消えたい、という言葉
第22話 消えたい、という言葉
夜になると、理人はときどき、自分がどこにいるのか分からなくなることがあった。
家の中にいる。
布団もある。
母も父も、美羽もいる。
それは分かる。
でも、心だけがいつまでも、あの教室のどこかに置き去りにされているみたいだった。
机の前。
給食の輪の外側。
遠足の写真の端。
廊下の壁際。
ランドセルの中に残った音。
どれももう終わったはずの場面なのに、夜になるとまた戻ってくる。
そして理人は、そのたびに、答えのない問いの中をさまよっていた。
なんで。
俺が何をしたの。
何がそんなにいけなかったの。
静かな部屋の中で、その言葉だけがぐるぐる回る。
アレルギー性鼻炎を持って生まれた俺が悪いのか。
人より少しおとなしいのが悪いのか。
星が好きなのが悪いのか。
鉄道が好きなのが悪いのか。
父さんの仕事を誇りに思ったのが悪いのか。
母さんの働く店が好きなのが悪いのか。
答えはどこにもない。
でも頭の中では、ずっと探してしまう。
もし理由が分かれば、直せるかもしれない。
もし自分に原因があるなら、そこを変えれば終わるかもしれない。
そんなふうに考えてしまうこと自体が、もう深く傷ついている証拠だった。
その日の夕方、理人は自分の部屋の床に座り込んでいた。
机に向かう気力はない。
本を開く気もしない。
天井を見ても、何も考えがまとまらない。
窓の外はまだ明るい。
西日がカーテンの端を赤く染めている。
その光を見ながら、理人はぽつりとつぶやいた。
「……消えたい」
自分でも、はっとした。
大きな声じゃなかった。
誰かに聞かせようとしたわけでもない。
ただ胸の奥から、こぼれ落ちるみたいに出てきた言葉だった。
消えたい。
死にたい、とまではまだ言えない。
でも、いなくなりたい。
ここから消えてしまいたい。
誰の視線にも触れないところへ行きたい。
そういう感情が、ついに言葉の形を取ってしまった。
理人はすぐに両手で顔を覆った。
こんなこと、思っちゃだめだ。
母さんも父さんもいるのに。
美羽もいるのに。
そう思うのに、胸の奥の暗さは消えない。
そのとき、部屋のドアが軽く鳴った。
「理人?」
葵だった。
返事が少し遅れた。
その沈黙だけで、葵は何かを感じたのだろう。
「入るよ」
ドアが開く。
葵は部屋へ入った瞬間、床に座り込んだ理人の様子を見て、空気の違いを感じ取った。いつもの沈んだ感じとはまた違う、もっと深いところへ落ちかけている気配。
「どうしたの」
理人は首を振る。
でも、顔を上げられない。
葵は無理に近づきすぎず、少し離れたところへ座った。
「理人」
その呼びかけに、理人の肩が震えた。
「……なんで」
やっと出てきた声は、かすれていた。
「なんで俺なの」
葵は何も言わずに待つ。
「俺が何したの」
「……」
「なんで、こんなんなるの」
理人の声が少しずつ崩れていく。
「鼻炎あるの、俺が悪いの?」
「……」
「生まれつきそうだっただけなのに」
「……」
「それも気持ち悪いって言われて、汚いって言われて、いなくなればいいって言われて……」
そこで言葉が切れた。
葵の目の奥が熱くなる。
だが泣くのはまだ違うと思った。
今はただ、理人の言葉を落とさず受け止めることの方が先だった。
「……答えなんか、ないんよね」
理人が小さく言う。
「どれだけ考えても、ないのに」
「……」
「なのに、ずっと探してしまう」
彷徨うみたいな声だった。
理人は今、自分を責める理由を探している。
理由がないと、この痛みをどこにも置けないからだ。
そのことが葵には分かった。
「理人」
葵は静かに言う。
「それは、理人が悪いんじゃない」
理人は顔を上げなかった。
でも、その言葉を否定もしなかった。
「鼻炎も、好きなものも、性格も、何一つ悪くない」
「……」
「悪いのは、それを傷つける側や」
その言葉に、理人の肩がまた小さく揺れる。
でも、すぐに楽になれるわけじゃない。
そう言われてもなお、胸の中の暗さは消えない。
それが、今の理人の現実だった。
その夜、健斗と葵は理人の様子を見ながら、本気で“命の危険”という言葉を意識し始めていた。
今までは、
学校の問題。
いじめ。
不登校の危機。
そういう言葉で考えていた。
でももう違う。
これは、理人が生きていられるかどうかの問題だ。
健斗は夕食のあと、リビングで低く言った。
「……しばらく一人にせん方がいいな」
葵もうなずく。
「うん」
その“うん”には、重さがあった。
学校へ戻すかどうかの話ではない。
勉強が遅れるかどうかでもない。
