は何も言わずにノートを差し出す。


 葵はそれを受け取り、読み始めた。

 そして数行も進まないうちに、目に涙が浮かんだ。


 理人が今、どこまで追い詰められているのか。

 それが、初めて言葉そのものの形で目の前に置かれた。


 悲痛な叫びだった。


 声にならなかったぶん、余計に重かった。


 高石正美が伊達家を訪れたのは、その翌日の夕方だった。


 今回は、学校の担任としての形式的な家庭訪問ではなかった。

 高石自身が、自分の足で来たいと申し出たのだ。


 葵と健斗は少し迷った。

 でも最終的には通すことにした。


 高石は玄関で頭を下げたあと、リビングへ通された。

 その姿は、学校で見るときより少しだけ小さく見えた。


「本日は、お時間をいただいてありがとうございます」


 そう言ったあと、高石はしばらく言葉を探していた。

 そして、ゆっくりと頭を下げた。


「……理人くんに、謝りたくて来ました」


 理人はソファに座っていたが、その言葉を聞いて小さく肩をこわばらせた。


 高石は続ける。


「先生は、見えていなかったです」

「……」

「いや、正確には、見えていたのに、ちゃんと受け取れていなかった」

「……」

「理人くんが出してたサインを、“よくあること”の中へ押し込めてしまいました」


 その声は、学校の教室で使うものとは違っていた。

 子どもたちをまとめる声ではなく、

 一人の大人が、自分の失敗を認める声だった。


「ごめんなさい」


 理人は顔を上げられなかった。


 目の前の先生は、本当に謝っているように見える。

 でも、謝られたからといって今までのことが消えるわけではない。

 胸の奥には、まだ怖さもある。

 信じていいのかも分からない。


 理人の口から出てきたのは、また別の言葉だった。


「……先生にも、ごめんなさい」


 その一言に、葵の胸がきしむ。


 やっぱり、この子は自分を責めてしまう。


 高石はすぐに首を振った。


「謝らなくていい」


 その声ははっきりしていた。


「理人くんが悪いわけじゃない」

「……」

「何も悪くない」

「……」

「我慢し続けたことも、言えなかったことも、怖かったことも、全部理人くんのせいじゃない」


 理人の目に、また涙が滲んだ。


 高石は、理人の前で初めて“味方”という立場を明確にした。


「先生は、理人くんの味方です」


 その言葉が、部屋の中に静かに落ちる。


「今さら遅いって思われても仕方ない」

 高石は続ける。

「でも、それでも、これからは絶対に見誤らない」

「……」

「理人くんが安心して息をできる方を、先生は選びます」


 理人は顔を伏せたまま、静かに泣いていた。

 返事はできなかった。

 でも、その涙は、今まで教室で流してきたものとは少しだけ違っていた。


 全部を信じられなくても、

 少なくとも今この先生は、本気でそう言っているのかもしれない。

 そんな感覚が、かすかに胸の中へ入ってきた。


 帰り際、高石は健斗と葵にも向き直った。


「学校としても、今できることを進めます」


 健斗は短く聞く。


「具体的には」


 高石は答えた。


「裏アカウントについて、学校単独でできる範囲は限られていますが……」

「……」

「SNS事業者に対して、発信者情報の開示を求める手続きを始める方向で動きます」


 その言葉に、健斗と葵の表情が少し変わる。


 やっと、そこまで来た。


「正式には教育委員会や法的な助言も必要になるかもしれません」

 高石は続ける。

「でも、もう“分からないから様子を見る”では終わらせません」


 健斗は少しだけ間を置いてからうなずいた。


「……わかりました」


 完全に許したわけではない。

 まだ怒りも不信も消えていない。

 でも、ようやく学校側から“追う”という言葉が出たことは、確かに意味があった。


 その夜、理人は自分のノートを机の引き出しへしまい直した。


 もう誰にも見られたことは分かっている。

 少し恥ずかしさもあった。

 でも、それ以上に、あれを書いたことで初めて届いたものもあった気がした。


 ノートは、誰にも見せるつもりのない心の叫びだった。

 けれど、結果としてそれが、理人の本当の状態を一番正確に伝えてしまった。


 言葉にできなかった自分の心を、

 紙だけは裏切らなかったのだと、

 理人は少しだけ思った。


 窓の外では、夜の風が静かに木を揺らしていた。


 学校のことを考えれば、まだ胸は重い。

 明日になればまた苦しくなるかもしれない。

 何も急には変わらない。


 でも、今日、高石は“味方だ”と言った。

 発信者情報を追うと言った。

 学校の先生としてではなく、理人の前に来て謝った。


 それがすべてを解決するわけではない。

 でも、今までとは違う一歩ではあった。


 第2クールの終わりに立ちながら、理人はまだ壊れかけていた。

 でも同時に、ようやく“守ろうとする手”も少しずつ見え始めていた。


 その手が本当に届くのかどうかは、まだ分からない。


 けれど、消えたいと書くしかなかった心に、

 ほんのわずかでも別の言葉が差し込む余地ができたのだとしたら、

 それはきっと、次へ進むための小さな光だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