黄泉兵の砂嵐
蓮が目を覚ました時、自分が飛鳥の家にいることに気づいた。見慣れない部屋なのに、恐怖を感じるものはなかった。壁には蓮の写真が飾られ、棚には蓮が広告に出た商品が置かれている。番組のグッズや雑誌の切り抜きも、大切に保存されていた。
蓮の胸に酸っぱい痛みが広がった。
自分は本当に飛鳥を傷つけているのだろう。もし清司がいなければ、この優しい大鵬鳥を好きになっていたかもしれない。けれど彼の心にはもう清司がいる。ほかの誰も入れない。
飛鳥が銀耳のスープを持って入ってきた。
「温かいうちに少し食べて」
蓮は碗を受け取り、複雑な気持ちで俯いた。
「すみません」
「僕のせいで、また迷惑をかけました」
飛鳥は笑った。
「そんな言い方をされたら、他人行儀すぎる」
「僕は気にしていない」
「でも……」
蓮が言いよどむと、飛鳥は額にかかった髪を撫でた。
「そんなに『でも』を重ねなくていい」
「君を好きなのは僕の勝手だ」
「君を助けるのも僕の選択だ」
「君が罪悪感を持つ必要はない」
「君が申し訳なく思えば思うほど、僕のほうが惨めになる」
蓮は俯いた。それでも心の中では申し訳なさが消えなかった。この件に飛鳥は本来関係ない。それでも飛鳥は気にしない。ただ蓮が幸せになってくれればいい。蓮が笑うなら、自分まで嬉しいのだ。
銀耳湯を飲み、果物を少し食べたあと、飛鳥は調合した薬を差し出した。
「これで君の生魂を抜き出す」
「朔と律が来たら、始めよう」
その時、蓮の携帯に伊織から電話が入った。伊織の声は前より少し落ち着いていた。
「蓮さん」
「芸能界をしばらく離れると決めたなら、もう一度だけ記者会見を開けませんか」
記者会見。
蓮は目を伏せた。
もし清司と自分が無事に戻れたら、蓮はまだ芸能界に戻りたかった。そこは彼の夢だった。そして清司も、彼に諦めてほしくないと願っていた。
「伊織」
「今回の離脱は、一時的なものかもしれない」
「しばらくしたら、戻るかもしれない」
電話の向こうで、伊織の声が急に明るく揺れた。
「本当ですか?」
「蓮さん、戻ってくるんですか?」
「うん」
蓮の声は柔らかかった。
「ただ、今はとても大切なことがある」
「その間のことは、今のところ君だけが知っている」
「僕がいない間、芸能界の動きを見ていてほしい」
蓮は伊織が断るかもしれないと少し怖かった。先に伊織を傷つけたのは自分だからだ。
しかし伊織はそんなことを考えていなかった。蓮が戻るかもしれない。それだけで彼に希望が戻った。
「任せてください、蓮さん」
「俺がちゃんと見ています」
「あなたが戻ってくるまで」
「何があっても、俺はずっとあなたを支えます」
蓮は涙が落ちそうになった。最近はどうしてか、すぐ泣きたくなる。
「ありがとう」
電話を切ると、蓮は朔へ連絡した。ほどなくして、朔と律が飛鳥の家に来た。
朔は飛鳥を見るなり、先に口を開いた。
「久しぶりだな」
飛鳥は笑みを返した。彼はこの兎が昔と少し違うように感じた。気のせいかもしれない。
「座って」
飛鳥は茶杯を取り、軽く口をつけた。
「蓮のことは聞いている?」
朔は頷いた。
「清司のためにここまでするとは思わなかった」
そう言いながら、蓮を一瞥する。
「それに、お前のような古株が手を貸すのも珍しい」
飛鳥は笑うだけだった。ただ蓮を見る目の甘さは、清司にも劣らなかった。
飛鳥の見えないところで、朔の目に一瞬だけ嫉妬が浮かんだ。すぐに押し込められた。
蓮は飛鳥を見上げた。
「始められますか」
「飛鳥、本当にありがとうございます」
「冥府に行ったあとは、何があっても清司を優先してください」
飛鳥の胸に針が刺さった。それでも彼は表に出さなかった。
「馬鹿なことを言わないで」
「君を一人で危険に向かわせるわけがない」
蓮は唇を噛み、薬を一気に飲んだ。苦みに眉が寄る。次の瞬間、身体から力が抜けた。
飛鳥は彼を受けとめ、ベッドに横たえた。
律が心配そうに聞いた。
「蓮は大丈夫なのか」
「大丈夫」
飛鳥は首を振った。
「僕の薬で事故は起きない」
あとは肉体を守る者に任せるしかない。
朔はベッドのそばへ進み、妖力で屏障を張った。蓮の肉身を包み込むように守る。
蓮の生魂が少しずつ身体から離れていった。飛鳥も座禅を組むように座り、自ら魂を抜き出す。彼は透明な大鵬鳥の姿になった。
蓮はベッドの横に立ち、そこに眠る自分を見た。それから自分の手を見る。
透けている。
本当に身体から離れたのだ。
大鵬鳥が身を低くし、蓮を背に乗せた。やがて二人は一本の枯れ井戸を通り、黄泉の第一の関へ入った。
黄泉。
そこは黄砂に覆われ、見渡す限り砂漠のようだった。陰風がときおり砂嵐を巻き上げ、蓮は目を開けていられない。
遠くに人影の群れが見えた。近づいてきたそれらを見て、蓮は思わず声を上げそうになった。
古代の甲冑をまとった兵たちだった。顔は青黒く、生気がない。一目で生きている者ではないと分かった。
飛鳥はすぐに蓮の口を手で塞ぎ、横へ引いた。兵の列が通り過ぎるのを待ってから、ようやく手を離す。
「あれは黄泉兵だ」
飛鳥の声は厳しかった。
「少しでも捕まれば、ここで迷うかもしれない」
「だから必ず僕についてくるんだ」
蓮はよく分からないまま頷いた。彼は初めてこういう場所に来た。胸の中にはただ一つの思いしかない。
早く清司を見つけたい。
「清司はどこにいるんですか」
「妖と人間は違う」
飛鳥が説明した。
「人が死ねば閻魔庁の管轄になる」
「妖が自滅した場合、魂核が砕けても、わずかな精魄が冥府へ入る。冥王の管轄だ」
蓮は頷いた。妖と人間では死後の行き先も違うらしい。
すべて自分のせいだ。
自分が意地を張らなければ、清司はあんなことをしなかった。何もかも、ここまでこじれなかったかもしれない。