今はもう、理人の命をまず守らないといけない。
物語の軸が、家族の中で確かに変わった瞬間だった。
そんな夜、一本の電話が入った。
長野からだった。
祖父母の家の固定電話からで、最初は祖母の声が聞こえた。いつもの飯山のやわらかい方言が受話器の向こうにあって、それだけで家の空気が少し変わる。
「理人、おるかい?」
葵が一瞬理人を見た。
理人は少し迷ったあと、小さくうなずいた。
受話器を受け取る。
「……もしもし」
「理人かえ」
祖母の声は、あたたかく、少し心配そうだった。
「久しぶりやなあ」
「……うん」
その向こうで、今度は別の声がした。
「理人?」
女の子の声だった。
飯山の祖父母の家の近くに住む、秋生光。
中学一年生。
小さいころから何度か顔を合わせている子で、長野へ行ったときにはよく一緒に遊んだ。理人にとっては、従姉妹でもないし、特別近い親戚というわけでもない。でも、不思議と昔から距離の近い存在だった。
「光……?」
「うん。なんか、理人の声聞きたくなったから」
その言い方が、いかにも光らしかった。
「ばあちゃんに頼んで代わってもろた」
久しぶりに聞く、飯山の方言まじりの声。
それだけで、理人の胸の奥が急に熱くなった。
「……そっか」
「どうしたんさ、声元気ねえな」
光は飾らずに言う。
「なんかあった?」
その一言で、理人の中に張っていたものが急にゆるんだ。
長野の言葉。
飯山の空気を思い出す声。
昔、一緒に雪の中を走ったり、夜空を見たりした記憶。
それが一気によみがえってきて、
理人の目から涙があふれた。
「……理人?」
光の声が少しだけ真剣になる。
理人は答えようとした。
でも、言葉になる前に涙が止まらなくなる。
「……ごめん」
「謝らんでいい」
光はすぐに言った。
「泣きたかったら泣け」
その言い方があまりにもまっすぐで、
理人は余計に涙が止まらなくなった。
光は急かさなかった。
ただ受話器の向こうで、黙って待っていた。
その沈黙は、学校の教室の沈黙とはまるで違った。
責めるための沈黙ではなく、
話せるまでそのままでいていいという沈黙だった。
理人はやっと、少しずつ話し始めた。
学校で言われたこと。
机のこと。
写真のこと。
鼻炎のことまで笑われたこと。
消えろと言われたこと。
いなくなればみんな幸せだと言われたこと。
全部はうまくつながらなかった。
途中で何度も詰まった。
それでも光は一度も遮らず、黙って聞いていた。
長い間を置いてから、光が低く言った。
「……そんなやつ」
声が少し変わる。
いつもの明るさではなく、底の方に熱を持った声だった。
「私がぶっ飛ばしてやる」
理人は涙のあいだから、思わず少しだけ息を漏らした。
笑いとも、驚きともつかない音だった。
「ほんとに」
光は続ける。
「今日もスパーリングしてきたし。男子に混じってやったけど、けっこう当てた」
「……またボクシング?」
「うん。めっちゃおもろい」
光の声に、少しだけいつもの勢いが戻る。
「理人にひどいことするやつなんて、リング上おったら一発や」
その物騒さに、理人は本当に少しだけ笑ってしまった。
「……そんな簡単じゃないって」
「分かっとる」
光はすぐに返す。
「でも、少なくとも理人が悪いんじゃない」
「……」
「そこだけは、絶対違う」
その言葉は、葵が言ったときとも、父が言ったときともまた少し違う響きだった。
同じ年頃に近い、でも別の土地で生きている光が、
迷いなくそう言い切る。
それが理人の胸に、深く落ちた。
電話のあと、理人はしばらく受話器を持ったまま動けなかった。
涙で顔はぐしゃぐしゃだった。
でも、さっきまでより少しだけ呼吸が深い。
「……ありがとう」
と理人が言うと、
光は少し照れたように笑った。
「また電話する」
「うん」
「次は星の話しよ」
「……うん」
受話器が切れたあとも、飯山の方言が耳に残っていた。
遠い場所の声。
でも、その遠さがむしろ救いになることがある。
横須賀の教室では、もう何を見ても苦しくなる。
でも、長野の飯山の声は、理人の中にまだ残っている別の世界を思い出させてくれた。
その夜、理人は久しぶりに窓を少しだけ開けた。
空は見えなかった。
でも、夜の空気が入ってくる。
消えたい。
たしかにそう思った。
今もその暗さは完全には消えていない。
でも、光の声を聞いて、
自分が全部消えてしまったわけではないとも感じた。
話を聞いてくれる人がいる。
怒ってくれる人がいる。
味方だと言ってくれる人がいる。
それだけで、今すぐ楽になるわけじゃない。
でも、深い穴の底で、ほんの少しだけ足場に触れた気がした。




