純粋な弟の闇落ち:彼を閉じ込めたい
まずい。
蓮はほとんどすぐに、清司が何をしようとしているのかを察した。
立ち上がり、二階の一番奥にある個室へ走る。さっき水野が向かったのはそちらだった。
清司に好き勝手させるわけにはいかない。
もし制作委員会やスポンサーの前で本当に手を出せば、蓮だけでなく、水野もドラマの全員も巻き込まれる。
蓮が扉の前へ駆けつけたとき、中から骨まで冷えるような声が聞こえた。
「誰かが彼の役を消すなら、そいつを殺す」
まばゆい金色の光が、扉の隙間から噴き出した。
蓮は思わず目を閉じる。
次に目を開けたとき、彼はすでに個室の中に立っていた。清司はすぐ隣にいる。白い髪が垂れ、金色の瞳には人間らしい感情がひとかけらもなかった。
個室の空気は凍りついたようだった。
制作委員会の責任者、スポンサー側の代表、芸能事務所の人間たちが、全員その場で固まっている。酒杯は宙で止まり、壁の時計の針は見えない何かに引きずられるように、ひどく遅く動いていた。
最初に反応したのは、中年の男だった。
「お前は何者だ。ここで好き勝手できると思っているのか。警備を――」
言い終わる前に、男は悲鳴を上げて床へ倒れた。
何が起きたのか、誰にも見えなかった。
蓮にははっきりわかった。清司の身体から溢れる暴虐的な妖気が、この個室ごと押しつぶしそうになっている。
「何をしている」
蓮は清司の手首を掴んだ。
「死ぬだろ」
こんなに現実味のある恐怖を覚えたのは、久しぶりだった。
だがこの瞬間、蓮にはわかった。誰かが止めなければ、清司は本当に人を殺す。
「人間の命か」
清司は横顔だけを向け、唇に残酷に近い笑みを浮かべた。
「私がそれを気にするとでも思うのか」
個室の人間たちはようやく、これは普通の人間にできることではないと悟った。
スマートフォンは圏外になり、扉は開かない。窓の外の街灯りは水越しに見ているように遠く、すべての音がこの異様な空間に閉じ込められていた。
「た、たかが一つの役じゃないか」
さっきまで交代を強く主張していた責任者が、震える声で言った。
「彼に渡せばいい」
ほかの者たちもすぐに同調した。
「佐伯さんは、もともとこの役にとても合っています」
「私たちは彼を否定したわけではありません」
「予定どおりで問題ありません」
清司は彼らを一瞥した。
全員の上にのしかかっていた力が、ふいに消えた。
次の瞬間、誰もが茫然と顔を見合わせた。
彼らは今起きたことを忘れていた。今夜の会食で何を争っていたのかも、記憶から薄れている。頭の中には一つの結論だけが残っていた。男三番手は最初から佐伯蓮であり、誰も異議を唱えていなかった。
蓮の視界が揺れた。
周囲はいつものリビングに変わっていた。
清司が彼を家へ連れ戻したのだ。
「何をした」
蓮は足元を安定させるなり、すぐに清司を見た。
「こんなことをしても、明日また変えられる。俺が脅したとでも言われるかもしれない」
清司は相手にしなかった。
彼はこめかみを揉み、いつもの窓台に腰を下ろした。
月光がその上に落ちている。
さっきまで人命など気にも留めないほど冷酷だった妖狐は、今、温度のない彫像のように静かだった。蓮はその月明かりの中に、死んだような悲しみを感じてしまった。
口を開きかけ、結局何も言わなかった。
いずれにしても、蓮は早く露出を増やさなければならない。
周囲に集まる人が増えれば、清司が宵宮朔を見つける可能性も上がる。あの人物が見つかって初めて、蓮の生活はもとの軌道に戻る可能性が出てくる。
何もかも自分で制御できない感覚は、蓮の不安を極端に煽った。
彼は制御不能が嫌いだった。
そして白銀清司こそが、すべての制御不能の源だった。
その夜、蓮はなかなか眠れなかった。
明け方になって、ようやくうとうとした。
翌朝、彼はけたたましいインターホンの音で目を覚ました。
「蓮さん、開けてください」
伊織は扉の外で、今にも板を叩き壊しそうな勢いでノックしていた。
蓮は朝の電話を三本とも取っていなかった。伊織は心配のあまり事務所から直接駆けつけ、蓮が一人で家の中で倒れていないか確かめに来たのだ。
幸い、この住宅地は家同士が離れている。近所を騒がせるほどではなかった。
蓮が扉を開けると、伊織はほとんど飛び込んできた。
「よかった」
興奮しすぎて、言葉がつながらない。
「蓮さん、来ますよ。今度こそ来ます」
蓮はキッチンへ向かい、コーヒーを淹れた。
「落ち着いて話せ」
伊織はソファに座り、必死に息を整えた。
「制作側が、やっぱり出演をお願いしたいと。しかもスポンサーが追加予算まで出すそうです」
蓮はコーヒーをテーブルに置いた。
「そうか」
伊織は彼のまったく動じない顔を見て、思わずため息をついた。
「蓮さんは何でもできるのに、そこだけ淡泊すぎます。まるで何にも興味がないみたいです」
「そうか」
伊織は完全に脱力した。
この知らせを伝えれば、少しは嬉しそうにしてくれると思っていた。だが蓮は最初から知っていたように、眉一つ動かさない。
もし台本いっぱいの書き込みを見ていなければ、伊織も彼に仕事への執着がないのだと思ってしまっただろう。
蓮はコーヒーを手に取った。
