謝らない大人たち
第25話 謝らない大人たち
子どもが傷つけられるとき、
その傷は子どもだけのもので終わらない。
大人たちは、そこで二つに分かれる。
傷ついた子の苦しさを見る側と、
自分の立場や自分の子を守ることを先に考える側。
そして多くの場合、後者の声の方が大きい。
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保護者会が開かれることになったのは、音声データが学校へ提出され、理人への加害がもはや“誤解”では済ませられなくなったあとのことだった。
学校側の説明では、
「一部児童間の深刻な人間関係トラブルについて、保護者の皆さまと認識を共有し、今後の対応を検討するため」
というものだった。
だが、その文言自体がすでに、葵にはぬるく感じられた。
深刻な人間関係トラブル。
それは、いじめという言葉を避けた言い換えだった。
加害と被害のある出来事を、あえて“双方の関係”の問題へ薄める言い方だった。
それでも伊達家は行くしかなかった。
理人本人はもちろん来ない。
もうそんな場所へ座らせるべきではない。
会議室へ入る前から、健斗の顔は固かった。
葵も無言だった。
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会議室には、すでに何人もの保護者が集まっていた。
神谷の母。
江口の父。
水田の母。
そして名前が表に出ていない子どもたちの保護者たちもいる。
顔ぶれを見ただけで、空気は分かった。
謝りに来た空気ではない。
自分の子どもを守りに来た顔だった。
前の席には校長の安西誠也、教頭、高石、学年主任が並ぶ。
テーブルには資料。
マイクはないが、校長が“説明”する側の位置に座っている時点で、この場がもう半ば形式の場であることは伝わってきた。
安西が立ち上がり、いつもの落ち着いた口調で話し始める。
「本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。本校六年一組において、児童間で重大な事案が確認され、現在、学校として事実確認と対応を進めております」
その話し方は丁寧だった。
しかし、どこか最後まで他人事のにおいが抜けなかった。
「現段階では、特定児童による不適切な言動、SNS上の書き込み、ならびに教室内での不安定な人間関係が認められております。学校としては、今後、全児童の安心安全を第一に――」
そこで、江口の父がいきなり口を挟んだ。
「ちょっと待ってください」
会議室の空気が止まる。
江口の父は、最初から腕を組んだままだった。
そのまま身を乗り出して言う。
「“特定児童による不適切な言動”って、要するにうちの子らが悪いって話ですよね?」
安西が慎重に言葉を選ぶ。
「現時点では、関与が疑われる児童が複数おり――」
「うちの駿が悪者にされた、ってことじゃないですか」
その声は、もはや確認ではなく怒気を含んでいた。
すぐに別の保護者も続く。
「うちの子が、そんなことに加担するわけないんですけど」
「そうですよ」
「証拠って言っても、音声だけでしょ?」
「誰が何を言ったか、はっきり特定できるんですか?」
ざわめきが一気に広がる。
教頭が「皆さん、順番に」と制そうとするが、もう遅い。
「うちの子は何か言ったわけでも、危害を加えたわけでもないのに、なんで加害者に認定されなきゃならないんですか!」
「SNSだって、見てただけかもしれないじゃないですか!」
「子ども同士の話を、こんな大げさにして……」
怒号に近い声が飛ぶ。
そのどれもが、
理人に何が起きたかより、
“自分の子が加害者と見られること”
の方を重く扱っていた。
健斗は黙っていた。
だが、その黙り方は限界に近づいていた。
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安西は何とか場を整えようとした。
「決して、現段階で断定的に決めつけているわけではありません」
「学校としても、慎重に――」
また、その言葉だった。
慎重に。
断定ではない。
対応を進める。
責任の輪郭をぼかす言葉ばかりが並ぶ。
葵は、そこで初めて口を開いた。
「断定されるのが怖いんですか」
その一言で、会議室がぴたりと静まる。
葵は席に座ったまま、まっすぐ前を見ていた。
「うちの子は、学校を思い出すだけで息ができなくなります」
「……」
「好きだったものに手を伸ばせなくなりました」
「……」
「机に“きえろ”と書かれ、写真に写れず、ご飯もまともに食べさせてもらえず、服で隠れる場所に青あざを作って帰ってくるんです」
その一つ一つが、空気を重くしていく。
「それでも今ここで皆さんが一番大きな声で守ろうとしているのは、うちの子ではなく、“自分の子が悪者にされること”なんですね」
神谷の母が眉をひそめる。
「それは少し違います。私たちだって、もし本当に傷つけた部分があるなら――」
「“もし”じゃないです」
葵は即座に返した。
「もう“もし”ではないところまで来ています」
神谷の母の顔が一瞬こわばる。
だが今度は、水田の母が口を挟んだ。
