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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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狐が消えた夜

 蓮が撮影現場を離れた時、空はもう暗くなっていた。彼は荷物を車へ置いた。しばらく芸能界を離れると決めた以上、いずれ記者会見も必要になるだろう。少なくとも噂を放置し、伊織一人にすべてを背負わせるわけにはいかなかった。


 遠くの影の中で、清司は蓮を見つめていた。蓮の一挙一動が、彼の目に焼きつく。


 近づきたい。


 けれど、近づけなかった。


 飛鳥が清司の隣に立った。


「追いたいなら、どうして追わない?」


 清司は目を閉じた。今の自分に、蓮の隣に立つ資格などあるのだろうか。自分がすべてを壊した。それは分かっていた。蓮が自分のせいで夢を手放そうとしているのも分かっていた。


 後悔している。だが、どう償えばいいか分からない。蓮がそこまで強く決めたのなら、自由にしてやったほうがいいのではないか。


「お前は今、嬉しいんじゃないのか」


 清司は苦笑した。


「欲しかったものが手に入るかもしれないんだから」


 飛鳥は遠くの蓮を見つめた。


「狐、お前は間違っている」


「蓮はそういう人じゃない」


「たしかに、彼は僕と一緒にいてもいいと言った」


「でも、僕に触れることは許さなかった」


 飛鳥は夜空を見上げ、自嘲するように笑った。


「彼の心には、お前しかいない」


 もし最初に蓮に出会ったのが自分だったなら。もし最初に蓮と契約したのが自分だったなら。蓮は自分を見てくれただろうか。


 だが縁とは不思議なものだ。一歩遅れたら、永遠に遅れる。


「そうか」


 清司は懐から煙草を取り出し、一本を飛鳥に差し出した。飛鳥は首を横に振った。


「僕はそういうものは吸わない」


 彼は現世に長くいたが、煙草の匂いも、あの腐敗したような倦怠感も好きではなかった。清司は何も言わず、自分で一本に火をつけた。


 煙が夜に溶ける。以前の清司は、人間が作ったものに価値など感じなかった。けれど今は、自分がただ知らなかっただけかもしれないと思う。


 彼は煙草を挟んだ指の向こうに蓮を見た。


 あの人間は、かつて自分のものだった。


 今は違う。


 夜が完全に落ちたころ、劇組が蓮のために開いた最後の食事会が始まった。来るべき人は皆来た。来るべきでない人も来た。清司は遠藤の隣、蓮の真正面に座っていた。


 卓上には多くの料理が並び、それぞれの前にはビールが置かれていた。けれど誰も箸をつけなかった。ただ蓮を見ていた。


 蓮は目の赤い人々を見て、申し訳なさで胸が詰まった。この決断は急だった。誰にも相談しなかった。皆が受け入れられないのは当然だ。


 蓮は立ち上がり、グラスを持った。


「この一杯は、まず皆さんに」


「これからの日々が、どうか順調で、もっと明るいものになりますように」


 言い終えると、蓮は杯の酒を一気に飲み干した。ほかの者たちも黙ってそれに続いた。料理にはまだ誰も手をつけない。


 伊織は笑い、顔を横へ向けた。自分の表情を見られたくなかったのだろう。それから彼はグラスを掲げた。


「蓮さん」


「あなたと知り合ってから、ずっと世話になりました」


「一緒に進んで、一緒に耐えてきました」


「今は離れると決めたとしても、いつか戻りたいと思ったら――」


 伊織の声がかすれた。


「俺はいつでも、あなたを待っています」


 蓮の喉が詰まった。苦しくて、まともな言葉にならない。


 最後に、ただ一言だけ絞り出した。


「うん」


 伊織は酒を飲み干した。蓮もためらわず飲んだ。そのあと、ほかの人々も次々に杯を持ってきた。蓮は一杯、また一杯と飲み続け、目の奥が熱くなっていった。


 清司がとうとう彼の手首を押さえた。


「もう飲むな」


 蓮はその手を乱暴に振り払った。


「僕のことに、あなたは関係ありません」


 清司の顔色が沈み、彼は蓮を直接、個室の外へ引きずり出した。廊下の端には人影が少ない。蓮は強く手を振り払った。赤くなった目で清司を睨む。


「あなたは何様なんですか」


「どうしてそんなに僕に構うんですか」


 清司は蓮の後ろ首を押さえ、勢いのまま唇を奪った。今の自分がどうなっているのか、清司にも分からなかった。ただ、蓮が酒を飲む姿も、強がる姿も、芸能界を去ろうとする姿も、自分を蓮の人生から押し出していく姿も、すべて見ていられなかった。


