もう演じない決意
飛鳥は眉をひそめた。
清司の様子が明らかにおかしい。だが今は、まず人を救うことが先だった。
彼は素早く踏み込み、若い男を清司の手から引き離す。
清司の背後で九尾が開いた。
半死半生の男が顔を上げ、その九つの尾を見た瞬間、気を失った。
それは人間の理解を超えた光景だった。
飛鳥は手を振り、周囲の時間を止めた。銀針を取り出し、指先に挟み、いつでも攻撃できる姿勢を取る。
「余計なことをするなと言った」
清司は爪先の血を舐めた。
「どうしてわざわざ口を出す?」
血の匂いが濃かった。普通の通行人が見れば、その場で倒れてもおかしくない。
飛鳥は首を振った。
清司と深い付き合いがあるわけではない。むしろ、恋敵と言っていい。だが彼が無関係な人間を傷つけるのを、黙って見ていることはできなかった。
「清司」
飛鳥は低く言った。
「理性を保ってください」
「今のあなたは、人を殺す妖怪と何が違うんですか」
「蓮は、そんなあなたを好きになりません」
蓮の名を聞いて、清司はわずかに動いた。
蓮。
蓮はもう、自分を好きではないのかもしれない。
どうすればいいのかも分からない。
もう自分勝手にはできない。
蓮の記憶を再び消すこともできない。
あの瞳にあった決意と拒絶を、彼は覚えていた。
清司は手を下ろした。
「あいつは、お前のものだ」
一語ずつ、吐き出すように言った。
「記憶は返した」
口元の苦さは深まるばかりだった。
飛鳥は眉を寄せる。
この狐が本当にそこまで譲るとは思っていなかった。だが清司の様子を見れば、何があったのか大体は分かる。
彼は、人の弱みに付け込む性格ではなかった。
「僕は蓮を追いかけます」
飛鳥は言った。
「でも最後にどう選ぶかは、蓮自身が決めることです」
「僕は、彼に幸せでいてほしい」
「誰かの一方的な欲のために生きてほしくない」
清司は一瞬固まった。
そして笑った。
自分にも、まだ機会はあるのだろうか。
飛鳥は若い男から妖怪に関する記憶を消し、簡単に傷を止めた。命に危険がないと確認してから、清司と共にその場を離れる。
一方、蓮は『浮遊面』の撮影現場へ向かった。
遠藤監督はほとんど走るように近づいてきた。
「佐伯君!」
「やっと来てくれたか」
「君ひとりで、どれだけ進行が止まったと思っているんだ」
蓮は無表情に彼を見た。
口元に、皮肉に近い笑みが浮かぶ。
「この作品、降ります」
「誰を使いたいなら、そうしてください」
遠藤は目を見開いた。
「何だって?」
蓮は静かに繰り返した。
「俺はもう演じません」
伊織も固まった。
「蓮?」
不安そうに彼を見る。
「最近、本当にどうしたんですか?」
「この前の怪我がまだ治ってないんじゃ……」
蓮は首を振った。
心ははっきりしていた。
白銀清司がいなければ、そもそもこの作品に関わることはなかった。清司と終わった今、この役を続ける意味もない。
高橋真紀がそばから歩いてきた。
彼女はずっと、蓮が自分を頼ってくるのを待っていた。けれど蓮は一度も来なかった。
だからこそ、彼女はさらに彼を評価した。
実力があり、意地があり、底もある。
ほかの俳優なら、ここまで執着しなかったかもしれない。
「佐伯君」
真紀は微笑んだ。
「うちの事務所に来ることを考えてみない?」
「あなたのような人材が、ちょうど必要なの」
蓮は彼女を見る。
「ありがとうございます」
「でも、しばらく芸能界から離れようと思っています」
その言葉に、周囲の全員が固まった。
蓮が『浮遊面』でどれほど力を注いできたか、現場の人間は見ていた。真紀も惜しいと感じた。こんな俳優が突然去るのは、芸能界にとっても、自分にとっても損失だった。
