第5話 スパイはどこ?
---
「目標はここだ」
ヴェルナーは万年筆で地図を軽く二度叩いた。
地図を二人のほうへ向け、街の南西部にあるいくつかの通りをペン先でたどり、最後に小さな一角を丸で囲む。
フーティアは少し身を乗り出した。
丸の中には路地がびっしりと入り組んでいて、見ているだけで方向がわからなくなってきた。
「軍営から遠くないわね」
「上からの情報では、最近この辺りで身元不明の者が頻繁に目撃されている。上層部は、敵国の諜報員が一般住民を隠れみのにして、この一帯で秘密裏に活動していると疑っている――そのため、近く掃討作戦が行われることになっている」
フーティナは地図に目を落とした。
「私たちに何を調べてほしいのですか?」
「その情報に根拠があるのか、確かめてほしい」
ヴェルナーは万年筆を机に戻した。
「そして、不審な者がいるかどうか。それだけだ」
「捕まえる必要は?」
「ない」
すかさずフーティアがつけ加えた。
「私たちが代わりに建物に入ったり、書類を盗み出したりする必要もないんですね?」
ヴェルナーは首を横に振る。
「拘束や捜索は私の兵士が行う。そこまで君たちに任せるほど、厚かましくはないよ」
隣に座るフーティアは、思わずこっそりとうなずいた。
『フーティナ、私、ますますヴェルナーさんを尊敬しちゃう』
『あなたは少し優しくされると、すぐそうなるのね』
フーティアは、ヴェルナーが差し出した地図をちらりと見た。
――少なくとも、この人は最初からずっと、行くかどうかを自分たちに決めさせてくれている。
『今回はちゃんと理由があるんだからね?』
ヴェルナーは二人の声のない言い争いには気づかず、地図を折り目に沿って畳み直し、フーティナの前へ滑らせた。
「もう一つ」
彼は目を上げた。
「もし本当に危険があるとわかったら、すぐに戻ってきてくれ」
---
「……それで」
フーティアは低い塀の陰にしゃがみ込み、地図を横にした。それから、さらに九十度回す。
古い折り目に沿って紙の角が浮き上がり、たった今ここだと見当をつけた通りを、ちょうど隠してしまった。
手で押さえ、もう一度見直す。
「私たち、今どこにいるの?」
フーティナは彼女を見て、それから、回しすぎてすっかり方角のわからなくなった地図を見た。
「貸して」
「待って、もうすぐわかるから」
「さっきもそう言ってたわ」
「地図っていうのは、いろんな角度から見てこそ真実がわかるものなの」
「真実は、上下逆ってことよ」
フーティアは目を落とした。右下の文字が、確かに全部ひっくり返っていた。
「……フーティナを試しただけだよ」
それでも、地図の角は押さえたままだった。
フーティナが手を差し出して、ようやく渋々手を離す。
「もう結構。合格したから」
フーティナは地図を抜き取り、広げ直した。
二人が今隠れているのは、廃倉庫の裏手だ。
この先、通りを二つ越えれば、ヴェルナーが丸で囲んだ区域に入る。
フーティアは塀の陰から顔をのぞかせた。
通りでは洗濯物を干している人もいれば、木の看板を運んでいる人もいる。子供が一人、子犬を追いかけて交差点を駆け抜けていった。
もう少し遠くにも目を向ける。
黒ずくめの人は? 固く閉ざされた窓は?
せめて、怪しげな箱を提げて、数歩ごとに振り返る人くらいはいてもいいんじゃない?
「……スパイは?」
「さあ」
「ものすごく上手に紛れ込んでるのかも?」
「そうかもしれないわね」
フーティアは、通りで腰をかがめてリンゴを拾っているおばあさんを、数秒じっと見つめた。
『本当にすごいスパイは、誰から見ても普通に見えるものだからね』
『何もしていない人を犯人にしないで』
また一つ、リンゴが籠の縁から転がり落ちる。
おばあさんは膝に手をついてゆっくりと腰を伸ばし、転がったリンゴを見てため息をついた。
フーティアは塀の上から手を離した。
……でも、とりあえずリンゴを拾ってあげよう。
しばらくして、二人は塀の陰に戻り、またおとなしく身を縮めていた。
「フーティナ、これからどうする?」
フーティナは地図を畳んだ。
交差点に、さっきの子犬が戻ってきた。今度は、息を切らした子供が二人、そのあとを追っている。
「まずは一回りするわよ」
子供たちが通り過ぎるのを待ってから、塀の陰を出た。
「軍がわざわざ『掃討』するだけの理由が、ここにあるのか見てみるわ」
---
二人は通りの端を歩いていった。
家の前に置かれた木箱や鉢植えが、道幅をずいぶん狭めている。フーティアは石段に寝そべる猫をよけ、それから買い物籠を提げた婦人に道を譲ろうと体を横にした。
パンの香りが石炭の煙に混じって漂ってくる。
匂いにつられて顔を向け、危うく道の真ん中の轍に足を突っ込むところだった。
すれ違う人のほとんどが、思わずといった様子で、二人を何度か見ていく。
道端に立ち止まり、そっくりな二人の白髪の少女を、顔を上げてじっと見つめる子供もいた。
買い物籠を提げた婦人たちは、すれ違ったあとも振り返り、小声で何かを話している。
店先から愛想よくうなずいてくれる店主もいて、どうやら、初めてここを訪れたよそ者だとすぐに見当をつけたらしかった。
フーティアは少しも気にしていなかった。それどころか、ちょっと得意なくらいだった。
また一人、通行人が振り返った。
フーティアはさりげなく肩の前の白い髪を整える。さっきまで少し肩を落としていたのに、今は背筋までぴんと伸びていた。
『やっぱり美少女は、どこに行っても注目の的なのね』
『そっくりな二人がいるから見てるだけよ』
髪を整えていたフーティアの手が、一瞬止まった。
『夢を壊さないで』
『事実を守っているだけよ』
二人はさらに少し歩いた。
街角では誰かが木の扉を修理していて、金槌の音がかんかんと響いていた。
一方、年寄りが軒下に座って豆のさやをむきながら、隣の家の人に愚痴をこぼしている。
「昨日、また小麦粉が一割も高くなってね」
「じゃあ、明日は?」
棒切れを抱えた子供が近寄ってくる。
年寄りはむいた豆を器の中へ寄せた。
「あっちで遊んでおいで。大人が話してるんだから」
子供たちが何人か、棒切れを手に追いかけっこをしていた。一人が勢い余ってフーティアにぶつかりそうになり、母親にぐいと引き戻された。
「ごめんなさいね、お嬢さん」
「いえいえ、大丈夫です」
フーティアは子供に手を振り、ぶつかってはいないと示した。
二歩ほど進んでから、もう一度振り返る。
その子はもう棒切れを振り上げて遠くへ走っていた。母親はまだその場に立ち、片手はさっき子供を引き戻したときのままだった。
……本当に足が速い。
さっき私にぶつかりそうになったときは、曲がることもできなかったくせに。




