夢を手放す夜
「佐伯君、自分が何を言っているのか分かっているのか」
遠藤輝彦の声が撮影スタジオに響いた。怒りを押し殺しているのに、そこにはどうしようもない焦りと狼狽がにじんでいた。
「白銀社長がいなければ、その役はとっくに製作委員会に切られていたんだぞ。なのに今さら降りると言って、説明の一つもない。佐伯君、それはあまりにも恩知らずじゃないのか」
周囲は静まり返った。照明はまだ点き、カメラも所定の位置に据えられているのに、スタッフは誰も動けなかった。全員の視線が蓮に集まり、その隙間から白銀清司の顔色をうかがう者も少なくなかった。
蓮はその場に立ったまま、麻痺したように平静だった。
恩。
結局、自分は最後まで感謝しろと言われるのか。
清司がいなければ、自分はこの世界でとっくに消えていた。清司がいなければ、『浮遊面』に触れる資格もなかった。清司がいなければ、これまで積み上げてきた努力さえ、誰かの一言で簡単に消されるものになってしまうらしい。
なんて皮肉だろう。
蓮は小さく笑った。
「遠藤監督」
「僕はもう、この業界には関わりません」
「この役は、ほかの方に替えてください」
遠藤がさらに言い返そうとした瞬間、清司が冷たく彼を見た。その視線だけで、遠藤は喉を締めつけられたように言葉を失った。
その時、黒沢明彦が横から歩み出た。彼は蓮の手首をつかみ、蓮の向こう側にいる清司をまっすぐ見据えた。
「あなたのせいじゃないんですか。佐伯さんがここまで追い詰められたのは」
明彦の声は低く、不甘心がはっきりと滲んでいた。
「あなたはずっと、彼のためだと言ってきた。でも本当に、彼が何を望んでいるのか分かっているんですか」
「もう彼から離れてください」
「あなたのためにも、彼のためにも」
遠藤の顔色が変わり、慌てて明彦の服を引いた。
「黒沢君、余計なことを言うな」
この場でそんなことを口にするなど、自分の命が惜しくないのか。けれど明彦は黙らなかった。蓮が望まないものに縛られ、演技を手放すほど追い詰められているのを、黙って見ていられなかった。
清司は目を閉じた。こんな結末を望んだことはなかった。蓮をここまで追い込むつもりなど、一度もなかった。
今回、清司が現世へ戻ってきたのは蓮のためだった。蓮を守るため、彼は現世に逃げ込んだ妖を処理し、黒蜘蛛の呪印を押さえ込み、蓮の身の安全まで気にかけていた。あの間、蓮を一人きりにしたかったわけではない。
ただ疲れていた。蓮に心配をかけるのも怖かった。戻れば少しずつ償えると思っていた。
けれど、それは間違いだった。
「なら、替えればいい」
清司は目を開け、静かな声で言った。
「佐伯蓮」
「自分でよく考えろ」
その言葉は、蓮の胸に石のように落ちた。重くはなかった。ただ、冷たかった。
伊織はとうとう見ていられなくなった。蓮がどれほど演技を好きか知っている。どれほど苦労してきたか、この役のためにどれほど準備してきたかも知っている。だからこそ、蓮が誤った決断をするのを黙って見過ごすことはできなかった。
「蓮さん」
伊織は一歩前に出て、声を震わせた。
「もう一度考えてください。勢いで決めることじゃありません」
蓮は彼を見た。二人は長く一緒にやってきた。一番苦しかった時期から、名前も呼ばれない現場、直前で差し替えられた役、誹謗中傷が怖くて携帯を開けなかった夜まで、伊織はずっと彼のそばにいた。
この世界でまだ何かを手放せないとすれば、伊織は間違いなくその一つだった。
蓮は伊織の肩を軽く叩いた。
「相棒」
「このところ、本当に世話になった」
「でも今回は、僕も本当に疲れた」
少し間を置き、蓮はさらに低い声で言った。
「お前も、もう離れていい」
伊織は呆然とした。目を大きく開いたまま、蓮の言葉が理解できないようだった。
自分にも離れろと言うのか。
これほど長く一緒にやってきて、数えきれないほどの問題を共に越えてきたのに、蓮は「疲れた」の一言で自分まで切り離そうとしている。
「蓮さん」
伊織の声は少しずつ掠れた。
「本気ですか」
「俺があなたについてきたのは、あなたならいつか必ず上に行けると思ったからです」
「あなたが立ち上がれば、俺も一緒にもっと高い場所へ行けると思っていました」
「それなのに今、あなたは諦めると言うんですか」
伊織は笑った。けれどその顔は泣くより苦しかった。
「じゃあ、これまでの俺の努力は全部無駄だったんですか」
蓮は目を閉じた。深夜まで現場で待って、たった二秒のカットを得た日。監督に怒鳴られ、顔も上げられなくなっても、それでも立ち上がった日。誰にも見られない稽古場で台詞や動きやワイヤーを練習し、怪我をしても痛いと言えなかった日。
どれも本物だった。どれも手放しがたかった。
それでも今は、本当に疲れていた。
天羽玲子が伊織のそばへ歩み寄り、そっと肩を叩いた。
「三浦さん」
「今は彼を追い詰めないで」
「崖っぷちに立っている人をさらに押したら、落ちるだけです」
