帰り道は、もう安全じゃない
第23話 帰り道は、もう日常じゃない
学校を出たあとまで、緊張が続くようになっていた。
前までは違った。
教室がつらくても、校門を出れば少しだけ空気が変わった。
制服のない小学生の帰り道には、ランドセルの重みと一緒に、どこか“終わった”感じがあった。家までの道は、自分のものだった。駅前を通る音も、海からくる風も、夕方の空の色も、教室の空気とは別の世界のものだった。
けれど今は、そうではない。
校門を出ても、後ろに誰かの気配がある気がする。
曲がり角の向こうに、また誰かいるんじゃないかと思う。
帰り道そのものが、次に何が起きるか分からない場所へ変わってしまった。
家の外に出る限り、もう安心はない。
理人の中では、そんな感覚が少しずつ強まっていた。
⸻
その日、理人は学校を休んでいた。
まだ朝の過呼吸の余韻が残っている。
前日の夜に少し眠れたとしても、学校へ行くことを考えるとまた胸がざわついた。
葵は買い物へ出るのも最小限にし、理人をできるだけ一人にしないようにしていた。健斗も仕事を早めに切り上げる日が増えている。美羽は家へ帰ると、兄の顔をまず見るようになった。
家だけが、かろうじて呼吸できる場所だった。
そんな夕方だった。
外から、子どもの笑い声が聞こえた。
最初は、近所の子が通っただけかと思った。
だが、その笑いは家の前を通り過ぎず、わざと足を止めるように続いている。
「ここじゃね?」
「え、マジ?」
「なんか陰気くさー」
その声を聞いた瞬間、理人の体が強ばった。
知っている声だった。
獅童。
江口。
水田。
窓の外、通りの向こう側から聞こえてくるその笑い声だけで、理人の喉がひゅっと細くなる。
どうしてここに来るんだ。
学校の外まで。
わざわざ寄り道してまで。
理人はソファから立ち上がれず、そのまま息をひそめた。
葵もすぐに音で気づき、窓際へ寄ろうとしたが、その前に健斗が立った。
健斗はその日、たまたま少し早く帰宅していた。
ネクタイを外したばかりで、まだシャツ姿のままだったが、声を聞いた瞬間に表情が変わった。
「……ちょっと待ってろ」
低く言い残して、玄関へ向かう。
理人は思わず声を出した。
「父さん、だめ……」
でも健斗は止まらなかった。
むしろ、ここで出なければならないと決めた顔だった。
⸻
玄関を開けると、夕方の湿った空気の中に、三人の姿があった。
獅童、江口、水田。
ランドセルを背負ったまま、伊達家の前の道で立ち止まり、わざとらしく辺りを見回していた。家の前で大声を出すほどではない。けれど、そこにいること自体が十分すぎる圧力だった。
「おい」
健斗の低い声に、三人の肩が一斉に揺れた。
まさか親が出てくるとは思っていなかったのだろう。
獅童が一歩引き、江口が視線を泳がせる。
水田だけがとっさに平静を装おうとしたが、その顔も固い。
健斗は玄関先から一歩出て、三人をまっすぐ見た。
「何の用だ?」
その問いは短かった。
だが、逃げ場のない声だった。
三人は一瞬、誰も答えられなかった。
やがて獅童が、しどろもどろになりながら言う。
「いや……その」
「……」
「理人くんが、どうしてるかなって」
その言葉を聞いた瞬間、健斗の顔から最後の温度が消えた。
「ふざけんな」
その一言で、空気が震えた。
三人とも、びくっとする。
健斗はさらに一歩前へ出た。
「理人を心配して来たんじゃないだろうが」
「……」
「いじめに来たんだろうが」
獅童の口が開く。
だが何も出てこない。
健斗の声は怒鳴り散らすというより、押し殺した怒りそのものだった。
「学校の中だけで足りなくて、家まで来るのか」
「ち、違っ……」
江口がかすかに言いかける。
だが健斗は容赦しなかった。
「違わない」
「……」
「理人は今、学校を思い出すだけで息ができなくなるところまで来てる」
