返された記憶
蓮は長い時間、部屋にこもっていた。
カーテンは閉め切られ、室内は暗い。清司がコーヒーを一杯持って入ってきた時、蓮はベッドの端に座り、はっきりと目を開けていた。
彼は、自分の記憶が欲しかった。
たとえ苦しくても、自分で背負うべきものだった。
清司がコーヒーを渡すと、蓮はその手をつかんだ。
「清司」
「俺の記憶を返して」
「何も知らないまま、ぼんやりしていたくない」
清司は首を振った。
「蓮」
「俺を信じろ。お前のためだ」
「いい子にしてくれないか」
蓮は突然、コーヒーカップを壁へ投げた。
カップがぶつかり、床に破片が散る。
「あれは俺の記憶だ」
蓮は目を赤くして彼を見た。
「君が勝手に消していいものじゃない」
清司はわずかに眉を寄せ、何も言わなかった。
そのまま部屋を出る。
蓮は膝を抱えてベッドに座り、混乱の中へ取り残された。
どうしたらいいのか、本当に分からなかった。
その夜、清司は寝室へ戻らなかった。ひとりでソファに横になり、一晩を明かした。
翌朝、蓮が目を覚ますと、目元が赤く、明らかに眠れていなかった。
清司が顔に触れようとすると、蓮はその手を叩き落とす。
「触るな」
その目は氷のようだった。
清司の胸が裂ける。
どうして、こんなふうになってしまったのか。
彼はただ、もっと簡単にしたかった。以前のように、蓮と過ごしたかっただけなのに。
「蓮」
清司は低く懇願した。
「そんなふうにしないでくれないか」
「昔みたいに戻ろう」
蓮は冷たく笑った。
「なら、俺の記憶を返して」
清司は目を閉じた。
最後に、彼は蓮の額へ手を置いた。
失われた記憶が、潮のように蓮の中へ戻ってくる。
病院。
失踪。
飛鳥の告白。
自暴自棄になって、付き合ってもいいと言った自分。
清司の帰還。
激しい口論。
そして「俺たちは終わりだ」と告げた自分。
すべての痛みが、もう一度蓮へ降りかかった。
蓮の目が少しずつ真っ赤になる。彼は手で目を覆った。
「出ていって」
清司は最初から分かっていた。戻すべきではない記憶だった。けれどそれは確かに蓮のものだ。永遠に隠しておく資格は、彼にはなかった。
「蓮」
声が掠れる。
「本気で言っているのか?」
蓮は努力して頷いた。
「本気だ」
清司は苦い笑みを浮かべ、部屋を出た。
その背中を見て、蓮の胸は引き裂かれるように痛んだ。
こんな結末が欲しかったわけではない。
それでも彼は、まだ清司が好きだった。
好きだからこそ、また置き去りにされるのが怖い。
最後がどうせ見捨てられることなら、早く孤独に慣れた方がいい。
清司は家を出たあと、ひとりでバーへ行った。
どれほど飲んだのか、自分でも分からない。
灯りは目に痛く、音楽は鼓膜を震わせた。周囲では誰かが声をかけ、誰かが笑い、誰かが彼の容姿と雰囲気に視線を向ける。
ただ、すべてが煩わしかった。
水瀬琴音は、いつの間にか同じバーにいた。
清司を見つけた瞬間、彼女の目が輝く。伊織を失い、蓮への線も失った今、白銀清司は彼女がつかめる最後の可能性だった。
彼女は酒を手に近づく。
「白銀社長」
清司はまぶたさえ上げなかった。
ほどなく、金髪の女性客も近づいてきた。彼女も清司に明らかな興味を持ち、わざと琴音を押しのける。
琴音の顔色が変わった。
二人はすぐ口論になった。
「あなた、何様なの?」
「この人に触れる資格があると思ってるの?」
金髪の女も負けていない。反対に琴音を押した。
琴音はついに爆発し、相手の髪をつかむ。
「離しなさいよ!」
清司はグラスを置いた。
自分をめぐって争う二人の女を、見ようともしない。
くだらない。
彼は立ち上がり、バーを出た。
路地へ出たところで、半グレ風の若い男が行く手を塞いだ。
「おい」
男は清司を上から下まで見る。
「その格好、金持ちだろ」
「女二人があんたのことで喧嘩してるのに、ほったらかしかよ」
「あの金髪、俺が目をつけてたんだ」
「今度から見かけたら、避けて歩け」
清司は手首を鳴らした。
今日はただでさえ苛立っていた。バーで女二人が騒ぎ、外へ出れば死にたいらしい人間が警告してくる。
最近、自分はそんなに温厚に見えていたのだろうか。
誰もが、彼に警告できると思うほどに。
次の瞬間、彼の拳が男の顔にめり込んだ。
男は反応する暇もなく吹き飛ぶ。
顔を押さえ、歯を食いしばった。
「てめえ、手ぇ出しやがったな」
清司はシャツの襟元のボタンを外し、手首を揉んだ。
口元には邪悪な笑みが浮かぶ。
すぐ、もう一発が落ちた。
若い男には、動きがまったく見えなかった。身体のあちこちを次々に打たれ、痛みで息をすることすら難しくなる。
地面に這いつくばり、口元から血を流しながら、どうにか起き上がろうとする。だが身体は動かなかった。
清司はその前に立ち、空虚な目で見下ろした。
「続けろ」
男の目に、ようやく恐怖が浮かぶ。
「な、何を……」
清司はさらに数発打ち込んだ。男は降参の言葉すら出せなかった。
「いいぞ」
清司の声は悪魔のようだった。
「もう一度だ」
「やめろ!」
背後から鷹宮飛鳥の声が響いた。
急患の現場から戻ってきたばかりの彼は、ここで清司が人間に手を上げているところを見るとは思っていなかった。
清司は目を細める。
どうしてどこにでも、この大鵬が現れるのか。
「嫌だと言ったら?」
彼は指先についた血を舐め、嗜虐的で見慣れない笑みを浮かべた。