伊織は奥歯を噛みしめ、何も言わなかった。莉央は母のそばで、大人たちの複雑な言葉を理解しきれないまま、蓮がもう演技をしないかもしれないことだけを感じ取っていた。
どうして。
あんなに上手なのに。
けれど母がいる前で泣きながら聞くこともできず、莉央は玲子の服の裾を握りしめ、目を赤くしていた。
清司は背を向け、淡々と言った。
「もういい」
「これ以上、彼を無理に引き止めるな」
「行きたいなら、行かせてやれ」
伊織は思わず清司を見た。この男はどうして今そんなことが言えるのか。本当に蓮を分かっているなら、蓮がどれほど未練を残しているか分かるはずだ。これは手放すことではなく、突き落とすことに近かった。
それでも蓮は頷いた。
「もう、誰も何も言わないでください」
「荷物をまとめたら出ます」
そう言って、蓮は更衣室へ向かった。
森田萌奈はその場に立ち尽くしていた。今の会話をすべて聞いてしまった。蓮が全ネットで嘲笑され、アンチに追われ、そこから少しずつ名誉を取り戻していく姿を、彼女はずっと見ていた。彼女がこの業界を選んだ理由の一部にも、蓮がいた。
ようやく憧れの人と同じ現場で働けるようになったのに、その人はもう去ると言う。
萌奈には分からなかった。
彼女は蓮を追って更衣室に入り、小さく声をかけた。
「蓮さん」
「本当に行ってしまうんですか」
蓮の手が止まった。振り返ると、少女の目は赤く、今にも泣き出しそうだった。蓮は鞄から最後の一枚の名刺を取り出し、彼女の手に乗せた。
「これが最後の一枚です」
「君にあげます」
名刺には佐伯蓮の名前と事務所の連絡先が印刷されていた。萌奈はそれを見つめ、ぽろりと涙を落とした。
蓮は慌てた。
「森田さん、泣かないで」
「何か言いたいことがあるなら、ちゃんと聞くから」
けれど萌奈は突然、蓮の胸に飛び込んだ。初めてで、そしておそらく最後の勇気だった。
「蓮さん」
「この世界を離れないでください」
「私みたいに、あなたを必要としているファンがまだたくさんいます」
「あなたの演技は、私たちにとって本当に大切なんです」
蓮の目にも熱がこみ上げた。自分は間違っているのだろうか。けれど決めたことはもう口にしてしまった。戻る道はない気がした。
蓮は萌奈の背を軽く叩いた。
「大丈夫」
「いつかまた、君たちに会いに来るよ」
「ただ、その時は俳優としてじゃなくて」
「友人として」
萌奈はさらに激しく泣いた。
そこへ伊織も入ってきた。彼の目も赤かったが、どうにか泣かずに耐えていた。蓮のそばに最も長くいたのは彼だ。誰よりも、この決断がどれだけ残酷か知っていた。
「蓮さん」
伊織は苦い笑顔を無理に作った。
「そこまで決めたなら、今夜、少し飲みに行きましょう」
「お別れのつもりで」
蓮は彼を見て、最後に頷いた。
「分かった」
荷物をすべてまとめたあと、蓮はもう一度、現場の人たちを見て回ろうとした。テントへ入ると、この数日の光景が次々とよみがえった。照明、カメラ位置、台詞、莉央の笑顔、遠藤が「カット」と叫ぶ声、そして初めてヴェドの衣装に袖を通した時の、あの戸惑いと高揚感。
本当は未練があった。
ただ、認めるのが怖かった。
「惜しいなら、どうして行くの?」
コーヒーの紙カップが差し出された。蓮が顔を上げると、鷹宮飛鳥が立っていた。
「どうしてここにいるんですか」
蓮は眉をひそめた。
「病院にいるはずでしょう」
飛鳥は小さく笑った。
「清司についてきたんだ」
「さっきのことは全部見ていた」
彼はコーヒーを蓮に渡した。
「去りたくないなら、残ればいい」
「君は自分の仕事をすればいいだけだ」
「君を好きな人はたくさんいる。どうして彼らを失望させる必要がある?」
蓮はカップを受け取ったが、飲まなかった。
「気持ちの整理がつかないんです」
声はとても小さかった。
「清司は僕を置いていった」
「また置き去りにされるのが怖い」
「もう彼に何かを借りたくない」
蓮はそっと目尻を拭った。飛鳥の胸がきゅっと痛んだ。病院で初めて蓮と向き合った時も、彼はこんな目をしていた。雨に置き去りにされた小動物のように、痛みで壊れそうなのに平気なふりをしている目だった。
飛鳥は思わず手を伸ばした。
「蓮」
「僕と契約しよう」
蓮は顔を上げた。
契約。
彼はすでに一度契約している。それでも、もう一度できるのだろうか。
飛鳥の掌に金色の妖気が浮かび、体にも光が宿った。彼は蓮の内へ入って契約しようとした。だが、その妖気が蓮に触れた瞬間、より深く強い契印がそれをはね返した。
飛鳥の瞳が大きく見開かれた。
共生契約。
まさか、共生契約だったとは。
彼は呆然と蓮を見つめた。白銀清司が自分自身をどれほど追い詰めていたのか、初めて本当の意味で理解した。
蓮は不思議そうに彼を見た。
「どうしたんですか」
飛鳥はゆっくり手を引いた。喉の奥が詰まる。
「何でもない」
ただ、あの狐は君をそれほどまでに愛していたのだ。