 蓮は必死に抵抗した。けれど人間の力が妖狐にかなうはずもない。長い時間が過ぎて、清司がようやく離れた時、彼の唇には血が滲んでいた。


 蓮が噛んだ血だった。


「清司、あなたは狂っているんですか」


 蓮は怒鳴った。


「僕たちはもう何の関係もありません」


「どうしてそんなことをする権利があるんですか」


 清司は唇の血を舐めた。痛い。けれど胸の痛みのほうがずっと強かった。


「狂っている?」


 彼は笑った。だがその目に笑みはなかった。


「ああ、俺は狂った」


「お前を狂うほど愛して、お前の欲しいものをすべて与えたいと思った」


「お前に心配をかけたくなくて隠れた」


「毎日、遠くからお前を見ていた」


「なのにお前は、ほかの男と近づいた」


 声はだんだん掠れた。胸が一枚ずつ剥がされるように痛んだ。清司はただ、本当のことを言いたかった。もう誤解されたくなかった。


 しかし蓮は耳をふさぎ、必死に首を振った。


「聞きたくない」


「そんな立派そうな理由なんて、聞きたくありません」


 清司は蓮を見つめた。目の光が少しずつ暗くなる。


「お前を行かせる」


「お前が少しでも幸せになれるなら、楽になれるなら」


「俺の存在が邪魔なら、お前の前から消える」


「二度と現れない」


 蓮の心臓が跳ねた。何かがおかしいと気づいた。


「清司――」


 清司は目を閉じ、掌に妖力を集め、自分の魂核へ直接打ち込んだ。


 それは普通の傷ではない。


 自ら魂核を砕く行為だった。


「だめ――」


 蓮は目を見開き、止めようと飛びかかった。だがもう遅かった。清司の身体は蓮の目の前で一筋の青い煙になり、ゆっくりと散っていった。


 最後に衣服だけが床へ落ちた。


 蓮はそこへ膝をつき、その衣服を抱きしめた。身体の中身をすべて抜かれたようだった。


「清司……」


 声にならない泣き声が、喉から裂けるように漏れた。


 蓮は清司に死んでほしかったわけではない。ただ、自分がどれほど痛かったか知ってほしかった。ただ、何でも勝手に決めないでほしかった。


 けれど清司は本当に消えてしまった。


 蓮の身体から、金色の光があふれた。光は清司の姿を映し出し、すぐに砕けた硝子のように散る。


 共生契約が切れた。


 清司が死んだことで、契約は自動的に解けた。


 蓮は信じたくなかった。衣服を抱きしめる手に力を込めた。強く抱きしめれば、清司がまた現れる気がした。


 まもなく宵宮朔が駆けつけた。床に落ちた衣服を見た瞬間、彼の顔から血の気が引いた。


「清司は?」


 蓮は虚ろな目で答えた。


「死んだ」


 朔の身体が揺れた。今しがた清司の命星が落ちたのを見て、それでも信じられなかった。だが目の前の光景は、否定を許さなかった。


「どうして」


 朔は顔を上げ、瞳を赤く染めていった。


「どうしてこうなったのか、説明しろ」


 早乙女律が咄嗟に朔を抱きしめた。嫉妬している余裕などなかった。今の朔は危険だった。朔が本当に失控した時の破壊力を、律は知っている。


「殺してやる」


 朔は蓮を睨みつけた。


「清司が、お前のために何をしたか知っているのか」


「この恩知らずの人間が」

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