「向こうは何か言っていたか」
「特には。朝一番で連絡をもらって、そのまま来ました」
伊織はふと思い出し、声を少し落とした。
「ただ、昨夜いちばん神谷優を押していたスポンサー側の代表が、会食中に急な食あたりを起こしたそうです。同じテーブルの人は全員平気なのに、その人だけ嘔吐と下痢がひどくて、今も病院にいるとか」
蓮はソファの向こう側を見る。
清司は蓮が起きてからずっとそこに座り、淡々とした顔で、何も関係ないというようにしていた。
この男の力は、蓮が思っていた以上に恐ろしい。
蓮がそれ以上考える前に、ドラマの現場から電話が入った。
今日は蓮の撮影はないが、全員がクランクインの祈願と発表に参加することになっている。
水野悠介の新作が始動するとなれば、当然注目される。現場にはメディアが詰めかけ、何人かの主演俳優のファンや撮影アカウントの人間もいた。
蓮は取材エリアの前に立ち、職業上の微笑みを保っていた。
清司は横に立ち、ひどく退屈そうだった。
こういう場に入れるのは、基本的に媒体、スタッフ、関係者経由のファンだ。普通に考えれば、清司の探している相手がいるはずはない。
「佐伯さんに質問です」
人混みの中から、急に甲高い女性の声が響いた。
「制作側は一度あなたを降ろすと決めたのに、クランクイン直前で戻したって聞きました。本当ですか」
周囲の視線が一斉に向いた。
声を上げたのは、痩せた若い女性だった。専門のマイクは持っておらず、スマートフォンで配信しながら、片手には神谷優の応援うちわを握っている。
「あなたが何か、表に出せないことをしたんじゃないですか」
現場は一瞬で静まった。
伊織の顔色が変わる。
蓮は彼女の手にあるうちわを見て、おおよその事情を理解した。
神谷優のファンなのだろう。匿名掲示板やXで何か噂を見て、クランクイン発表の場へ乗り込んできたのかもしれない。
「その件について、私は知りません」
蓮の声は平らだった。
「制作側に確認してください」
女性は退かなかった。
「昨日の会食、ずいぶん盛り上がったそうですね。一度は交代で決まっていたのに、突然全員が意見を変えた。変だと思いませんか」
周囲でざわめきが広がる。
業界の話はすぐに流れる。数日前から、制作委員会が新人をねじ込もうとしているという噂は耳に入っていた者もいる。そこから急に方針が変われば、憶測を呼びやすい。
女性は蓮を睨んだ。
「佐伯蓮、あなたは何をしたんですか」
伊織の手のひらに汗が滲んだ。
蓮が納得できる説明をできなければ、たとえ何もしていなくても、何かをしたと勘繰られる。
蓮はただ淡々と言った。
「俳優の仕事は、一部は実力です」
少し間を置く。
「もう一部は、運です」
女性の顔が真っ赤になった。
「本当なら優くんがこの機会で大きく売れるはずだったのに、あなたが邪魔したんです」
感情が完全に切れたのか、彼女は突然バッグから果物ナイフを取り出し、真っ直ぐ蓮へ向かって走った。
周囲から悲鳴が上がる。
蓮は避けなかった。
自分が避ければ、隣のスタッフが怪我をするかもしれない。
けれど予想していた痛みは来なかった。
目を開けると、女性はすでに床へ倒れ、果物ナイフは人の輪の外へ飛んでいた。
彼女は起き上がろうとしたが、ふいに固まった。
清司の声が、彼女の耳元に落ちる。
「次に一言でも余計なことを言えば、動けない身体にしてやる」
女性には清司が見えていない。それでも、まったく逆らえなかった。
その声には、生まれつき人を従わせる力があった。
混乱はすぐにスタッフによって抑え込まれた。
媒体たちは先ほどの騒ぎを選択的に見なかったことにしたかのように、台本や役柄、今後の撮影予定について質問を始めた。取材が終わると、現場は正式に準備へ入った。
「蓮さん」
朝比奈旭が台本を手に歩いてきた。顔にはほどよい笑みを浮かべている。
「また一緒に仕事ができますね。この前は、本当に助けてくれてありがとうございました」
蓮はただうなずいた。
「ああ」
彼は伊織と一緒にその場を離れた。
旭はその場に立ったまま、顔の笑みを少しずつ薄めていった。
崖落ち事故から、二人は半月会っていなかった。蓮の回復はあまりに早い。まるで何もなかったようだった。
それでも、主役はまだ自分だ。
クランクイン発表は、このドラマにかなりの話題をもたらした。
ネットではすでに水野悠介の新作が語られ始めている。監督は受賞歴のある新鋭映画監督。主演は人気若手の朝比奈旭。ヒロインは人気女優の篠原雪乃。そこへ救助事故で注目を集めた佐伯蓮が加わった。
このドラマは、初日から話題を持っていた。
同じ頃、森崎悠真もテレビでクランクイン発表の映像を見ていた。
彼はすぐに蓮へ電話をかけた。
「蓮さん、またドラマに出るんですね。よかった。僕、一年待っていました」
「ああ」
「頑張ってください。僕も頑張ります」
蓮は珍しく少し笑った。
「わかった。ありがとう」
電話を切ったあと、森崎はスマートフォンを握ったままソファに座っていた。
蓮さんは、本当に優しい。
欲しい。
閉じ込めてしまいたい。
その考えが浮かんだ瞬間、森崎自身が固まった。
彼は自分の手を見下ろし、顔色を少しずつ失っていった。
どうして。




