第19話 スパイではなくて
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アリスは奥の部屋の入口まで行くと、振り返った。
「フーティアお姉ちゃん、また一緒に遊ぼうね!」
「もちろん!」
フーティアは手を振り、小さな頭が扉の向こうへ引っ込むのを見届けてから、ようやく手を下ろした。
テーブルの周りに、ぽつんと一人分の空席ができた。さっきまでアリスに引っ張られていた袖口には、まだしわが残っている。
ヨーゼフはアリスが使った小皿を下げ、テーブルの向かい側に腰を下ろした。
「すみません。今日は外に出ちゃだめだと言ったら、朝はしばらくぐずっていまして。お二人が来てくれて、すっかり機嫌がよくなりました」
「私たちも、会えてうれしかったですよ」
フーティアはテーブルの隅にある、まだ包みを開けていない飴を見て、店に入る前に打ち合わせた話を思い出した。
「実は、今日スティグマを離れるつもりなんです。それで、出発する前にお別れのご挨拶に来ようと思って」
「今日ですか?」
「はい。通りがこんなに静かだと、なんだか少し不安で……」
それを聞くと、ヨーゼフは皿をテーブルに戻した。
「早めに離れたほうがいいでしょうね。途中で見回りの者に出会ったら、なるべく言い争わないようにしてください」
フーティナがヨーゼフに目を向けた。
「アリスが言っていたのは、軍隊のことですか?」
「ええ」
「何を調べているんですか?」
「ここ数日、以前この辺りを訪れた、よそから来た人たちについて、ずっと聞き回っています。お二人も地元の方ではありませんから、何かしら聞かれるでしょう」
カップを包むフーティアの指に、少し力がこもった。
「その人たちは、何をしたんですか?」
フーティナはそう尋ねてから、付け加えた。
「話しづらければ、無理にとは言いません」
ヨーゼフはすぐには答えなかった。
フーティナも急かさず、メニューを元の位置に戻しただけだった。
奥の部屋から椅子を動かす音がして、続いてアリスが小声で問題を読み上げる声が聞こえる。
「……『ユートピア』の一員だと名乗っていました」
ヨーゼフがようやく口を開いた。
「ユートピア?」
フーティアはその名を繰り返した。
「立派な名前でしょう?」
彼の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「実際には、教師もいれば、労働者も、商売をしている人もいます。以前、通りで演説していた人がいましてね。このまま戦争を続けてはいけない、一緒に反対しようと呼びかけていたんです」
「反戦組織ですか?」
「そう言っていいでしょうね。ただ、話を聞きに集まった人が、みんな仲間に加わったわけではありません」
「ヨーゼフさんも聞きに行ったんですか?」
今度はフーティアが尋ねた。
「何度か」
ヨーゼフは膝の上のエプロンを、手のひらで撫でる。
「夫を亡くしたばかりの人も、子どもが前線に送られるのを心配している人もいました。私も聞いていて……そのとおりだと思うことはありましたよ」
フーティアは手にしたお茶を飲むのも忘れ、彼を見つめていた。
フーティナが続けて尋ねた――
「それで、軍が彼らを捜し始めたんですか?」
「そのあと、彼らは指名手配されました」
「どういう理由で?」
「詳しい罪名は、私にはわかりません。私が見たのは、彼らが通りでそういう話をしているところだけです」
ヨーゼフは少し言葉を切った。
「でも、指名手配されると、彼らはそこにいられなくなりました。住民の中には、彼らが泊まる場所を探した人もいました」
「それで、今日ここを調べに来るんですか?」
「おそらく、その件でしょう。ただ、彼らは昨夜、もうここを発ちました」
「もう離れたんですか?」
「ええ」
フーティアは肩の力を抜いたところで、また何かを思い出した。
「でも、助けてあげた人たちは、まだここにいるんですよね」
ヨーゼフはエプロンから手を離し、下ろした。
「ええ。だから今日はアリスを外に出せませんし、ほかの人たちも、なるべく戸を閉めています」
「ヨーゼフさんも……」
フーティアは言葉を止めた。
ヨーゼフが彼女を見る。
「私も、少し手を貸しました」
テーブルのお茶から、かすかに湯気が立っていた。
フーティアが言葉を見つけられずにいると、ヨーゼフのほうから口を開いた。
「ほかに誰が手を貸したのか、彼らがどこへ向かったのかは、聞かないでください。お二人は旅行に来ただけです。そんなことまで知る必要はありません」
「わかりました」
フーティナはあっさりと応じ、それ以上は尋ねなかった。
フーティアは、ヨーゼフがテーブルを片づけるときに一緒に持っていかれないよう、あの飴を手元へ寄せた。触れた包み紙が、かさりと鳴った。
「じゃあ、アリスちゃんは……」
「あの子は何も知りません。私たちも、あの子の前では話さないようにしています」
ヨーゼフは奥の部屋に耳を澄ませた。
アリスはまだ、あの算数の問題を読み上げていた。さっきより少しゆっくりと読んでいる。またどこかでつまずいているのだろう。
「アリスの父親も軍人だったんです」
「数年前、戦場で亡くなりました」
フーティアが飴の包み紙の端をつまんだところで、その指が止まる。
「母親はそのショックに耐えられず……その後、あの人もいなくなってしまいました」
フーティアは奥の部屋の扉を見た。
「でも、昨日あの子、お母さんが『飴の値段が上がった』って言ってたって……」
「手紙は、私が母親の代わりに書いているんです」
静かにそう言うと、それ以上は説明しなかった。
「普段は私たち近所の者が、交代で面倒を見ています。ただ、あの手紙で……いつまであの子に本当のことを隠しておけるのか、わかりません」
フーティアはゆっくりとうつむいた。
それ以上包みを開けず、浮き上がった端を押さえて元に戻す。
さっきまでテーブルで笑いながらクッキーを食べていた女の子の顔が、ふいにまた脳裏に浮かんだ。
『じゃあ……』
心の中で、小さくつぶやく。
『軍が言ってた「スパイ」って、ユートピアのメンバーのことなの?』
フーティナはすぐには答えなかった。
『たぶんね』
『軍の言うスパイとは、全然違うじゃない』
『少なくとも、彼の話ではそうね』
『嘘をついてると思うの?』
『そうは言ってないわ。私たちはまだ、その人たちに会っていないでしょう』
話が少し重くなってしまったことに気づいたのか、ヨーゼフは目元を拭い、立ち上がった。
「すみません」
少し笑った。
「せっかく来てくださったのに、こんな話ばかりで」
「気にしないでください」
フーティアは慌てて首を振った。
「話してくださって、ありがとうございます」
ヨーゼフは少し意外そうにした。
それから、先ほどよりも自然に微笑んだ。
「彼らは昨夜、もうここを離れています。お二人も、このあと店で厄介事に出くわす心配はありませんよ」
「はい……」
フーティアは、ほとんど無意識に安堵の息をついた。
ヨーゼフはティーポットに手を伸ばし、持ち上げて初めて、中身がほとんど残っていないことに気づいた。
「これはいけない。長々と話して、お茶のお代わりもお出しせずに」
「大丈夫です」
フーティアはカップをそっと置く。
「話してくださって、ありがとうございます」
ヨーゼフはポットの取っ手を握ったまま、少し間を置いて答えた。
「……お茶を淹れてきます」
ほどなくして、奥から再び湯を沸かす音が聞こえてきた。