「……」
「それでもまだ、追い込むのか」
三人は完全に言葉を失っていた。
親に見つかった、ではなく、
自分たちがやっていることを、親が全部知っていると悟った顔だった。
健斗は指を通りの向こうへ向けた。
「二度と来るな」
その声には、一切の揺らぎがなかった。
「学校の中でも、外でも、うちの息子に近づくな」
「……」
「次に同じことをしたら、もう“子どものこと”では済まさん」
それは脅しではなかった。
事実としての宣告だった。
獅童はごく小さく息をのんだ。
江口は目を逸らし、水田は唇を引き結んだまま動けない。
健斗はもう一度、はっきりと言った。
「帰れ」
その一言で、三人はようやく弾かれたように動いた。
「……っす」
ともつかない声を漏らしながら、半ば逃げるように角を曲がっていく。
さっきまでの笑い声はどこにもなかった。
残ったのは、夕方の静けさだけだった。
⸻
健斗が家へ戻ると、リビングの空気は張りつめたままだった。
理人はソファで固まったように座っている。
美羽は兄の近くにいて、何も言えずにいる。
葵は玄関の方を見たまま、まだ息を整えていた。
「……もう大丈夫だ」
健斗が言う。
その言葉で、理人の肩が少しだけ落ちた。
だが、すぐに別の感情が押し寄せる。
家まで来た。
学校の外まで来た。
自分がいない場所でも、もう狙われる。
それは、今まで感じていた不安を決定的なものに変えた。
「ごめん」
理人が小さく言った。
健斗がすぐに振り向く。
「なんで謝る」
「……俺のせいで」
「違う」
健斗はきっぱり言った。
「悪いのは、ここまで来たあいつらだ」
その言葉に、理人は黙る。
分かっているつもりでも、どうしても“自分がいなければ”という感覚が消えない。
でも今は、それを否定する声が家の中にちゃんとある。
それだけが、かろうじて理人をつなぎとめていた。
⸻
その夜、葵は窓の鍵をいつもより強く確かめた。
カーテンもきっちり閉める。
何度も確認しなくてもいいはずなのに、気持ちが落ち着かなかった。
「ここまで来るなんて……」
ぽつりと漏らす。
健斗はダイニングの椅子に座ったまま、低く答えた。
「学校の中だけじゃ済まなくなってる」
それが現実だった。
理人にとって、家の外全体が危険になり始めている。
教室だけではない。
帰り道も、家の近くも、もう安心の領域ではない。
だから逆に、
家の中だけがますます大事になる。
ここを守らなければ、本当に理人は行き場を失う。
伊達家の中で、その思いはさらに強くなっていった。
⸻
夜、美羽は布団へ入る前に理人の部屋の前で立ち止まった。
「お兄ちゃん」
中から「ん」と小さな声がする。
「さっきの、怖かった?」
少し間があった。
それから、理人が答える。
「……うん」
正直な答えだった。
「でも」
美羽は続ける。
「お父さん、かっこよかったね」
その言葉に、部屋の中で少しだけ空気がゆるんだ気がした。
理人はベッドの上で天井を見ながら、小さく息をつく。
「……うん」
本当に少しだけだったが、その返事にはさっきより力があった。
怖い。
でも、家まで来た相手を追い返した父の姿も、確かに理人の中へ残っていた。
⸻
その夜、理人はカーテンの隙間から外を見ることができなかった。
家の前の道を見るのが怖かった。
また誰かいるんじゃないかと思うだけで、胸がざわつく。
帰り道は、もう日常じゃない。
学校から家へ帰るまでの道も、
家の外の風景も、
ただの景色ではなくなった。
安全ではないと知ってしまった以上、
そこはもう前のようには戻らない。
だからこそ、理人の中で家庭の重みが増していく。
家の中だけが息をつける。
家の中だけが、まだ“消えなくていい場所”として残っている。
そのことが、今の理人にとってはほとんど唯一の命綱だった。