「でもお母さま、それではあまりにも一方的ではありませんか。うちの子たちはまだ小学生です。未熟な部分もあるし、軽率な発言もあるかもしれない。でも、それを全部“大人の理屈”で悪意だと決めつけてしまったら――」
健斗がそこで、ついに顔を上げた。
「軽率?」
低い声だった。
「“お前がいなくなったらみんな幸せ”が、軽率ですか」
「……」
「“消えろ”が、軽率ですか」
「……」
「服の下に青あざを作るようなことが、未熟さで済むんですか」
その声は怒鳴ってはいない。
だが抑え込んだ怒りが、会議室の空気そのものを押していた。
「私たちの息子を、何だと思っているんですか」
健斗のその言葉は、前の面談のときよりさらに重かった。
「一人の子どもです。感情があって、痛みがあって、怖さがあって、家に帰ってやっと息をしている子です」
「……」
「それをここまで追い詰めておいて、“うちの子は悪くない”“大人が騒いでいるだけ”って、よくそんなことが言えますね」
その一言のあと、会議室には重たい沈黙が落ちた。
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だが、それでも謝罪は出てこなかった。
誰も、
「うちの子が傷つけました」
とは言わない。
せいぜい、
「事実確認をした上で必要があれば指導します」
とか、
「誤解を招いたなら遺憾です」
とか、
そういう言葉ばかりが並ぶ。
謝らない。
責任を引き受けない。
でも、加害者と見られることだけは拒絶する。
それが、この場に集まった大人たちの共通した姿勢だった。
安西校長も、その空気を本気で壊そうとはしなかった。
「学校としては、今後も丁寧な対話を重ね――」
「対話じゃ足りないでしょう」
葵が言う。
「もう、ここまで来てるんです」
安西は少しだけ言葉に詰まった。
だが最終的には、また同じ場所へ戻る。
「まずは冷静に」
「感情的にならず」
「慎重な確認を」
謝らない大人たちの言葉は、驚くほど似ていた。
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その場で、理人の親だけが被害の現実を言葉にし続けた。
葵は、理人がもう空を見上げなくなったことを話した。
健斗は、夜の風呂で見た脇腹の青あざを話した。
美羽が兄の教室で見たものも伝えた。
過呼吸で玄関に座り込んだ朝のことも、隠さず話した。
そのたびに、会議室のどこかで誰かが視線を逸らす。
でも、逸らしたところで理人の現実は消えない。
それを消させないために、二人は言葉をやめなかった。
健斗は最後に、机の上のパソコンへ手を置いて言った。
「音声データは、必要に応じて学校外にも提出します」
その言葉に、何人かの保護者が明らかに反応した。
「学校外って、どういう意味ですか」
神谷の母が聞く。
「必要なら、弁護士にも出します」
健斗ははっきり答えた。
「もう“学校の中だけの話”で終わらせるつもりはありません」
その瞬間、初めて加害者側保護者の表情に別の種類の緊張が走った。
自分の子が悪者に見られることは嫌だ。
でも、法的な外の目が入るのはもっと困る。
その計算が、顔に出ていた。
葵はその顔を見て、改めて思った。
結局この人たちは、最後まで理人ではなく、自分の側を守ることしか考えていない。
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保護者会が終わっても、何かが解決したわけではなかった。
むしろ、学校側の限界と、加害者側保護者の本音がはっきりしただけだった。
伊達家にとって、それは絶望でもあり、同時に覚悟でもあった。
もう、この人たちの“良識”を待ってはいけない。
守らなければならないのは理人であって、
学校の体面でも、
他の保護者の気分でもない。
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家へ戻ると、理人はリビングのソファで膝を抱えるように座っていた。
会議がどうなったのか、聞きたそうにしている。
でも、聞くのも怖い。
その迷いが、表情に出ていた。
葵は少しだけ間を置いてから言った。
「謝る人は、ほとんどおらんかった」
理人の目が、少しだけ揺れる。
やっぱり。
そう思ったのかもしれない。
「でも」
健斗が続ける。
「俺たちはもう、引かない」
理人は何も言わなかった。
ただ、その言葉だけを静かに受け取っていた。
謝らない大人たちの声は、まだどこか胸に残る。
でも、それ以上に、
父と母が被害を言葉にし続けてくれたことも、
理人の中へ確かに残っていた。
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その夜、理人は布団の中で天井を見ながら思っていた。
子どもたちだけじゃない。
大人まで、自分を“なかったこと”にしようとするのかもしれない。
その事実は重かった。
でも同時に、
父と母だけは、
自分を消さないでいてくれる。
それだけが、今の理人にとってはかろうじて世界とつながる糸だった。




