第20話 それでも、助けてくれたよ
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フーティアはカップを持ち上げ、唇に当てて初めて、中がもう空だと気づいた。
カップを戻すと、底が受け皿の中央からずれた位置に当たり、かちりと小さな音がする。
「フーティナ……」
『こっちで話して』
向かいに座るフーティナの視線は、まだ窓の外に向いていた。
通りはがらんとしている。
『あの人たちはもう出ていったんだから、掃討はしなくていいんじゃないの?』
『まず、軍がそれを知らないとね』
『じゃあ、ヴェルナーさんに伝えれば――』
『相手に信じる気がないと』
フーティアは少し前へ身を乗り出したまま、動きを止めた。
『そもそも、軍にとっては、あの人たちがスパイかどうかなんてどうでもいいとしたら? スパイの隠匿、敵との内通への加担、敵国の思想の浸透……その気になれば、ここを掃討する理由はほかにもいくらでもある』
『でも……』
『フーティア』
『うん?』
フーティナはようやく窓から視線を戻した。
椅子の背にかかっていた服を体の脇へ寄せ、テーブルの縁に手をついた。
『行こう』
フーティアはその動きを見つめ、すぐには意味がわからなかった。
『軍営に戻るの?』
『スティグマを離れる』
「そんなのだめだよ!」
思わず声が飛び出した。
フーティナの動きが止まり、フーティアも慌てて奥の部屋を見る。
ちょうど、奥の水音が止んだ。
息を詰めてしばらく待ったが、聞こえたのはヨーゼフがポットを置く音だけだった。
向き直ったときには、膝の上のスカートを握りしめていた。
『ヨーゼフさんやアリス、それにここに住んでる人たちはどうなるの?』
『あの人たちはスティグマの人よ』
フーティナはテーブルの縁に手をついたまま、立ち上がらずにいた。
『これはスティグマの問題なの』
『でも、私たちはもう知ってるんだよ』
『知っているからといって、私たちに解決できるとは限らない』
フーティアは下唇を噛んだ。
さっき言おうとしていたことが頭の中でひしめき合い、かえって一言も出てこない。
うつむくと、テーブルの隅の飴が目に入った。もう一度、顔を上げる。
『ヴェルナーさんは?』
『彼もスティグマの軍人』
『でも、調べる気はあるんだよ』
『だから?』
フーティナは目をそらさなかった。
『私たちが何もかも話したとして、彼は上官に逆らえるの? 軍全体を止められるの?』
フーティアは口を開いた。
今朝、扉の前でヴェルナーが口にした言葉が、再び頭に浮かんだ。
あの弾薬箱も、彼が差し出した命令書も覚えている。
握りしめたスカートには、細かなしわが幾重にも寄っていた。
フーティナは少し待ってから、言葉を続けた。
『あの人たちはもう別の場所へ移った。私たちが今ここを離れれば、少なくとも、これ以上事態を複雑にせずに済む』
『でも、私はそうしたくない』
テーブルの縁にかけたフーティナの指に、一瞬力が入った。
『……』
『せめて、ヴェルナーさんには伝えなきゃ』
フーティアはスカートから手を離し、テーブルの上に置いた。
もう、うつむかなかった。
『あの人たちが何をしてるのか、調べてほしいって頼まれたんだよ。少なくとも、今朝よりはわかってることが少し増えたんだよ』
『伝えたとしても、彼が何かを変えられるとは限らない』
『でも、伝えなかったら、そのことさえ知らないままだよ』
今度は、フーティナもすぐには答えなかった。
奥の部屋から、茶器の触れ合うかすかな音が聞こえた。
フーティアは返事を待ち、その音も途絶えてから、もう少し前に座り直した。
『伝えてもどうにもならなかったら……そのときは、別の方法を考えようよ』
『別の方法?』
『たとえば、ここの人たちがここを離れるのを手伝うとか』
『この地区の全員を?』
『助けられるだけ、助ければいいよ』
フーティナはテーブルの縁に置いていた手を下ろした。
姿勢を正し、先ほどよりも深く眉を寄せる。
『一度会っただけの人たちでしょう。彼らのために何かする必要はないわ――まして、スティグマ軍を敵に回してまで』
フーティアはテーブルの上で拳を握る。
しばらくフーティナを見つめてから、ふいに手を伸ばし、テーブルの脇に下がっていた袖口をつかんだ。
『でも、初めて私に会ったときだって、私たちは知り合いでも何でもなかったでしょ』
フーティナはその手から彼女へと視線を移した。
『それでも、助けてくれたよ』
『あれは違うわ』
『どこが違うの?』
フーティアはそう尋ね、彼女を見つめて答えを待った。
袖口をつかむ手に力は入っていなかったが、離すこともなかった。
フーティナは唇をわずかに動かしたが、結局はきゅっと結んだ。
『どうせ無駄だって、何もしなかったら……これから誰に会っても、それで済ませられちゃうよね?』
『屁理屈よ……』
『そうかも』
フーティアは少しだけ口元を緩めた。
『でも、やっぱりやってみたい』
フーティナは目を伏せ、自分の袖口を見つめる。
フーティアは急かさなかった。
テーブル越しに手を伸ばし、体も前に傾いている。肩の前に落ちた白い髪が、受け皿に触れそうになっていた。
しばらくして、フーティナが先に手を伸ばし、受け皿を少し遠ざけた。
『まずは、ヴェルナーさんに伝えに行きましょう』
『本当?』
フーティアは勢いよく背筋を伸ばし、つられて手まで持ち上げた。
袖を引かれて腕が動くと、フーティナはその袖をつかむ手に目を落とす。
『喜ぶのはまだ早いわ』
フーティアは慌てて袖を離したが、手はまだ伸ばしたままだった。
『彼に何かを変えられるとは、今も思っていないわ』
『それでも、伝えなきゃ』
フーティナはしばらく彼女を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
『……あなたの言うとおりにするわ』
フーティアの口元がほころびかけたところで、フーティナは手を伸ばし、引っ込めようとしたその手を押さえた。
『もう一つ』
『何?』
『本当に私たちが動かなければならなくなったら、あなたも私も、魔法を使うのは必要最低限にとどめる。わかった?』
フーティアの笑みが固まった。
『どうして?』
フーティナは手を離さなかった。
フーティアの手の甲を押さえる手のひらに、強い力はこもっていない。それでも、その視線はずっとフーティアの顔に向けられていた。
『軍用魔女たちは……どうやって生まれたと思う?』
フーティアの指先が、かすかに丸まった。
二人の重なった手に目を落とす。
さっきまで、ここに残りたい一心で重ねていた言葉が、ふいに途切れた。
数秒して、フーティアはもう一度フーティナを見て、うなずいた。
『わかった』
『それならいいわ』
フーティナはようやく手を離し、すっかり冷めたお茶を持ち上げる。
フーティアは手を引き、膝の上でくしゃくしゃになったスカートの裾を、ゆっくりと撫で伸ばした。
奥の部屋から、湯が沸く直前のかすかな音が聞こえていた。二人とも、すぐには口を開かなかった。
『じゃあ、まずはやるべきことを済ませましょう』




