眠る魔と揺れる心
蓮は朔の家のソファに座り、罪を犯した子供のように俯いていた。濡れた服は拭かれていたが、顔色はまだ青白かった。
朔は向かいに座り、長いあいだ彼を見てから口を開いた。
「本当にやるつもりか」
蓮は迷わず頷いた。
「もちろんです」
朔は彼を見つめた。心の奥に固まっていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。少なくとも清司は、自分の想いを無駄にしたわけではなかった。この人間は忘恩の徒ではない。ただ、二人とも頑固で、不器用すぎた。
だが清司は朔の友人だ。何千年もの友が突然死んだのだから、痛くないはずがない。しかも隠り世にも清司が必要だった。あるものを解く方法を知っているのは、清司だけなのだ。
朔にも私心はあった。
それを認めた。
「決めたのなら」
朔は低く言った。
「お前の肉体は私が守る」
「だが覚えておけ、佐伯蓮」
「冥府では一歩間違えれば死ぬ」
「本当に覚悟しているな」
蓮は顔を上げた。
「覚悟しています」
自分の身の安全などどうでもよかった。清司が戻れるかどうかだけが大事だった。
「いい」
朔は背を向けた。
「鷹宮飛鳥のところへ行け」
「準備ができたら知らせろ」
「こちらはいつでもいい」
蓮は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お前を助けるわけではない」
朔は冷たく言った。
「清司を助けるだけだ」
蓮が去ったあと、律は背後から朔を抱きしめた。だが朔は初めて、その腕をそっと押し返した。
律は固まった。
「朔」
「最近、おかしい」
「何が起きているのか、教えてくれ」
朔は俯いた。声は小さく、何かを隠しているようだった。
「考えすぎだ」
「何も変わっていない」
律は彼の手をつかんだ。朔が顔を上げると、その目は赤く染まっていた。
「朔……」
律が頬に触れようとすると、朔はその手を払いのけた。顔を背け、律を見ようとしない。
「見ないで」
律の胸が痛んだ。朔に何かが起きているのは、もう疑いようがなかった。彼は慎重に朔の顔をこちらへ向けさせた。朔はまだ目を上げようとしない。
律は彼の頬にそっと口づけ、耳元で低く囁いた。
「どんな姿になっても」
「俺はずっとお前を愛している」
「朔」
朔の胸が微かに熱を帯びた。彼はゆっくり律を見た。
「私は、別の何かになってしまうかもしれない」
律はすぐに強く抱きしめた。
「なぜだ」
朔は長く沈黙し、ようやく話した。
「数千年前、隠り世と魔界が戦った」
「泰元老が、ある魔を私の身体に封じた」
「清司が精気を渡してから、その何かが目覚めはじめている気がする」
朔は律を見られなかった。魔が本当に目覚めたら、律を傷つけるかもしれない。それなら一人で隠れたほうがいいとさえ思った。
律の手は震えた。だが次の瞬間、彼は朔をさらに強く抱きしめた。
「一人にはしない」
朔は彼の胸に顔を寄せた。律から見えないところで、その唇にごく淡い邪笑が浮かんでいた。
一方、蓮はその夜のうちに飛鳥の家へ向かった。
飛鳥は病院の救急対応を終えたばかりで、全身に疲労をまとっていた。最近は病院も忙しく、自由に動ける時間は少ない。だが医師という身分を選んだ以上、命には責任を持たなければならなかった。
玄関先にずぶ濡れで立つ蓮を見て、飛鳥の顔色が変わった。
「飛鳥」
蓮の声はひどく掠れていた。
「朔が協力してくれることになりました」
「あなたに、どうしても助けてほしい」
「あなたが助けてくれなかったら、もう誰に頼ればいいか分からない」
言い終える前に、蓮は足元から力が抜け、飛鳥の腕の中へ倒れ込んだ。
飛鳥は彼を抱きとめた。部屋へ運び、乾いた服に着替えさせ、生姜湯を作り、妖力で体の中の冷えを少しずつ抜いていった。
ベッドで眠る蓮を見つめながら、飛鳥の目に深い切なさが浮かぶ。
飛鳥が初めて蓮を見たのは、ずっと昔だった。まだ小さかった蓮が、傷ついた小鳥を助けていた。飛鳥が目を覚ました時、その子供はもういなかった。
彼はその子を長く探した。もう見つからないと思っていた。
ある日、画面の中で彼を見つけるまでは。
その瞬間、心臓を撃ち抜かれたようだった。
名前を知った。
佐伯蓮。
まだ大きな名声はないが、仕事に真摯で、目を離せなくなる俳優だった。
気づかないうちに、飛鳥はその青年を愛していた。自分のものにしたいとさえ思った。
けれど再会した時、蓮の胸には傷があり、その傷の奥には別の妖が住んでいた。
白銀清司。
あの狐は、一歩早かった。
飛鳥は誰を恨むわけでもない。ただ羨ましかった。蓮にそこまで愛される清司が羨ましかった。
蓮が自分をちゃんと見てくれたら、話してくれたら、すべてを捨てて自分と遠くへ行ってくれたら。そんな願いは、ただの錯覚だった。
蓮の心には清司しかいない。冥府へ行く意味を知っても、蓮は迷わず進む。
飛鳥は蓮の髪をそっと撫でた。
友人として、これからもこの小さな子を守るのなら、きっと拒まれないだろう。
眠る蓮がもぞりと動き、飛鳥の掌に頬をすり寄せた。猫のような仕草に、唇には幸せそうな笑みまで浮かんでいる。
飛鳥はその笑みに引き寄せられ、思わず顔を近づけた。
その時、蓮がかすかに呟いた。
「清司……」
飛鳥の動きが止まった。
結局、自分の考えすぎだったのだ。
蓮のすべては、清司だった。
鷹宮飛鳥は、ただ黙って守る者にすぎない。




