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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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鬼窟で出会う冥府の女王

蓮が目を覚ますと、自分が一枚の岩の上に横たわっていることに気づいた。その岩は黒い煙を吐いており、どう見ても清らかな場所ではない。


 周囲は真っ暗だった。遠くから水音が聞こえる。空気は湿って冷たく、息をするだけで鬼気がまとわりつきそうだった。


 蓮は怯えて岩の端へ身を寄せた。


「目が覚めた?」


 闇の中から、女の柔らかい声が聞こえた。蓮が顔を上げると、少し離れた場所で、赤い衣を着た女が竹筏の上に横たわっていた。


 彼女の周囲には淡い光が漂っている。顔には白い笑顔の面がかかっていた。その面があまりに滑稽で、彼女の陰気を少しだけ怖くなく見せている。


 だからこそ、蓮は最初の一瞬で声を失うほど怯えずに済んだ。


「ここはどこですか」


 小さく尋ねると、女は酒壺を揺らし、それを蓮へ差し出した。長い爪は鮮やかな赤に染まっている。まるでホラー映画の女鬼のようなのに、笑顔の面をつけている。その恐ろしさと滑稽さが混ざり合い、危険の程度がいっそう分かりづらかった。


「ここは冥界の鬼窟」


 女の口調はのんびりしていた。


「人間が、どうしてこんなところへ来たの」


「僕は……」


 蓮は俯いた。


「成り行きで」


 女は仰け反って笑った。その笑いは鬼窟に反響し、背筋が冷えるほどだった。


「成り行き?」


「いい成り行きね」


 蓮はそれ以上余計なことを言えなかった。酒壺を持ち、口をつける。


 酒は意外にも甘かった。喉を通ると温かく、魂までほどけるような香りがする。蓮はこんなに美味しい酒を飲んだことがなかった。


 女は面を少し押し上げ、鋭い牙を見せ、指先を舐めた。


「人間の魂はどんな味がするのかしら」


「少し味見させてくれる?」


 蓮は酒壺を落としそうになった。魂がなくなれば、存在しなくなるのと同じではないか。清司をまだ見つけていない。消えるわけにはいかない。


「だめです」


 蓮はすぐ首を振った。


「まだ、愛している人を見つけていません」


「だから、あなたに食べられるわけにはいきません」


 女の動きが止まった。


「愛している人?」


「冥府にいるのは妖と亡魂ばかりよ」


「あなたの愛しい人は、妖なの?」


 蓮は頷いた。彼の愛しい人は確かに妖だ。だがそれが何だというのか。清司が人間か妖かなど、蓮にはどうでもよかった。ただ、失いたくなかった。


「面白い」


 女は起き上がった。


「私は夜刀姫」


「あなたの名前は?」


「佐伯蓮」


「いい名ね」


 夜刀姫は水面を指で弾いた。


「ここは鬼窟。岩の上にいたほうがいいわ」


「水の中の亡者は、簡単には見逃してくれないから」


 言い終えた途端、水面から数体の悪鬼が飛び出した。彼らは竹筏の縁にしがみつき、夜刀姫に従うように伏せる。


 蓮の胸が強張った。この女はただ者ではない。


 夜刀姫の竹筏が蓮の前まで流れてくる。彼女からは強い陰気が漂っていた。奇妙なことに、蓮はその気配を不快とは思わなかった。むしろ魂が少し静まるような感じがした。


 夜刀姫は蓮の顎を持ち上げ、左右から眺めた。やがて狐のように笑う。


「陽寿はまだ尽きていないのね」


「あなたの愛した妖は、冥府まで来るほど価値があるの?」


 蓮は頷いた。清司がいないなら、生きる意味もない。清司が自ら魂核を砕いたのは自分のせいだ。朔も傷ついた。すべて自分が原因だった。


「冥府に入れば、少し迷っただけでも戻れなくなる」


 夜刀姫が問う。


「来る時、覚悟はしたの?」


「死ぬことの何が怖いんですか」


 蓮は苦笑した。


「愛する人がいないなら、生きていても意味がありません」


 彼は清司のいない生活を味わった。あの日々は、生きているほうが苦しいほどだった。


 夜刀姫は蓮の頬を撫でた。触れられた場所は冷たいのに、不思議と心地よい。彼女からは人を沈ませる奇妙な香りがした。


「いい匂いでしょう?」


 夜刀姫は艶やかに尋ねた。蓮は頷き、すぐに首を振る。


「いい匂いです」


「でも、この匂いは僕のものではありません」


 夜刀姫は一瞬固まり、すぐに大笑いした。


「小さな人間」


「あなたは本当に驚かせてくれる」


「私の香りに抗えた者などいないのに、あなたはずっと理性を保っている」


「感心したわ」


 もし蓮が惑わされていれば、とうに食べられていただろう。だが彼は耐えた。夜刀姫は、心から差し出さない者を無理に食べない。


 今回は、どういうわけか蓮を食べる気が失せた。


 この人間に冥府まで来させた妖がどんなものか、見てみたくなったのだ。


「さあ、話して」


 夜刀姫は蓮の隣に座った。


「あなたが探しているのは誰?」


「もしかしたら、手を貸せるかもしれない」


 蓮はまた酒を飲んだ。今度はその酒が少し苦く感じた。


「白銀清司です」


 夜刀姫の目に、ほんの一瞬だけ変化が走った。


「清司を知っているんですか」


 蓮はすぐに尋ねた。


 夜刀姫は笑い、首を振った。


「知っているはずがないでしょう」


「噂を聞いたことがあるだけよ」


 彼女は横を向き、蓮に表情を見せなかった。


 蓮は頷いた。清司はきっと有名なのだろう。とても強い妖だから。飛鳥も強い。けれど飛鳥は人間界で命を救い、多くの善行をしてきた。清司とは違う。


 清司は最初、朔を探すために蓮と契約した。けれど契約の時間の中で、二人はいつのまにか互いを愛するようになった。やがて清司は朔を見つけ、蓮のそばを離れた。


 本当は引き止めたかった。


 でも、自分に清司を留める資格があったのだろうか。


 蓮は自分と清司のことを、少しずつ夜刀姫へ話しはじめた。

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