「佐伯君」
真紀の声が真剣になる。
「そういうことは、慎重に考えた方がいいわ」
「小さな問題ではないから」
蓮は首を振った。
これは長く考えた末の決断だった。
「高橋さん」
「もう決めました」
「尊重してください」
遠藤は泣きそうな顔をした。
「でも、私はどうすればいいんだ?」
「これは白銀社長が決めた企画だ」
「私に白銀社長を敵に回す力なんてない」
「佐伯君、頼む。助けてくれないか」
白銀社長。
蓮は心の中で冷笑した。
人の心を盗んだ妖怪にすぎない。
そして今、彼はその妖怪を完全に見透かしたと思っていた。
「遠藤監督」
蓮の声は淡かった。
「俺には力がありません」
「別の人を使ってください」
天羽莉央が蓮の前へ来た。
彼女は見上げ、目に名残惜しさを浮かべている。
「蓮」
「あなたは、本当にすごい俳優だよ」
「お願い。やめないで」
蓮の胸が少しだけ柔らかくなった。
彼は手を伸ばし、莉央の頭を撫でる。
「いい子だね」
「また見に来るよ」
莉央の目に涙が溜まる。
そこへ天羽玲子も歩いてきた。莉央はすぐ彼女のそばへ戻る。
玲子は蓮を見て、穏やかだが真剣に言った。
「佐伯君」
「先輩として、一つだけ言わせて」
「この件は、必ずよく考えて」
蓮は頷いた。
「ありがとうございます」
遠くから清司の声がした。
「本当に行くつもりか?」
「自分の俳優人生を捨てるのか?」
蓮の身体がわずかに強張った。
横を向き、清司を見ないようにする。
まだ、この人と向き合う準備はできていなかった。
遠藤は救い主を見つけたように清司を見た。
「白銀社長、私もどうしたらいいか分からなくて」
「私たちは佐伯君を高く評価しているんです。ただ――」
「黙れ」
清司の冷たい視線が飛ぶ。
「俺が離れていた間に、お前が何をしたか知らないと思うな」
遠藤の心が冷えた。
彼はただ、別の出資者に迫られて降板を決めただけだった。白銀社長と連絡が取れず、やむを得なかっただけだ。
それが、どうしてここまで罪になるのか。
清司は蓮の前に立ち、そっとその顎を持ち上げた。
「俺の目を見ろ」
「本当に、もう芝居をしたくないのか?」
蓮は頑なに彼を見つめ返した。
一語ずつ、はっきり言う。
「はい」
「もう演じません」
清司の心はまた、鋭く刺されたように痛んだ。立っているのもつらいほどだった。
今まで気づかなかった。蓮は、ここまで頑固な人間だったのか。
自分が間違えたことは分かっている。
だから今、あらゆる方法で埋め合わせようとしている。
それなのに、この人はその機会さえ与えてくれない。
少しも。
「佐伯蓮」
清司の目元が赤くなる。
「お前が俺とどうやって出会ったか、忘れたのか?」
「芝居だっただろう」
「今は感情で投げ出す時じゃない」
「この作品を、最後まで演じきれ」
蓮は清司を見た。
一瞬、自分の見間違いかと思った。
清司の目には本当に涙があった。
ただ、彼はそれを落とそうとしない。
清司が自分の心を盗んだくせに、どうして今さら傷ついた顔をするのか。
蓮はその手を乱暴に払いのけた。
「これは俺のことです」
声は冷たかった。
「白銀社長」
「俺たちはもう、絶交しました」
現場は静まり返った。
遠藤は目を丸くしていた。
白銀社長に取り入ろうとしても機会さえない人間が、世の中にどれだけいるか分からない。その相手に、佐伯蓮は人前でここまで関係をこじらせた。
これは白銀社長の逆鱗に触れるつもりなのか。
けれど高橋真紀は蓮を見つめ、目の奥にさらに深い評価を宿していた。
この人間を自分の事務所へ入れれば、未来は今の何倍も大きくなる。
もう一度考える必要がある。
どうやって、彼を引き抜くかを。




